8 窓際のヒーロー
このところ悟郎さんは元気になってきている。
以前よりもよく話すようになったし、認知の症状も現われなくなった。ロビーでの他の入所者との交流にも、活発に参加している。
「悟郎さん、元気になったわねぇ——。なんだか若返ったみたいよ。」
ベテラン介護士の柴崎さんの言葉に、悟郎さんは嬉しそうに笑う。
たしかに、悟郎さんは元気になっているように見える。それはどうやら、あの真夜中のヒーロー活動と関係があるようだった。
入所者との個人的関係が深まり過ぎるのはどうか、とは思いながらも、夏海は悟郎さんと「秘密」を共有している。
悟郎さんが元気になるなら、それもまあ介護士の「仕事」かな——と、自分を納得させて。
「内緒」は悟郎さんとの約束であり、そのことで悟郎さんが元気になれるなら、それはそれでいいことだろう。それに、悟郎さんが「生き霊」となって夜な夜なやっていることは、間違ったことではないのだし。
時々、悟郎さんが「今日はこんなことをやってきた」と教えてくれた内容が、翌日の地方ニュースになったりすると、夏海もなんだか嬉しかった。
ドラッグで酩酊した男の車に轢かれそうになった女性が奇跡的に助かった、とかいうニュースは、テレビで報道される前に夏海だけがその詳細を知っていたりする。その独り占め感が、ちょっと楽しい。
「少年」のことは、テレビには出てこない。おそらくは、ホームレスやジャンキーの言うことを警察が信用しないのだろう。
ホームレスの人もかわいそうに——。ほんとに見たのにね。(*´艸`*)
ロビーのテレビでたまたまニュースをやってる時に夏海を見つけたりすると、悟郎さんが夏海の方を見て、にっこりと笑う。夏海もかるく微笑んで、目配せをしたりする。なんだか小学生の友だち同士みたいだ。
「二度わらし」などという言葉もあって、年をとると子どもに戻ってゆくと言われるが、悟郎さんの「生き霊」の姿は、そんな悟郎さんの心のありようを映しているのかもしれなかった。
「事件」を報じるテレビのニュースでは少年のことは出てこなかったが、NET上には「白い少年」の噂が、少しずつ見受けられるようにはなってきている。
#空飛ぶ少年?
#ホームレスは見た! 白い鉄腕アトム
#真夜中のヒーロー! マルコメくん?
#ついに見たぞ! 噂の白い少年!
・・・・・・・
ニュースには報じられなくても、誰かがどこかで聞き込んできたり偶然目撃したりして、NETに書き込んでゆくらしい。中には、全くの捏造情報もあった。
もちろん、トレンドになんかならない。今のところまだ、都市伝説に近い。
付き添いで散歩に出た時などに、夏海がスマホで表示したそれらのツイートを悟郎さんに見せてあげると、悟郎さんは嬉しそうに声を出して笑うのだった。
悟郎さん自身はスマホは扱えない。以前、スタッフの誰かが一度使い方を教えたことがあったようだが、悟郎さんは結局覚えられなかった。
だから、悟郎さんのスマホは、娘さんが置いていったきり、充電と放電を繰り返すだけの単なる時計付き電話機でしかなかった。
このコロナ禍で面会が制限されてしまった今、週に1回、娘さんがかけてくる電話を受けるだけの機械である。
悟郎さんはある夜、夏海にだけ「抜ける」ところを見せてくれた。
「消灯時間になったら、部屋に来て。」
と言うので、夏海は見回りがてら悟郎さんの部屋を訪ねてみた。
夜10時は、消灯時間といってもまだいくつかの部屋は明かりが点いている。本を読みながら寝たい人や、真っ暗だとかえって眠れない人もいるからだ。
一斉に電気が消されるのは、ロビーや食堂などの供用部分だけで、廊下などは照度を落とした常夜灯が点いている。
明かりを点けたままの部屋は、11時頃、職員が入り口のスイッチでそっと消して回るのだ。
もちろん、ステーションには夜勤のスタッフが詰めていて、バイタル計測が必要な入所者の心拍や血圧を表示するモニターもある。このあたり、病院のそれに近い。
悟郎さんの部屋はすでに真っ暗だった。
「悟郎さん?」
夏海は小さく声をかけて、引き戸を10センチほど開けた。
「夏海さんか——。いるよ。どうぞ、入って。」
悟郎さんは車椅子に座っていて、意外なほどしっかりした声で返事をした。
窓のカーテンは、1メートルほどの幅で開けてある。そこから入ってくる街灯の青白い光に照らされた悟郎さんの顔は、心なしか少し若返っているように見えた。
夏海が中に入って扉が閉まったのを見届けると、悟郎さんは車椅子を回して窓の方を向いた。
悟郎さんの頭がゆらゆらと揺れる。
それが止まると、悟郎さんと窓の間が、ふわっ、と微かに光り、こちらを向いた白い少年が、すうっ、と現れて、そのままガラスを素通りして窓の外に浮いた。
「こんな感じさぁ。」
悟郎少年は満面の笑顔で夏海に言う。実に生き生きとしている。幽体離脱した「生き霊」が生き生きしている、というのもなんだか妙な言い方ではあるが・・・。
「じゃあ、行ってくるね!」
悟郎少年は元気にそう言うと、くるりと向きを変え、シュッと夜空に向かって飛んでいった。
夏海は窓に駆け寄って見上げてみたが、もう悟郎少年の姿はどこにも見えなくなっている。
夏海が、残った悟郎さんの身体の方を見てみると、悟郎さんは目を開けたまま、彫像のように固まっている。
ただ、胸だけは静かに動いており、すうー、すうー、とゆっくりした寝息のような呼吸音が聞こえた。
ああ、よかった。
出ている時も、こっちは普通に眠ってるような状態なんだ——。心臓も止まってなさそう・・・。(^ ^;)
ただ、目は見開いたまま瞬きもせず、体も微動だにしない。
(目が乾燥しちゃったりしないだろうか?)
夏海は介護士としてそれが少し心配になった。目が乾燥してしまうと、角膜が傷ついてしまうのでは?
夏海が顔を近づけて悟郎さんの目を覗き込むと、その瞳はむしろよく潤っているくらいで、不思議なことに目まぐるしく流れる光が映り込んでいた。もちろん、この部屋にも窓の外にもそんな光はない。
それはどうやら、少年の方の悟郎さんが見ている街の灯りらしかった。
悟郎少年は今夜も、どこかで誰かを助けようと夜空を飛んでいるのだ。街の灯りをその瞳に映しながら——。
その後も悟郎さんはドライアイで目を悪くするどころか、むしろ視力を回復しているようですらあった。
それからは、夏海は夜勤の日は必ず悟郎さんの部屋に入って、「抜け殻」の無事を確認するようになった。
もちろん、誰にも「内緒」で・・・・。