4 悟郎さんの秘密
その日、夏海は遅番から連続して深夜勤務のシフトだった。
夕方からあやしい雲行きだったが、夜10時頃になると激しい雨が断続的に降るようになった。
ホームの中は取り立てて大きな問題もなく、外のあらゆる雑音は激しい雨の音にかき消され、雨音という静寂に包まれた施設内の空間には平和な時間がゆったりと流れていた。
夜の2時頃、夏海は定時の見回りに廊下を歩いていた。
雨の音が大きくなったり小さくなったり、外の闇の中をゆく風の息遣いがそれでわかるようだった。
どの部屋も暗い。特に変わった気配もない。
夏海は2階のいちばん端の悟郎さんの部屋の前で、ちょっと立ち止まった。扉のガラスは真っ暗だ。
今日はちゃんと寝てるよね?
「失礼しまぁす。」と起こさない程度の小さな声で言って、夏海はそっと扉を少しだけ開けてみた。
本来なら、24時間バイタルを測っているような人以外、勝手に扉を開けたりはしないことになっているのだが、先回のこともあって夏海は悟郎さんの様子が気になっていたのだ。
すると・・・。悟郎さんはまた車椅子に座って、窓の方を見ているではないか!
真っ暗な部屋の中で、サッシのガラスに叩きつける雨粒が、街路灯の青白い光を受けて忙しく弾けては流れ落ちている。そのわずかな光を背景に、悟郎さんのシルエットだけが黒々と浮き上がっている。
カーテンは8割がた開いていた。
「悟郎さん?」
今度は聞こえるように少し声を大きくして呼びかけてみたが、悟郎さんはピクリとも反応しない。
まさか・・・。
夏海が扉を開けて中に入ろうと決心したその時、窓の外が、ふわっ、と明るくなった。
雨が叩きつけるガラスの向こうに、白い学生服みたいなものを着た少年が立っている。いや、立っているはずはない。ここは2階なのだ。
浮いている?
夏海自身、自分の頭に浮かんだその言葉が、異常である、としてにわかに信じられず、体が固まっているうちに・・・、少年と目が合った。
少年は、はっとした表情になり、それから慌てたようにガラスのこちら側に入ってきた。
そう。 入ってきたのだ。ガラスをそのまま通り抜けて——!
少年は、そのまま悟郎さんの体と重なり合って、淡い光は消えてしまった。窓ガラスは割れても開いてもおらず、ただ風の息吹に合わせて波打つように雨が激しく叩きつけているだけだった。
悟郎さんの頭が、ゆらゆらと揺れた。
「あ・・・ああ・・・み、見られちゃったねえ・・・。」
枯れ枝のような腕が動いて、車椅子が向きを変える。雨粒が当たっては流れ落ちる窓ガラスは、わずかな街路灯の光を攪拌し、車椅子の悟郎さんは黒いシルエットになって表情がわからない。
夏海は部屋の入り口に呆然と立ち尽くしている。
「もう・・・、ちゃんと、寝るから・・・、内緒にしてね。」
悟郎さんはキコキコと車椅子を漕いで、ベッドの脇までやってきた。相変わらずシルエットのままで表情がわからない。
夏海はようやく、スタッフとしての意識を取り戻した。引き戸を開けて部屋に入り、ベッド脇のフットライトを点灯して部屋に最低限の明かりを供給する。悟郎さんの顔が見えた。
悟郎さんは、そのしわくちゃな顔の中に驚くほど澄んだ目をきらきらさせて夏海を見ていた。その目はまるで少年のそれのようで、砂漠の中に突然出現した小さな泉のようにも見えた。
夏海は思わずどぎまぎしてしまい、業務上の言葉以外の言葉を失った。
「さ・・・さあ、お手伝いするから、ベッドに移りましょうね。」
「うん・・・。」
悟郎さんは、よいしょ、と腰を持ち上げ、夏海に手伝ってもらってベッドに横になった。
夏海が毛布を首まで掛けてやると、悟郎さんはにっこりと笑った。
「内緒・・・ね?」
「はい、はい。・・・・」
結局、夏海はそれだけの会話しかできなかった。
さっきのは何だったんですか?
という言葉は喉のところで呑み込んでしまった。何か、それは聞いてはいけないことのような気がしたのだ。わたしは、見てはいけないものを見たのではないだろうか?
夏海はカーテンを閉めながら、遠くの街路灯の光のかけらを雫の中に溶かし込んだ雨粒に打たれ続ける窓ガラスを見た。何も異常はない。
少なくとも、物理的には・・・。