悪役令嬢、保育に目覚める ~異世界だったとしても不貞だけは絶対にいけませんっ!~
「エレン・リヴィエール! 他に類を見ない陰湿な女め。貴様との婚約を破棄する!」
卒業を前に開催された夜会は侯爵令息の婚約破棄宣言で静まり返っていた。
周囲から哀れみの視線を受ける私は今日のために用意してもらった豪奢なドレス姿でへたり込んでしまった。
私、エレンって名前なの?
婚約破棄されたことよりも驚きだった。後頭部に鋭い痛みがはしり、二人分の人生を思い出す。
私は現世で死亡してこの伯爵令嬢の身体に転生した。
そして今、婚約破棄されたという有り様だった。
「貴様が虐めたことで彼女は傷つき、震えながら僕を頼ってくれたんだ。彼女から非道の数々を聞かせてもらったぞ。貴様のような悪女が由緒正しい侯爵家にふさわしいとは到底思えない!」
まくし立てる彼の背には同級生で美少女と評判の令嬢が隠れるように立っている。
彼女が告発した内容が全て虚偽で、私があらぬ疑いをかけられて糾弾されているのなら申し開きができるのだが……。
全部、本当なんだよなぁ。
頭の中にあるどの引き出しを開けても真っ黒だった。
記憶が戻るタイミングとしては最悪だが彼女が言ったであろうことは全部正しい。
私は本物の悪役令嬢だったのだ。
この婚約破棄も自業自得と言われれば、ぐうの音も出ない。
だから、今から真っ当に生きると決めた。
「分かりました。数々の無礼をお詫びします。お二人の幸せを心よりお祈り致いたします。では、私の顔など見たくないでしょうからこれで失礼いたします」
すっと立ち上がって二人に一礼する。
夜会用のドレスを翻した私が向かった先は職員室だ。
元婚約者である侯爵令息がごちゃごちゃ言っている間に状況は読み込めた。
婚約破棄されたのであれば、あんな所でへたり込んでいる場合ではない。
私は学園を卒業して嫁ぐ予定だった。
彼の子を産み、育てるのが私の仕事になるはずだったのに就職先がなくなってしまったのだ。
婚約破棄の事実を両親に知られる前に手を打たなければならない。
最悪の場合を想定して一人で生きていけるだけのお金を稼ぐ手段を探さないと。
校舎に隣接されたダンスホールでは華やかな夜会が開かれているのに、職員室で伸びをしている担任教師を見つけて駆け出す。
「先生、お願いです! 私に就職先をください!」
「リヴィエールさん!? あなた結婚するから仕事はいらないって言ってませんでした?」
「今さっき婚約を破棄されました。このままでは路頭に迷ってしまいます。どこでもいいので働き先が欲しいんです!」
困り顔の女性教師はぶつぶつと呟きながら席を立ち、棚から分厚い冊子を取り出して戻ってきた。
のぞき見ると卒業生たちの就職先一覧のようだった。
中には王国騎士団の名前もあり、実は優秀な生徒を輩出している学園なのだと知る。
眼鏡を上げながらページをめくる先生の手が止まった。
「ここならまだ募集しているわ。人手が足りないと嘆いていたから落とされることはないでしょう。ただ、長時間労働だけど大丈夫?」
「はい!」
見開かれたページをのぞき込んで二つ返事した。
卒業式目前に職場で顔合わせを行い、仕事風景を見学して無事に就活を終えた。
両親にはこっぴどく叱られたが、全ては過去の自分が悪いのだから反論はせずに反省の意を表明した。
◇◆◇◆◇◆
馬車に揺られて辿り着いた一つの建物。教会や修道院のようにも見えるその建物はいわゆる保育所だ。
主に男爵家や子爵家の子供を預かっている場で家庭教師や専属メイドを雇うよりも安い値段で子供を預かっている。
「今日からお世話になります、エレン・リヴィエールです。よろしくお願いします」
出勤初日。第一印象が大切だ。
ただでさえ学園での評判が最悪なのだから、ここで躓くと今後の業務に差し支える。
そう意気込んで挨拶したものの諸先輩方の反応は思わしくなかった。
「はい。じゃあ、エレンさんには仕事内容を教えるからこっちに来てちょうだいね」
場の空気を締めるように、ぱんっと手を叩いた年配のシスターの後を追う。
彼女がこの保育所の責任者であり、本当のシスターだ。
