7 少年の夢
悟郎は夜空を飛んでいる時、なぜか体が半透明になって下からは見えにくくなるようだった。これは、発見されにくく騒ぎになりにくい、という意味ではありがたかった。
それともう一つ。幽体ならではのことなんだろうが、動きがものすごく速い。「事件」を見つけて「あっ」と思うと、ほとんど瞬間的といってもいい速さで地上のその場所へと下降できてしまうのだ。
目もよく見える。老眼が治った、というレベルじゃない。「困っている人はいないか?」と意識をそこへ向けると、その部分にフォーカスしてしまえるようだった。
タカやトンビは上空から小さな野ネズミ1匹を見つけると言うが、それに近いんだろうか、と悟郎は思ったりした。
あの母子を救出する前にも、増水した水路に流されかかった老人を上空からの急降下で水の中から引っ張り上げた。
老人といってもまだ60代だ。悟郎からすれば、はるかに若い。家庭菜園として借りている小さな畑が心配になり、様子を見にきて増水で道路と区別がつかなくなった側溝に足を突っ込んだらしい。
都市暮らししかしたことがない若い世代は知らない人が多いようだが、側溝程度の水路でも足は取られるし、溺死することもあるのだ。
「大丈夫ですか? おじさん。」
おじいさん——とは言わない。
「ああ・・・、すまんな。力が強いな、ボク。」
老人は濡れた服で立ち上がろうとして、またよろけた。悟郎はそれを手で支えてやる。
「気をつけてください。年をとると若い頃みたいには体、動きませんから。」
「ボクこそ。こんな雨の夜中に・・・危ないぞ。」
悟郎少年はそれには答えず、にこっと笑っただけで雨の簾の向こうに姿を消した。
こんな子供に言われたことで、ちょっとプライドが傷ついたんだろう。まだ若いからな。わしの体験談なんだがねぇ——。
それにしても・・・。
あの母子はなぜ見えたんだろう? と、悟郎は思う。立体交差した道路の高架下なんだから、上空から見えたはずはない。
なのに、悟郎の記憶では、車に閉じ込められた母子の様子が間近で見ているように見えたのだ。
これも、生き霊だからなのかな? と悟郎少年は思う。
今夜はよく晴れて、星がきれいに見える。
このまま、うんと上空へ飛んだら、この体は宇宙まで行けてしまうのだろうか?
そんなことを考えながら飛んでいると、1台の車が道路を暴走しているのが見えた。スピードもかなり出ていて、対向車線にはみ出したりしながら蛇行している。酔っ払っているような感じだ。
「危ないなあ。」
悟郎は車を止めようと、降下を始めた。この体の力なら、たぶん止められるんじゃないか。
が、車をどうにかする前に、ヘッドライトの中に人の姿が浮かび上がった。女の人だ。ベビーカーのようなものに汚れた袋をいくつも積んで、手にも1つぶら下げて道路の端を押して歩いている。
髪は白髪まじりのボサボサだ。たぶんホームレスの人だろう。
「危ない!」
悟郎は、ほとんど瞬時に女性の背後まで降下すると、その人を抱き上げて道の反対側へと飛んだ。
直後にベビーカーが跳ね飛ばされて、電柱に激突する。もの凄い音がしたが、車はスピードを緩めるでもなく、そのまま走り去ってゆく。
「怪我はありませんか? 僕はあの車を止めてくる!」
悟郎はそれだけを言うと女性をそこに残し、猛烈なスピードで宙を飛んで暴走車の後を追っていった。
ホームレスの女性は、道路に呆然とへたり込み、目だけを大きく見開いて飛んでゆく少年の姿を眺めている。
「あ・・・あわ・・・あ・・・。て、鉄腕・・・アトム?」
なんかスゲー音がしたな。ゴミ箱か看板にでもぶつかったか?
バカヤロー! 道路の真ん中に出しておきやがって——。車、傷ついたかもしんねーじゃんかヨォ!
