26 ヒーローは映らない
悟郎さんのヒーロー活動が、毎日ではなくなった。
その瞬間、が、いよいよ迫ってきて、少しは自分の体を長持ちさせよう、と考えたのか。あるいは夏海のためだったのか。夏海にはよく分からない。
ただ、それまで人目に触れることを避けて部屋に閉じこもりっぱなしだった悟郎さんが、夏海の休日に、一緒に街を歩いてくれることが、夏海には嬉しかった。
どうか。どうか神様。このまま悟郎さんをこの世に留めてください——。
悟郎さんの見かけはもう、夏海よりも年下だった。17〜18歳・・・。まるで、大学の後輩か弟とでも歩いているような風情だった。
たぶん・・・、あと1回、幽体になったら・・・。両方の年齢が揃ってしまうんじゃないか——。
そうしたら・・・・。
どうなるの?
夏海は、いつ、悟郎さんが「行く」と言い出すか——。それが怖かった。
だけど・・・。それを止めてはいけないことも、夏海には分かっていた。
それは、90年生きてきた悟郎さんの思いと決断であり、たかが23年しか生きていない夏海なんかの踏み込んでいい領域ではないのだ。
悟郎さんの体ではなく、魂を、その存在を大切に思うなら、泣きながらでも、その全てを尊重しなければいけないのだ——と分かっている。
夏海は、今、この一瞬の悟郎さんを、全て感じとり、記憶しておこうと、心の隅々までを研ぎ澄ました。限界まで巻き上げられた弦楽器の弦みたいに。
その音色が哀しいほどに美しい。
そんな張り詰めた濃密な日々の中で、その日、まだ夕暮れの気配が残っている美濃地方を地震が襲った。
マグニチュード自体はそんなに大きくなかったが、内陸型の直下地震で、場所によっては被害が大きい。
地震情報を見ようとつけたテレビが、少しずつ県内の被害状況を伝え始めた。
美濃あたりでは、山と山に挟まれた指の股のような場所を『洞』と呼ぶ。
平地の中に、意外なほど峻険な山がいくつも立ち上がる美濃の地形には、洞のつく地名が多い。
松ヶ洞団地も、そんな場所に開発造成された古い団地だった。
そこに至るための唯一の県道が、地震による斜面の崩壊で2箇所が通れなくなってしまった。つまり、松ヶ洞団地は陸の孤島として孤立してしまったのである。
しかもまずいことに、複数の家屋から火災が発生した。折からの強風にあおられて火の回りが速い。・・・が、道路が寸断されてしまっているため、消防車が入れない。
200世帯ほどになる団地の住民が、逃げ場のない窯の中に放り込まれたような状態になった。
その様子を地元テレビ局のヘリが中継した映像が映った時、悟郎さんは決然として立ち上がった。
「これは、行かなきゃ——。俺にしかできないことだ。今の俺になら、できることがある。」
悟郎さんが窓際の椅子に座るのを、夏海は震えるような眼差しで見つめている。しかし足は固まったままで一歩も動かない。
ただ、か細く泣くような声で
「帰ってきてね・・・。」
という一言だけをその背中に投げかけた。
悟郎さんはふり返って、透き通るような笑顔を見せた。
「必ず帰ってくる。約束するよ。」
それから再び前を向くと、胸のあたりからふわりと白い光が窓の外に流れた。その瞬間に肉体が若返る。
窓ガラスを挟んで向き合った『白い少年』は、若返った肉体と瓜二つだった。
悟郎少年は夏海に微笑んでみせると、ちょっと敬礼するような格好で片手を上げ、それから夜空へと一直線に飛んでいった。
夏海は椅子の後ろに歩み寄って、椅子に座った悟郎さんの肩にそっと手を置く。その身体は固まったままではあるが、生きている肉体の温かさが夏海の手のひらに伝わってきた。
そして、幽体の悟郎さんが飛んでいった空を見ようと前を向いた時、夏海の顔がこわばった。
悟郎さんが、窓ガラスに映っていない。
ガラスに映っているのは、空っぽの椅子と、その椅子の背もたれの上の何もない空間に両手を伸ばした夏海の姿だけだった。
夏海は目を戻して、悟郎さんの身体をその手で触りなおした。そこには間違いなく、温かく息づいた肉体が存在する。
しかし、ガラスにはそれが映っていない。
これまで夏海は、椅子に座った悟郎さんの身体の方ばかり見ていたから、幽体が離れている時にそれが窓ガラスに映っているのかどうかまで気にしたことがなかった。
いつもこうだったのか?・・・・・それとも今日だけの特別な現象なのか?
やがて、現場を中継していたテレビが、砂嵐のようになって何も映らなくなった。
「えー、電波状況が悪いようです。現場の柴垣さん。現場の柴垣さん?・・・えー、それでは現場がつながるまでスタジオから、専門家の・・・」
現場のテレビクルーたちも困惑していた。突然回線が通じなくなり、カメラも写らなくなってしまったのだ。
そして。
空から現れたのは、NET上で噂されるあの『白い少年』だった。
「い、今! 空からあの『白い少年』が現場に降りてきました! いたんです! 本当にいたんです!」
リポーターは思わずマイクに向かって叫んでいた。
「電波状況が悪いようですが、届いていますでしょうか!? この声が届いていることを信じてリポートを続けます! カメラが故障して写らないのが残念です! あの『白い少年』です。カメラに映らないという噂は本当だったのでしょうか。この声だけでも届いておりますでしょうか!?
今、『白い少年』は、燃え盛る炎の中へと飛んで行きました! 飛んで行ったのです! 空を飛んで——!」
火災は、団地の入り口方向から山側へ向かって燃え広がりつつあった。自然、住民たちは山の裾へと追い上げられるように避難せざるを得ない。
が、その先に逃げ道はない。
車椅子の高齢者も幼児もいるのに、山など登れるものではない。登ったところで、下から火に追われてしまったらそれこそ地獄だ。