元々は別の土地で孤児院を営んでいたが、王都の近くに移り住んだことにきっかけにこの保育所を始めたらしい。
「ごめんなさいね。みんな緊張しているのよ。なにせ、あなたは伯爵家の御令嬢なんだもの」
ここで働いている人は庶民出身の女性ばかりだ。年齢は様々だが、私よりも身分が高い人はいない。
こうなることは入職前から予感していたとはいえ、あからさま過ぎて面を食らってしまった。
シスターに続いて一つの広い部屋に入ると元気いっぱいに走り回る子供たちがいた。
年齢は0歳から5歳程度だろうか。とにかく騒がしい。
子供たちの人数が50人程度に対して、職員は私を含めて8人。
「ここが子供たちの遊び場になっています。お昼寝の部屋は廊下を挟んで反対側」
「多いですね。みんな、貴族の子ですか?」
「いいえ、少ないですが庶民の子もいますよ。本当は身分に関係なくお預かりしたいのだけど。……色々と、ねぇ」
全部言わなくても分かるでしょ――という言葉が隠されていることは明らかだった。
それ以上は詮索せずに先輩方の仕事ぶりを見学する。
なんというか、忙しそうだ。
もっと効率的にできないものかしら、と思ってしまった。
ただ、相手が貴族の子供となればより気を使うのだろう、とも思った。
「子供に身分は関係ないけどね」
つい口からこぼれ落ちた言葉が癪に障ったのだろう。
泣いている赤ちゃんを抱いてあやしていた女性職員が私の前まで歩いてくる。
「じゃあ、あなたがやってみなさいよ。偉そうなことを言ってないでさ! 貴族のお嬢様か知らないけど、口先だけで使えないなら出て行きなさいよ」
鬼の形相で怒鳴るものだから抱かれている赤ちゃんが泣き叫んでしまった。
この責任は私にある。
丁寧に赤ちゃんを抱き寄せて優しく揺らす。軽く微笑みながら、少しでも安心できるように。
「……うそ、でしょ」
目を丸くする女性職員にベビーベッドへ案内するように目配せして、赤ちゃんを優しく寝かしつけた。
「シスター、仕事内容はやりながら覚えます。私に仕事を振ってください」
後にこの発言を後悔することになる、なんてことはなかった。
何を隠そう私の前職は保育士だ。
交通事故に遭って死ぬまでは現役バリバリで働いていたのだから、どうということはない。
ただこの世界と私が過ごした世界とでは考え方や子供との接し方が大きく異なっている。
やはり目立つのは子供の差別だ。
職員たちは意図的に行っているつもりはないのだろうが、子供たちに対する遠慮や彼らの背後にチラつく両親の影への畏れは見えてしまう。
初出勤の私が感じているのだから敏感な子供たちが気づいていないはずがない。
実際に年上の子たちは接する職員を選んでいるように見えた。
「よし。やってみますか」
腕まくりをして現代でいうところの年長さんに相当する背丈の集団に近づいた。
明らかに高級な服を着て、走り回る子供たちを一歩引いた目で見ている。
椅子を並べて静かに話している姿を見ていると、会議中か! とつっこみたくなってしまう。
「こんにちは。私はエレン・リヴィエールです。一緒に遊んでもいいかな?」
しゃがみ込んで目線を合わせて話しかける。
男の子は目を伏せがちに友達の方へ視線を彷徨わせ、女の子は高飛車に答えた。
「いいけど。楽しませてくれるんでしょうね」
難しい課題だが自信はある。
この世界で触れ合ったことのないものを教えてあげればいいのだ、と直感的に体が動いていた。
「もちろん。ルールを説明するから聞いてね」
子供用の椅子に座っている6人の男の子と女の子を見合わしながら説明を始める。
提案したゲームは日本では馴染みのあるフルーツバスケット。
要するに椅子取りゲームだ。
「もも!」
それぞれに割り振られたフルーツを呼んでは椅子を取り合い、呼んでは椅子を取り合い。繰り返すこと、なんと15回。
高飛車だった女の子が一番はしゃいでいた。
普段は大人しい子たちがはしゃいでいたのが気になったのか、ぞろぞろと他の子供たちも集まってきて、大所帯でフルーツバスケットをすることになった。
人数は多い方が面白いのは当たり前だ。
「鬼を二人にしようか」
年齢、身分を問わず、ごちゃ混ぜになって遊び倒すこの姿こそがシスターの理想とする姿なのではないかと思ってしまった。