ついてねーぜ、くそったれー!
毒づきながら走っていると、突然、車のスピードががくんと落ちた。
なんだ?
フロントガラスの向こう、ボンネットの前に白っぽい服を着た子どもがいる。
撥ねた? いや、これは撥ねたって雰囲気じゃねぇ。子どもは両手を車の鼻先に当てて、力を入れるみたいにして踏ん張ってこっちを睨みつけてやがる。
まさか! このガキが、車を押して止めようとしてる? はあ? 何それ?
ところが車は本当にそのまま止まってしまい、タイヤだけがスリップして悲鳴をあげ始めた。焦げ臭い臭いがする。
ヤベェ! レバーをニュートラルに切り替えると、悲鳴はおさまった。
バカヤロー! 高ぇんだぞ? このタイヤ・・・。
車の左側のドアが開いて、20代くらいの男が降りてきた。
「おい! こんガキぃ! おめぇ、今この車止めたなぁ?」
それが何を意味するか——について、まともな疑問を抱いていないらしい。ドラッグか何かで、かなりラリっている様子だ。
「俺の車に傷つけたんなら、たラじゃおかねぇ!」
男は少年の胸ぐらをとろうとして左手を伸ばした。その手が、ぱん、と払われたかと思うと、次の瞬間、「うっ」と男の体がくの字に曲がった。
少年の突きがみぞおちに入ったのだ。
少年は車の助手席にスマホを見つけると、それで110番をする。
「もしもし、今、麻薬か何かやって運転していた人が・・・」
しかし先方は「もしもし? もしもし?」と繰り返すばかりだ。少年の声は、スマホのマイクには拾われないらしい。
「お・・・俺の、スマホを・・・」
男はダッシュボードからサバイバルナイフを取り出し、車に寄りかかるようにして少年の側に回ってこようとした。
少年が、ボンネット越しにスマホを男の顔に投げつける。
「あっ! 痛った・・・!」
スマホは路上に落ちて、カラカラと鳴った。
この衝撃音は、かなり激しい音として向こうに聞こえただろう。さっきの、男の声も拾ってるかもしれない。これで、パトカーが来るはずだ。
「こん、ガキ! ぶっ殺したる!」
このセリフで決まりだな。パトカーは確実に来る。
男は車の前を回って少年の側に来ると、躊躇いもなく少年の喉に向かってナイフを突き出した。
しかし、男の腕が伸びきったとき、ナイフの切っ先に少年はいなかった。
少年の左掌底が男の伸びきった肘を、ぽん、と跳ね上げた直後、さっきとは比べ物にならない突きが男のみぞおちに突き刺さった。
男は、声もなくその場にうずくまった。
少年は、ナイフを持った男の右手首を、ぽん、と蹴り上げる。
サバイバルナイフは、くるくると回りながら宙を飛び、5メートルほど先の路面に落ちて、まだ回りながら2メートルほども滑っていった。
やがて、パトカーのサイレンの音が聞こえると、少年は夜空へと飛び去った。
悟郎少年は、五社神社にある高い木の梢に座って夜空を眺め上げている。地方都市とはいえ、こんな街中なのに、今夜は降るように星が多い。
上を見ていると、星の海に落ちていきそうだ。
そういえば子供の頃、あの星の世界に行ってみたいと思ったことがあったなぁ。ロケットに乗って、月や火星や木星に宇宙人を探しに行こう——なんて・・・。
その後、戦争になって、そんな夢はどこかに消えてしまった。15〜6の頃は、ひたすら腹が減っていたなぁ。
今、この体だったら宇宙までだって行けるかもしれないな。
でも・・・、何かが、それを引き止める。
行ったら、帰ってこれなくなるような気がする。 今は、あの身体に帰らなくてはいけない気がする。
悟郎少年は、星空から街の灯りに視線を移した。
ふわり、と梢から浮き上がり、体が半透明になった。