23 家族の時間
悟郎少年はゆっくりと飛ぶ。5月の夜気を味わうようにして。
眼下の無数の灯りの1つ1つに、きっと、いや、間違いなくささやかな暮らしが育まれているに違いない。
それは必ずしも幸福ではないかもしれないが、どうにかこうにか灯りを点ける程度には回っているのだろう。
こんなふうに眺めていると、自分もそういう灯りの1つなんだな・・・と、浩一の視界が広がってゆく。
遠くに運送会社のベースの灯りが見えた。
今夜もあそこでは、どこかの異国から見果てぬ夢を抱いてこの地にやってきた若者たちが、怒鳴られながら荷物を放り投げているんだろう。
浩一の口元が、ふと緩んだ。
「もう、こんな経験、普通できるもんじゃないわぁ!」
胡桃がまたはしゃぐように言う。
「これも須々木山さんのおかげだぁ。」
そんなふうに出会いを表現して、胡桃は横目でちらと浩一の表情を盗み見ようとする。浩一は何も言わない。
街の灯の微かな照りの中で、浩一の口元がやや苦めに微笑しているように見えたのは、胡桃の見間違いかどうか・・・。
やがて、悟郎少年が下降を始めた。
その行先は・・・
「あれは、オレのアパート・・・。」
そんな浩一の呟きに、悟郎少年は笑顔で答えた。
「愛ちゃんに見つかった。目ざといね。」
みるみる地上が近づいてくると、浩一のアパートのベランダで愛ちゃんがこちらを見上げているのが見えてきた。
今夜も、悟郎さんが来ないかと期待して、ベランダで空を見ていたのだろう。
その悟郎さんが、お父さんと知らないオバさんを抱えて降りてきたことにびっくりした顔をしている。
悟郎少年はベランダにふわりと着地した。しゅるん、と袖口の安全ベルトが解ける。便利なものだ。
「お・・・父さん?」
「途中で拾ってきちゃった。あとで車のところまで送るから。愛ちゃんも一緒に飛ぶ?」
愛ちゃんが目を輝かせて顔中で笑うと、浩一も今夜初めて笑顔らしい笑顔を見せた。
「お兄ちゃん、また大きくなった?」
愛ちゃんの問いかけに、悟郎少年は黙ってうなずく。そういえば、前に見た時よりも成長しているように見える——と浩一は改めてこの生き霊少年を見た。
「幸江さんも一緒にどうです?」
それまで口を両手で覆ったまま、声を失っていた幸江が初めてややかすれた声で言葉を紡いだ。
「わ・・・わたし、高いところは・・・。」
「大人2人は軽く抱えられますから。それに愛ちゃんは抱っこ紐で大丈夫だし、2人とも安全ベルトも付けますから。3人大丈夫です。」
そう言うと、悟郎少年の背中あたりから抱っこ紐が現れ、愛ちゃんにしゅるっと巻きついて前向き抱っこの形になった。
「きゃは♪」と愛ちゃんが歓声をあげる。
続いて右手に浩一を抱えると、袖口の安全ベルトが浩一の体に巻きついた。
「幸江も来いよ。面白いぞ。あんな経験は、普通できるもんじゃない。」
浩一が尻込みしている幸江を誘った。かつて、新しい生活を始めようとしていた頃の気持ちを思い出している。家族サービスのつもりだった。壊れかかっている関係を修復する千載一遇のチャンスじゃないか。
この生き霊少年が提供してくれる経験は、どんな金持ちだろうと買うことのできないものではないか。
この生き霊少年は、なぜ自分にこんな好意を向けるのか。その好意の代償はなんなのか。浩一は、今はそれを考えないことにした。
たとえそれが、自分の魂をよこせということであっても——、いいじゃないか。今、こんなふうにして最高の「家族の時間」が得られるなら・・・。
こんな人生の、オレの魂だろうが命だろうが、くれてやる。
幸江は、浩一の目の中にある必死さに引きずられるようにして、悟郎少年の傍にやってきた。
悟郎少年は左手で愛ちゃんのお母さんを抱えると、怖くないように広めに安全ベルトを巻いた。
「胡桃さんは、少しここで留守番しててください。あとでちゃんと拾って帰りますから——。」
言うが早いか、悟郎少年は、ふわり、とベランダから夜の中空に浮き上がった。
満月に少し足りない月が、雲の切れ間に浮かんでいる。
雲の形から、何か大きな生き物の眼のようにも見え、上ってゆく4人を優しく眺め下ろしているようだった。
ベランダに残された胡桃は、4人が見えなくなった夜空を見上げていた。
俺は飛べる——ってこういうことだったのか。これが、90年生きてきた人の経験と知恵ってやつ・・・?
でも、これって、ただのカウンセラーには無理だよね?
夢のような遊覧飛行のあと、コンビニの裏手に舞い降りた悟郎少年は3人の安全ベルトを解いて、駐車場の車まで送っていった。
「車、運転して帰ります? それとも車ごと飛びましょうか?」
「飛びたい!」
愛ちゃんがすかさず返事すると、悟郎少年は車の後ろに回ろうとした。
「待てよ。1つ教えてくれ。この代償は何なんだ?」
運転席のウィンドウが下がって、浩一が顔を出した。
「代償なんてありませんよ。それは俺が払ってる。・・・いや、1つ浩一さんにはあるかな——。明日の昼間、本体の方で話しに行きます。もっとも、この生き霊が成長すると同時に身体の方も年齢を吸い取られるように若返ってますから、90には見えないかもしれませんが。」
悟郎少年は車のリアに回ると、両手で後輪の後ろあたりをガシッと掴んで、そのまま車ごと浮き上がった。
たまたまコンビニから出てきた若い2人が、それを目撃した。
「おい、あれ!」
「え? 何?」
「ひょっとして、『白い少年』じゃねーの? あれ・・・」
「車持ち上げて飛んでくぞ!」
2人はスマホを構えて撮影しようとするが、画面が乱れて写らない。
「愛、おまえいいなあ。こんなの何回もやってもらったんだ——?」
浩一が、父親というより年の近い兄が妹を羨むような言い方で言った。
「へへへ・・・。」
愛ちゃんが嬉しそうに笑う。それを見て幸江が、久しく見せたことのない笑顔を見せた。
浩一は泣き出しそうになりながら、ハンドルを握りしめた。
これが・・・。こんな時間が・・・、オレが本当に欲しかったものだ!
もう、明日死んでもいい———。
いや、死んでしまいたい! これを頂点に——!