「ねぇ! 次は!?」
飽きたらしい。
さっきよりも子供らしい笑顔を見せるようになった彼らに次の遊びを提供しようとしていると、遠くから叫び声にも似た声が聞こえた。
「誰かこっちに来てー!」
助けを求めているが声色から怪我などの緊急性はなさそうだ。しかし、呼ばれたからには行かないと。
「ちょっと待っててね」
「ちょっとってどれくらい?」
気の弱そうな男の子からの質問。
曖昧な言葉ではなく、明確に伝えないと彼らは困ってしまう。
浮き足立って、配慮が欠けていたことを反省しながら訂正する。
「鬼があと3回変わる頃に戻ってくるよ」
子供たちの納得顔を見届けて女性職員の元に向かうと4歳ほどの男の子が廊下で粗相をしていた。
さほど慌てる場面ではないが、対応している女性職員の背中では赤ちゃんが今にも泣き出しそうだ。
「私が代わります。着替えの服と消毒液をお願いします」
さっと男の子の着替えを済ませて廊下の消毒を終えた私は、申し訳なさそうに服の裾を握りしめている男の子に向き直った。
「大丈夫だよ。でも、我慢しすぎるとお腹が痛くなっちゃうから早めにお手洗いに行こうね」
「……うん!」
このくらいの年になると言えば分かってくれる子もいる。
あんなに大声を出されれば萎縮してしまうのも無理はないだろう。
それからも頼まれた仕事をこなしながら子供たちと遊んでいるとあっという間にお昼ご飯の時間になり、すぐにお昼寝の時間になった。
「あなた、すごいわねぇ。本当にこの仕事初めて?」
最初に案内してくれたシスターが声をかけてくれた。
前職なんですよ! とは言えずに乾いた笑みを返す。
赤ちゃんの泣き声に困り果てていた女性職員たちからの評価も少しは変わっただろうか、と横目で見る。
しかし、彼女たちの顔には「貴族の娘のくせに」といった感情が見え隠れしているようだった。
「あの子たち普段は好き嫌いも多いし、お昼寝もほとんどしないのよ。それが今日はコテンだもの。すごいわ!」
それは多分、体力が有り余っているからだ。
貴族の子とはいえ子供に変わりはない。しっかりと遊んで、食べれば、自然と寝てくれる。
私にとっては当たり前のことだけど、彼女たちにとってはそうでもないらしい。
やはり身分の差があると業務にも差し支えてしまうようだ。
それからしばらく経ったが、職場での私の扱いは大きく変わらなかった。
「エレン様、少しよろしいですか?」
むしろ悪くなっている気がする。
「敬称は不要ですよ。私の方が新参者で仕事を教えてもらっている立場ですから」
「そんな! 畏れ多いです」
こんな感じで私の肩書きに恐れる人もいれば目の敵にする人もいる。
私が働きすぎるからか、「私たちがサボってるみたいじゃない」や「貴族令嬢らしく私たちを下に見ている」などと陰口を言われるようにもなっていた。
そんなある日のこと、シスターに全職員が呼び出された。
私以外の職員は顔を伏せて、関わりたくないといった様子だった。
「前々から話しているラビエラ公爵家の御令息の件ですが、誰か一人専属のスタッフをつけようと思います」
公爵家の子をこの保育所に預ける意味が分からない。
伯爵家の娘である私だって専属の侍女と家庭教師に囲まれて育てられたのだから、公爵家が金銭的に困っているはずがない。
なにか別の理由があるのだろうか。
「エレンさんでいいじゃないですか。あなた、年長児と仲良しでしょ」
「そうよ。それに同じ貴族なんだから上手くやれるでしょ」
なにかと私を目の敵にしている連中からの口撃だ。
力を尽くしているつもりだが、まだ信頼を得るには程遠いらしい。
「分かりました。僭越ながら私が大役をお受けいたします。ただ――」
ジロリと見渡し、最後にシスターの瞳を見つめ返す。
「特別扱いには反対です。公爵家の御子息も他の子と同じように接します。よろしいですか?」
批判の声が上がる中、シスターだけは何も言わずに頷いてくれた。
「エレンさんに一任します。最終的には私が責任を取りますが、あなたも覚悟を持って業務にあたってくださいね」
「もちろんです」
そして、ついにその日が訪れた。
