3 雨の中の少年
大雨が降っていた。車のワイパーが追いつかないほどの土砂降りだった。
美咲はうかつだった。いつも通っていた道だったから、道路の高低差なんて気にもしていなかった。
深夜、仕事が引けて夜間保育から娘の美愛を引き取ってアパートに帰る途中、突然車の速度が落ち、エンジンが止まってしまった。立体交差部分で、冠水した道路の最底辺部に突っ込んでしまったのだ。
見えないフロントガラスと、眠くて助手席でぐずる美愛にばかり注意が向いてしまっていて、道路の高低差のことにまで頭が回っていなかった。
キーを回してみるが、エンジンはかからない。水に浸かってしまったらしい。
水かさがどんどん増してきているようだ。この雨量に排水設備が間に合わないのだろう。
ドアの下から、濁った水が侵入し始めた。
まずい。
もうこれは、車を置いて逃げなければ!
美咲はチャイルドシートのベルトを外し、美愛を自分の胸の方に抱き上げた。
「ママと外へ出るよ。」
ところが——! ドアが開かない!
そういえば聞いたことがある。車は水没すると、外からの水圧でドアが開かなくなる、と。
そういう時は、どうするんだったっけ? 窓ガラス割るやつ? 買ってない、そんなの——!
どうしよう? 誰か! 誰か——! 助けて!
あ、そうだ! 110番!
美咲が携帯から110番通報して助けを求めると、「救急車を派遣します」ということだった。電話が終わった直後、運転席側の窓ガラスを叩く音がした。
美咲が右を見ると、小学生くらいの男の子が立っている。白っぽい学生服のような変わった服を着て、頭は今どき珍しい丸坊主だ。
「大丈夫ですかぁ? 出られないんですね?」
少年は窓ガラスをとんとんと叩いて美咲に言う。
「これ、下げられますか?」
美咲はドアのボタンを操作してみたが、反応しない。美咲は首を横に振った。
「窓ガラス割りますけど、いいですかぁ?」
「はい!」
美咲は首を大きく縦に振ってうなずく。美愛の命と車なんか比較できない。
「ちょっと娘さんの頭を覆ってやってください。」
そう言うと、少年は車の前を周って左側の助手席の方に行き、拳を振り上げてガラスに叩きつけた。
バン! という音とともに助手席側のガラスが、粉々の宝石のような玉になって崩れた。
え? 特別な道具いらないの?
少年は窓ガラスのなくなったドアの上に手をかけ、力を入れて、ぐん、とばかりに引っ張る。
みしっ、とドアが鳴り、歪むようにして隙間のあいた上部から水が流れ込みだすと、ドアは大きく開いた。水が車内にどっと流れ込んでくる。
何? この子の力? ・・・・それとも、知恵?
泥水はすぐにシートを水没させた。お尻まで水に浸かったことで、美咲は少しパニックになった。
少年はそれを見るとすぐに、また車の前を周って運転席の方に来た。片手で軽々とドアを開ける。
ああ、そうか。水圧が・・・。
「さあ、お母さん。足元に気をつけて——。川みたいに流れてはいないけど、水底が見えないから。」
少年は美咲の手を取って引っ張った。その力は、これが子どもかと思うほどに強く頼もしい。
立ってみると、水は膝上くらいの深さだった。たったこれだけの水深で、車のドアは開かなくなるんだ——。
美咲は歩き出そうとしたが、よろけてしまった。少年が美咲の体をとっさに支えてくれる。その力の強いこと!
「お嬢ちゃん。お兄さんが肩車してあげようか?」
少年は、美咲が美愛を抱っこしたまま水の中に倒れたら危険だと思ったのだろう。
だけど・・・・。
ところが、普段は人見知りをする美愛が「うん」とうなずいて少年の方に手を伸ばしたのだ。
「あの・・・大丈夫ですか?」
「うん。僕は流れのある川でも慣れてるから。お母さんは、水の中を歩くのは慣れてないでしょ?」
慣れてないどころか、そもそも美咲はプール以外で水に浸かったことがない。
少年はそんな美咲の表情を見てから、「さ、おいで。」と言って、美咲の腕から美愛をひょいと抱き上げると、そのまま自分の肩の上に乗せた。
「さあ、お馬さんだぞぉ! お兄さんの頭にしっかりつかまってなよ。」
少年は美愛を肩車したまま、片手で美愛の足を押さえ、もう片方の手で美咲の手を取って歩き出した。
「ゆっくりでいいですからね。腰を安定させて——。」
少年はお尻近くまで浸かっているが、その歩きぶりは言葉どおり実に安定した頼もしさがあった。美咲の手を引く少年の手も、子どもとは思えないほど力強い。
この子、何者かしら? この時代に、自然の中を駆けまわって育っているとかなのかしら・・・?
美咲は水をかき分けるようにして進みながら、そんなことをふと思った。だが、美咲は気付いていない。
股下まで浸かりながら美咲の手を引っ張って進む少年の周りに、波が立っていないということに——。
やがて水深が少年の膝下くらいまでのところに来ると、少年は立ち止まった。
「ここで救助が来るまで待ちましょう。高架下から出ると、雨に濡れてかえって体力を奪われてしまうから。」
言われてみれば、すぐ前に水のカーテンみたいな土砂降りの雨の壁が立ちはだかっている。
ふり返れば、車はすでに窓まで水に浸かっていた。危なかった・・・。あとちょっと遅れていたら・・・。
遠くからサイレンの音が近づいてきた。
救急隊員が傘を持って高架下まで迎えにきてくれ、少年が美愛を美咲の腕の中に戻してくれ、救急車のベッドに座ったら、美咲は安心して力が抜けたせいか、それ以上動けなくなった。
美愛が・・・無事で、よかった・・・・。
ひとしきり母子に声をかけてから、救急隊員たちが少年にも話を聞こうとしてふり返った時———。
その白い少年の姿はどこにもなく、ただ、銀色の雨の簾だけがあらゆる景色を覆い隠しているだけだった。