朝のお支度
皇帝陛下の側付き侍女のお仕事は、侍女頭のエルマさんにしっかり教わってきた。
一日の流れは頭に叩き込んであるし、ちゃんとメモしてエプロンのポケットの中に忍ばせてある。
クリスティス家から外に出て働くのは初めてだから、これ以上失敗のないようにしないと。
せっかくいただいたお仕事。しかも皇帝陛下の側付き侍女。
面接官だった宮内卿のシリウス様が、私の事情を聞いてくれたあとに「レイシールド様の側付き侍女の待遇は悪くない。一ヶ月の給金は、女性の仕事の中ではかなり多い……破格、と言っても過言ではないよ」と教えてくれた。
それから「とはいえ、一ヶ月まともに仕事が続いたものはいない。皆、一日でやめてしまう。もって三日だ」と付け加えた。
「どうして待遇のいい、その上名誉なお仕事なのに、みなさん辞めてしまうのですか……?」
「怖いから、だそうだ」
シリウス様は困ったように言った。
確かに、皇帝陛下は恐ろしい人だと言う噂はあることを知っているけれど、具体的なところまでは私はわからない。
実際にお会いしたこともないのだし。
「皇帝陛下は、人を傍に置きたがらない。侍女は一人だけ。宮城には他に使用人はいない。大変だろうが、頑張れるか?」
「はい!」
シリウス様の説明に、私は大きく頷いた。
怖い人だろうがなんだろうが、お金を下さるのなら何でもいい。
お仕事が決まって数日後、伯爵家に戻り準備を整えた私は、お父様と妹たちに見送られて再び皇都に向かった。
予定通りに内廷の侍女の寝泊まりをする宿舎に入ると、私の噂はすでに広まっていたらしく、先輩の侍女の方々が色々と教えてくれた。
毎朝起こしに行くたびに皇帝陛下は不機嫌で、皇帝陛下が怖くて黙ったままでいると剣を向けられるとか。
少しでも皇帝陛下の意にそぐわないことがあると、悪鬼のような形相で怒鳴られるとか。
ともかく、怖いのだと。
広い黎明宮で皇帝陛下と二人きりでいるなんて、虎の檻に入れられたようなもの。
そんな恐ろしいお仕事を押し付けられて、可哀想だと同情していただいた。
宮廷侍女の方々はみんな親切で、明るい。
王国の片隅の片田舎から出てきた、一人も知り合いのいない私に、とてもよくしてくれる。
人と話すのがあまり得意な方ではない私がほとんど喋らなくても会話が進んで、ぐいぐい世話を焼いてくれる。
シリウス様の面接で選ばれた方々なのだから、当たり前といえばそうなのだけれど。
そんなわけで――気に入らないことがあると剣をつきつけられるというのは、事前に聞いていたので、大丈夫。
もちろん怖かったし、びっくりしたけれど。
剣をつきつけられたとは聞いたけれど、実際怪我をした女性はいないみたいだし。
それに、剣をおろした後、皇帝陛下は謝罪してくださった。
もしかしたら、怖いけれど悪い方ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら私は皇帝陛下の隣に立って、押してきたカートの上に乗っているお湯の入った水差しを手にした。
やや緊張しながら水差しのお湯を洗面ボウルに移して、タオルを入れて絞る。
きつく絞った蒸しタオルで、黙ったまま私を睨みつけるようにして見ている皇帝陛下の顔を拭くのが、朝のお支度の一番最初。
蒸しタオルで体を拭いてあげるのは、クリスティス伯爵家にいる動物たちのお世話の時にもよくやっていたし、いつも通り、いつも通り。
(落ち着くのよ、私)
蒸しタオルが熱すぎないか自分の腕にあてて確認してから、皇帝陛下の顔にそっとあてる。
慎重に、慎重に、痛くしないように傷つけないように、私はじいいっと皇帝陛下の顔を至近距離で見つめながら、そのお顔を拭いた。
皇帝陛下は目つきは鋭いけれど、私が今まで見たことのある男性とは比べ物にならないぐらいに、美しい顔立ちをしている。
長い睫毛に、高い鼻梁。むっつりと結ばれた唇は薄くて、余計なものを全てそぎ落としたような引き締まったお顔だ。
お顔を拭いたあと、首周りを拭いて、それから耳にとりかかる。
耳の中をお掃除するのは大事なのよね。動物は特に耳を綺麗にしてあげるととても気持ちよさそうにしてくれる。
いつも通りいつも通りと自分に言い聞かせながら、蒸しタオルで皇帝陛下の形の良い耳をきゅっと拭いた。
「……待て」
「な、なにか、私、なにかしてしまいましたか……?」
不意に低い声で制止の言葉を言われたので、私はびくっと震えて数歩後退る。
エルマさんからは、まずはお顔を拭くようにと言われている。
何か悪かったかしら。蒸しタオルが冷えてしまっていたとか。絞り方が足りなかったとか。もっと頻繁に洗い替えをしないといけないとか……!
集中していたときには気にならなかったけれど、話しかけられると途端に駄目だ。
どうしても緊張してしまう。
声が出ているんだかいないんだかわからない小さな声で、私は皇帝陛下に尋ねた。
あぁ。クビかしら、私。
許していただけないかしら。
できれば私は、一か月はやり遂げてお給金を貰いたい……!
「いや。いい。続けろ」
「は、はい……」
待てと言ったり、続けろと言ったり、皇帝陛下の御心がよくわからない。
怒られるのかと思ったけれど、そうではなかった。
私はもう一度タオルをお湯につけると、ぎゅっと絞った。
絞ったタオルから、ぽたぽたとお湯の雫が洗面ボウルに落ちる。
先程の続きをと思いながら、皇帝陛下の耳を、耳の中の襞を丁寧に拭いていく。
反対側も同じように拭くと、白い耳があたたまって赤く染まった。
元々汚れていたわけではないのだけれど、顔と首と耳を綺麗に拭くことができてほっとした私は、もう一度タオルを温めて絞って、今度は手に取り掛かる。
床に片膝をついて皇帝陛下の前にしゃがみ込むと、私の倍ぐらいあるのではないかしらというぐらいに大きな手を、蒸しタオルで包み込んだ。
一本一本指を拭いて、指の間を拭いて、硬い手のひらを拭く。
男性の手を握ったのははじめてだ。
大きくて硬くて、爪も立派だ。
爪が伸びていればやすりをかけるのも私の仕事。
じっと見つめて確認すると、伸びているような伸びていないような微妙なところだった。
「皇帝陛下、爪を、綺麗にしますか……?」
私の中でははきはきと尋ねたつもりなのだけれど、私の精一杯のはきはきは、やっぱり虫が鳴く程度の声しかでていない気がする。
きっと聞こえなかったわよね。返事がないか、声が小さいと怒鳴られるかどちらかだろう。
「いや。今日は、まだいい」
怒られなかった。
それどころか、お返事をしてくださった。
あぁ、よかった。
本当はもっと、明るく元気に、笑顔を浮かべることができればいいのだけれど、持って生まれた性格というのはなかなか変わることができないものだ。
上手くできるだろうかと緊張と不安でいっぱいだったから、お返事をしてくださるだけで嬉しい。
私は嬉しくなってしまって、にこにこ笑顔を浮かべた。
それから、笑っている場合じゃないことに気づいて、タオルを置くと、今度は皇帝陛下の髪を梳かしにかかった。
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