朝から緊張感のある保育所に子供たちが預けられてくる。
門の前でお出迎えしていた私たちの前に豪華な馬車が止まり、そこから降りてきたのは煌めく金髪を持つ王子様のようなイケメンだった。
見た目だけなら20代前半だ。ただ落ち着いた雰囲気を持っているから年齢は不詳のように感じた。
彼に続き、小さな王子様が転けないように慎重にステップから飛び降りる。
「ラビエラ公爵家のジルと申す。本日からこのムタ・ラビエラが世話になる。よろしく頼む」
「お待ちしておりました。エレン・リヴィエールと申します。よろしくお願いいたします」
深々と下げた頭を上げると小さな王子様と目が合った。宝石のような紅い瞳が綺麗で思わず見惚れてしまった。
「……よろしくお願いしますね」
不信がられたか?
ムタ坊ちゃんからの返事はなかったが、ラビエラ公爵とはすんなりと離れてくれた。
初めての場所へ来たとは思えないほどのスムーズさに驚きつつ、馬車を見送ってから手を引いて保育所の中へと一緒に入った。
改めて自己紹介すると彼は小さく「ムタです」と名前を教えてくれた。
私は書類を読んでいるからもちろん名前も誕生日も書かれた情報は頭に入っているが、挨拶は大切だ。
一通り保育所内を案内してから同年代の子と顔合わせをしたがムタ坊ちゃんの表情は固い、というよりも無だった。
彼が壁を作っているとお友達も壁を作ってしまう。ある種の貴族としての矜持のようなものを感じるが、今の彼らにそんなものが必要なのだろうか。
最初は本を読んだりしていた。文字が読めることを褒めると少し誇らしくしていたからまんざらでもないらしい。
しかし、お友達と一緒になって遊ぶ素振りは見せなかった。
「お外に行きましょうか」
「……お庭?」
これまで反応を示さなかったムタ坊ちゃんがルビー色の目を見開いたのを私は見逃さない。
「ここのお庭は小さいので少しお散歩しましょう。はぐれないように手を繋ぎながら」
私はもう一人の引率してくれる職員を連れて、7人の子供たちを外に連れ出した。
彼らにとって庭以外の場所で遊ぶという体験は初めてだったようで、ただのお散歩でも周囲の景色を興味津々の眼差しで見ていた。
「楽しい?」
「うん。普段からお外には出ないから」
「どうして?」
「侍女たちが危険だから出ちゃダメって」
私の中にあるエレンの記憶が鮮明に蘇る。
言われてみれば私も家の中で育てられ、庭で遊ぶことすらもなかったはずだ。
育ち盛り、食べ盛りの時期に室内に閉じ込められればストレスも溜まるだろう。
私は前世で大人たちにしてもらったことを可能な限りこの子たちにしてあげたいと思った。
お散歩から帰る頃にはムタ坊ちゃんも少しは同年代の子たちと馴染んだのか、ポツポツと会話が生まれるようになっている。
最後まで約束を守って手を繋いでいてくれたし、きっと根は良い子なのだろう。
むしろ良い子すぎる、という印象を持った。
週に一回のお散歩が日課になった頃、ムタ坊ちゃんが遅刻していた。正しくはラビエラ公爵が遅刻した。
「まだ来ないね」
「そうだね。今日はお休みかな」
いつも通り午前中の間にお散歩をしたいところだが、どうしたものか。
子供たちは早く行きたい気持ちをグッと堪えて待ってくれている。この待機時間に彼らの成長を感じられるとやっぱり嬉しかったりする。
そんなとき門の呼び鈴が鳴った。
「すまない。遅れてしまった」
先に出迎えた職員は畏まりながら頭を下げるだけでムタ坊ちゃんに目を合わせようとはしない。
彼は何か言いたそうにしているのに気づこうとしていなかった。
私が迎えに行くと子供たちも後からついてきた。
「おはよう。今日は遅かったね」
「おはよう。家が忙しくて。もうお散歩行けない?」
「お家の事情なら仕方ないね。みんな待っててくれているから一緒に行こう。あ、でもお昼ご飯の時間になっちゃうから少しだけね」
背後から子供たちの「やったぜ!」という声が聞こえ、ムタ坊ちゃんの手を取って早く行こう、と急かしている。
彼らに続いてラビエラ公爵に一礼して立ち去るべきなのだろうが、私は余計なお世話をしてしまった。
