27 海の底から
悟郎少年は状況を見定めると、すぐに住民を抱えて安全な場所に避難させるというプランを諦めた。予想以上に火の広がりが速い。
幸い水道は生きているようで、壮年の男性らが中心になってバケツリレーで建物を濡らし、延焼防止帯を作ろうとしていた。
が、火の勢いの方が強い。このままでは押し負けるのは時間の問題だった。
悟郎少年は一旦松ヶ洞団地から出て、空から地上を探した。
水を大量に運べるものはないか?
建設業者の資材置き場か何かだろうか、古いFRP製のタンクが置いてあるのを見つけた。
浄化槽か何かだったものだろう。汚れてフタもなくなっているが、これは使えそうだ。小さな亀裂くらいは入っていても、この幽体のスピードなら問題はなかろう。
戦時中と戦後を生き延びてきた悟郎少年にとって、手近な物で目的を達成する発想はお手のものだった。
悟郎少年はそれを抱え、袖口を伸ばしたベルトで固定すると、近くを流れる長良川へと向かった。
夏海はずっと、悟郎さんの肩を掴んだままで待っている。
やがて、テレビが現場からの中継が回復したことを伝え、画面に映し出されたリポーターが、たった今、映像が途切れていた間に現場で起こった奇跡について興奮した様子で語り始めた。
「白い少年! 白い少年が現れたのです! NETのウワサは本当だったんです! 私は見たんです! 映像が全く残っていないのが、記録されていないのが!・・・残念でなりません! でも私は! ここにいる全ての人が! たしかに見たんです! 鎮火させたんです! 死傷者も出ていない模様です!」
ああ、悟郎さん成功したんだ——。
夏海は悟郎さんの肩を掴んだまま、静かに口元を緩めた。
帰ってきてください。
お願い。ちゃんと帰ってきて・・・。
祈るように見上げる星空の一角に小さな白っぽいシミのようなものが現われ、それは次第に大きくなって人の形になった。
悟郎少年がゆっくりと、夏海のアパートの窓に向かって降下してきた。
窓の外に、ふわり、と浮くと、悟郎少年は夏海に笑いかけた。
「ただいま。約束どおり、ちゃんと帰ってきたよ。」
「お帰りなさい。」
夏海も泣きそうな顔で悟郎少年に笑いかけた。
白い少年は窓ガラスをすっと通り抜け、ふわっとした白い光になると、悟郎さんの肉体の胸に吸い込まれて・・・。
その瞬間。
夏海の手のひらの中から、悟郎さんの肩の感触が消えた。
悟郎さんの身体はきらきらと光る金色の光の粉になって、数秒の間そこに留まっていたが、やがて花火の粒が消えるようにして消えてしまった。
消える前に、その一部が夏海のおなかのあたりに吸い込まれたようにも見えた。
「悟郎さん? 悟郎さん・・・?」
夏海が、迷子になった幼な子のような声で悟郎さんの名を呼んで、部屋の中に視線を彷徨わせた。
だが、どんなに探しても、窓に向かって置いてある椅子は空っぽで、部屋には夏海以外の人の気配は全くなかった。
まるで初めから、誰もいなかったみたいに———。
梅雨の季節も明けようとする頃、夏海は妊娠していることを医師から告げられた。
夏海の父親は、胡桃たちの証言もあって、夏海の荒唐無稽な話を全面的に信じてくれた。もともと作り話の下手な子であることは、一番よく知っている。
「1人で大丈夫か? 大変だったら家に帰ってきてもいいぞ。」
経済的な問題はない。ただ、おなかにいる子の由来だけが、この数週間を知っている少数の人以外誰にも信じてもらえないだろう。
そんな中、須々木山さんが夏海にスペシャルな提案を持ちかけてきた。
「名前は当然・・・・だよな? でも説明に困るんだろ? 戸籍上なら、オレが『父親』として認知してもいいぞ。養育費は払えないけど——。オレみたいなヤツなら信憑性あるだろ?」
それから後ろをふり返って
「いいだろ? 幸江。」
と言うと、幸江さんが優しげな微笑とともに、こくり、とうなずいた。
「愛、弟ができるぞ。」
そう言って笑った浩一さんは、なんだか海神ポセイドンのようにも見えた。
夏海を取り巻く数人だけが知る『とっておきの秘密』を育んだまま、季節は夏を迎えようとしていた。
了
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