「ムタ坊ちゃんは他の子と仲良くされています。今日のお散歩も楽しみにされていました。公爵家が多忙なことは理解していますが、御子息の為にも時間は可能な限り守っていただきますよう、よろしくお願いいたします」
「…………」
やってしまったかなぁ。
先に来ていた女性職員は今にも叫び出しそうな顔で硬直していたし、後からクレームがきたら頭を下げないといけないかも。
いや、もしかすると下げた首が飛ぶかも。
後悔を胸に抱きながら私は子供たちとのお散歩に出かけた。
その日の夕方。
お迎えの時間ぴったりに来たラビエラ公爵を見つけてムタ坊ちゃんに声をかけた。
しかし、珍しく口をへの字にして小さな抵抗を見せた。
「ムタ、さぁ帰ろう」
誰が呼んでも動く気配がない。
理由も分からないのに無理矢理に抱っこして連れて行こうとしているラビエラ公爵を止めた。
「少しお時間をいただけますか。よろしければ中にお入りください」
最初は戸惑っていたが、遠慮がちに園内に入ったラビエラ公爵と一緒にムタ坊ちゃんが遊んでいる姿を眺める。
「最近はよく笑われるようになりました。特にお外がお好きなようです」
「そうか。私も忙しくてあまり構ってやれないから助かっている」
「あの……今朝は大変失礼しました」
「構わんよ。時間を守らなかった私の失態だ。ムタにも悪いことをした」
「ムタ坊ちゃんにそのままお気持ちを伝えてあげてください。きっと喜ばれます」
楽しそうに遊んでいたお友達が一人、また一人と帰宅していく。
ラビエラ公爵が隣にいることも忘れて伸びをしてしまった私は、羞恥心を隠すために「さて」と大きめに呟いてムタ坊ちゃんに近づいた。
「お腹がすいたね。おうちに帰って温かいご飯が食べたいね」
「……うん」
「じゃあ、また明日。待ってるからね」
すんなりと帰り支度をするムタ坊ちゃんを見届けていると、ラビエラ公爵が優しい笑みを浮かべていた。
恥ずかしながら彼の笑顔に目を奪われてしまった。
ムタ坊ちゃんと同じ紅い瞳が細められている。激しさや強さの中に温かみを内包する真紅の瞳に吸い込まれそうになってしまった。
更に数日後。今度はお迎えが遅く、ムタ坊ちゃん以外の子供たちは既に帰宅してしまった。
子供を置いて帰るわけにもいかず誰か職員が残らないといけない。いわゆる残業だ。
もちろん、私が挙手するつもりだったのだが……。
「今回もエレンさんでいいでしょ」
「そうよ。公爵家の方にあんな態度を取ったのだから。私たちが残って非難されたくないわ」
「聞いたわよ。学園では悪役令嬢って呼ばれてたんでしょ? 良い子ぶったって性根は変えられないのよ」
こうして面と向かって言われると心が痛んだ。
胸の中がモヤモヤする。
彼女たちの言っていることは正しい。過去の私の行いは誰かの記憶に残っていて簡単には消えないだろう。
心を入れ替えて、行いを改めたとしても過去は変えられない。
分かっているつもりだった。
でも、自分で思っている以上に彼女たちの言葉は鋭く突き刺さった。
「……分かっています。お疲れ様でした」
何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから部屋に戻る。
一人で絵本を読んでいたムタ坊ちゃんに心の内を悟られないように努めながら隣に腰掛けた。
「今日は遅いね」
「仕方ないよ。僕は大丈夫。なにかあった?」
「……何もないよ」
子供は純粋だ。
だからこそ、大人にとっては小さな変化でも見抜かれてしまう。
「すまない、遅くなった! 門が開いていたから入ってきたが構わないか?」
勢いよく開いた扉に二人して肩を震わせ、顔を見合わせてほくそ笑む。
息を切らしているラビエラ公爵の姿が珍しくて笑ってしまった。
「どうして君一人なんだ? 他の者は?」
「もう帰りましたよ。事故とか事件に巻き込まれているわけではなくて良かったです。じゃあ、また明日ね」
ムタ坊ちゃんに手を振り返していると、少し怒った顔のラビエラ公爵が距離を詰めてきた。
「そんなことを聞いているのではない。なぜ君だけが残っている」
「誰かが一緒に居ないと危険だから、ですかね?」
「どうして君ばかりが大変な目にあっているのかを聞いているのだ」
実を言うとラビエラ公爵の遅刻は珍しいことではない。
毎度、私が居残りしていることを気にしておられるのだろう。
「それはこちらの業務の問題ですので、お気になさることはありません」
「今日は叱ってくれないのか?」
額ににじむ汗がどれほど急いで来てくれたのかを物語っている。
そんな人に文句を言えるはずがなかった。
ムタ坊ちゃんの背中を押して先に馬車へと向かわせたラビエラ公爵が私の方へ向き直る。
「もう朝も夜も遅れないと誓う。それだけで君の負担は減るのだろう?」
「ムタ坊ちゃんのことを一番に考えてあげてください」
少し疲れていたのも相まって嫌な言い方をしてしまった。
私は無言で保育所へと続く門の鍵を閉めた。
私が就職して半年が経った。
まだ私に対する不信や不満を持っている職員もいるが、いくらか過ごしやすくなった頃に思い切ってお遊戯会の提案をしてみた。
文句が飛び交うかと思ったが意外にもあっさりと受け入れられ、子供たちと一緒に歌や踊りの練習と彼らの衣装や小道具作りに追われる日々が始まった。
ご両親への招待状も子供たちと一緒に作成し、いよいよ本番当日。
大聖堂は多くの人で埋め尽くされ、子供たちも私たちも緊張していた。
緊張感の漂う中で始まったお遊戯会。
ステージで踊っている最中に転んでしまったり、動けなくなってしまったり、セリフを噛んでしまったりする子がいると、観客席からはクスクスと笑い声が聞こえた。
ステージに立つ子供たちには声が聞こえていなくても、大人たちが笑っている様子は丸見えになっている。
中には「うちの子に限って」などという言葉も聞こえた。
これには私だけでなく、普段から私を目の敵にしている職員も不快感を必死に押し殺しているようだった。
責任者であるシスターも同じ気持ちだったかは定かではない。彼女に動く気配はなく、ただじっと子供たちを見守っていた。
私が出しゃばる場面ではない、と自分に言い聞かせ拳を握りながら子供たちへと熱い視線を注ぐ。
「こら! しっかりせんか! 私の顔に泥を塗るつもりか!」
しかし、そんな声が上がった時には堪忍袋の緒が音を立てて千切れた。
誰かが叱られたことで失敗することが怖くなったのか、動けなくなってしまった子供たちが立つステージの前に飛び出して叫ぶ。
「笑わない! 怒鳴らない!」
これには子供たちも職員も親御さんも目を丸くしていた。
熱くなった人間がここで止まれるはずがない。
「私たちが笑うと『馬鹿にされた』と受け取る子もいます。気持ちが折れたり、頭の中が真っ白になったりもします。それでも一生懸命なんです! だから自分のお子様を信じてあげてください」
後悔はなかった。
これでクビになっても胸を張ってここを出て行ける。そんな清々しい気持ちでステージ上を見上げ、子供たちに親指を立てた。
大聖堂は子供たちの声と音楽と気持ちのこもった拍手に包まれ、大人たちからの声は一切聞こえなかった。
ステージの裏に隠れ、やりきった表情の子供たちを迎え入れた私たち職員。
この時の子供たちの顔は生涯忘れられないだろう。
その後、私は子供たちを親御さんに引き渡す仕事から外してもらった。
シスターも他の職員も文句を言う人がいなかったことが幸いだった。
「おい」
大聖堂の飾りを片付けていた私の背中に投げかけられた雑な声を振り向くと、ラビエラ公爵が立っていた。
「私は強かさと優しさを併せ持つ君のことを気に入っている」
「はぁ……。ありがとうございます」
突然なにを言い出すのかと面食らってしまった。
男性に気に入られるような態度を取った覚えはないのだが。
「だから私の妻になって欲しい」
「えぇ!? な、なに、なにを!?」
パニックに陥り、自分でも何を言っているのか分からない。
それでも頭の中に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「いくら異世界でも不倫はいけません!」
「いせかい? ふりん?」
「えっと、不貞行為は禁止です!」
不倫に変わる言葉を絞り出せた自分を褒めるのは後回しだ。
この王子様風イケメンは何を言い出しているのだ。
私は彼の子を預かっている身なのだぞ!
それなのに妻になるなんて、それこそ陰口を叩かれてしまう。
「そうか……。そうだな。突然すまなかった。今のは忘れてくれ。エレン嬢にも事情はあるだろう」
忘れろと言われて、はい、そうですかと簡単にできるものか。
前世でも今世でもラビエラ公爵のような男性に告白されたのは初めてだ。
元婚約者も太刀打ちできるとは思えない。
それほどまでに容姿が優れているお方だ。中身は見た目に反してちょっと抜けている一面があって可愛い……って、ダメだってば!
名誉なことなのかもしれないがさすがに人の夫に手は出せないし、一夫多妻制だったとしてもこの関係はマズいと思う。
気まずい空気の中、私が片付けを再開するとラビエラ公爵は出て行った。
「あの人、優しい目で子供を見るんだよなぁ。しかも、男のくせにすぐ謝るんだよなぁ」
だからこそムタ坊ちゃんが混乱するような真似はできない。
私はそっと気持ちに蓋をして、お遊戯の後片付けを終わらせた。
◇◆◇◆◇◆
一週間が経った今でも私は相変わらず子供たちと一緒にこの保育所で過ごさせてもらっている。
あの後、多少の問題は生じたようだがシスターや他の貴族の働きで私への処罰はなかった。
裏で両親が手を回したという噂も聞いたし、迷惑をかけてしまって反省と感謝しかない。
今日は保育所始まって以来、初の家族面談の日。
シスターと親御さんが熱心に話し合っている。
私の出る幕はなく、子供たちの相手をして面談が終わった親御さんへお子さんを返す仕事を与えられていた。
面談も終盤に差し掛かり、面談室から出てきた奇抜な服装の女性がキョロキョロと辺りを見回している。
偶然、通りかかった私が声をかけると女性は手を叩いて喜んだ。
「あなたがエレン・リヴィエールさんね! ジルからもムタからも話を聞いているわ! 二人とずいぶん仲良くしてくれているみたいね」
ムタ坊ちゃんはともかく、ラビエラ公爵に関しては棘のある言葉だ。
ラビエラ公爵夫人から先制攻撃を喰らったような気がしてならない。
「恐縮です。ムタ坊ちゃんはあちらです。ご案内いたします」
いつもの廊下がやけに長く感じる。
公爵夫人は口を閉じることなく、聞いてもいないことを話し続けていた。
「男の子はもっと外に出すべきだって言っているのになかなか理解を得られなくてね。膝を擦りむいたり、友達と喧嘩したりしないと学べないこともあるでしょ。それがあの人には分からないのよ」
多分、愚痴られている。いや、遠回しに惚気られている?
下手なことは言えないので黙っているが、公爵夫人がムタ坊ちゃんをこの保育所に預けた理由が分かった気がした。
「ジルなんていい例でしょ。英才教育で勉強と剣技ができて、顔がいいだけのつまらない男よ。あれではラビエラ公爵家も世も末だわ。私としては末っ子のムタを社交的な子に育てたいんだけどね」
思わず足を止めてしまい、後ろを歩いていた公爵夫人が背中にぶつかった。
「一つお聞きしますが、ジル様はムタ坊ちゃんのお父様ではないのですか?」
「違うわよ。あれは私の子でうちの長男よ。うちの人今は長期出張で家に居ないからこっそりとムタをここに入れさせてもらったのよ。ジルには自分の子を持ったときの練習を兼ねて送迎させているのー」
ケラケラ笑う公爵夫人の前で、どんどん血の気が引いていくのが分かった。
公爵夫人の話ではジル様は独身で特定のお相手はいらっしゃらない。
つまり、私の勘違い。
「母上、もう馬車の用意はできています。早くこちらに……っ! エレン嬢っ」
「ラビエラ公爵様、じゃなくって、えっと」
不自然に視線を逸らした私たちの間に漂う空気感を察したように公爵夫人が「オホホホ」と笑いながらスキップして逃げていく。
「あの……ジル様。私、とんでもない勘違いをしていました。すみません!」
「いや、私の方こそエレン嬢のことを考えずに口走ってしまった。あなたのような方なら婚約者の一人くらい居るだろう」
これではっきりした。
ジル様と私はお互いに勘違いをして、想いのすれ違いが起こっていたのだ。
でも、すれ違いだったことが分かったとしてこの先に進んでもいいのだろうか。
「お恥ずかしながら私に婚約者はいません。私はジル様がムタ坊ちゃんのお父様だと勘違いしていたので、その……不貞行為に当たると、勘違いしてしまいました。すみません」
ポカンと口を開けたジル様は堪えきれないといった様に大口を開けて笑い始めた。
保育所の廊下に響き渡る彼の笑い声に導かれるように各所から顔を覗かせる職員や子供たち。
「笑ってしまってすまない。別に馬鹿にしたわけじゃないんだ。私も勘違いしていたのだからお互い様だな」
ジル様は保育所の廊下には似合わない優雅な動きで跪いた。
「改めて私の婚約者になって欲しい。末弟のムタと心を通わせたように私たちの子をより良い方向に導いて欲しい」
突然のことに戸惑うかと思ったが、自分でも驚くほど冷静にジル様の手を取ることができた。
「喜んで。よろしくお願いいたします」
割れんばかりの拍手が廊下内に響き、各地から歓声が上がる。
「職場ですることではなかったな。続きはまた改めて」
「……はい」
ジル様の背後にある扉からムタ坊ちゃんと公爵夫人も顔を覗かせていた。
恥ずかしさは込み上げてくるが、それよりも幸福感が強くてあまり気にならなかった。
「おめでとう、エレンさん」
「シスター。もしかして気づいていました?」
「もちろん。面白いことになっているから何も言わなかったけれど、お母様もお人柄のよい方で安心ね」
「えぇ!? 全てシスターの手のひらの上ってことですか!?」
「うふふふ。年の功というものよ」
まんまとしてやられた。
あれほど陰口を叩いていた職員たちもニヤニヤしながら私に話しかけてくれるようになった。
なんだかんだで女子は恋バナが好きだ。
私とジル様の進展具合が共通の話題に上がるようになるまでそう時間はかからなかった。
「エレンが姉上になるなんて驚きだよ。これでずっと一緒にいられるね」
「不思議な感じだね。これからも仲良くしてね」
可愛い義弟はお義母様の希望通り、コミュニケーション能力の高い子へと成長を続けている。
ジル様は結婚式後に再び長期不在となったお義父様もといラビエラ公爵の代理として毎日忙しそうにしておられる。
彼は私を拘束するようなことはせず、これまで通り保育所での勤務を続ける許可をくれた。
仕事熱心だけどどこか抜けていて、たまに見せる無邪気な笑顔が私の母性本能をくすぐり続けている。
「ジル様、私とっても幸せです」
「私もだよ。エレンの笑顔を見ると仕事の疲れも吹き飛ぶというものだ。未来の我が子のためにももっと励まなければな」
「少し気が早いような気もしますが……」
「そんなことはないさ」
そんなにも熱い眼差しを向けられると顔が火照ってしまう。
「ゴホン! たまにはお休みしてムタ君とも遊んであげてくださいね」
「末弟よりも愛妻が優先だ」
「……もうっ」
これからはムタ君と一緒にいずれ生まれてくるであろう私たちの子供も大切に育てていこうと思う。
私たちの幸せな生活は、まだまだ始まったばかりなのだ。
当作品を見つけていただき、ありがとうございます!
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