22 夜間飛行
胡桃はさりげなくコンビニの駐車場を歩いて、くすんだメタリックレッドの軽自動車の脇を通った。
感染者数が減って自粛気分が少し緩んできたのか、コンビニの中にはそこそこ人がいるようだった。
運転席側の窓から覗くと、須々木山浩一がマンガ週刊誌を開いて虚ろな視線をそこに落としていた。靴は脱いで、片足をハンドルの脇からダッシュボードの上に乗せている。
浩一がページをめくっていないことに、臨床心理士でもある胡桃はある種の危機感を覚えた。
「須々木山さん?・・・ですよね?」
浩一が、ビクッとして胡桃の方を見た。それから、そんな自分の動揺を取り繕うようにゆっくりと足を靴の上に下ろした。
「てめぇ、あの時の女! ここで何してやがる?」
言葉のわりには声に力がない。
「あ、いえ、たまたま仕事帰りにコンビニ寄ったら、見たことある顔があったもんですから——。」
胡桃はマスクをしているので、目を思いっきり笑顔にした。
「いい記憶力だな。1回会っただけの人間の顔と名前まで覚えてるとは——。」
ガチャっとドアが開いて、浩一が車から出てきた。目が据わっている。その目の中に殺気がある。
「てめぇ、児童相談所だろう? オレをつけ回してんのか? ストーカーだなぁ! え? おい!」
今にも殴りかかってきそうな目の光だ。
ヤバい。
自分の身が、という以上に胡桃は浩一のことを心配した。こんな衆目のある中で暴力沙汰を起こしたら、それこそ浩一さんの人生が詰む。
(あかん! 扉閉められたどころか・・・! やっぱりナッツに来てもらえばよかった——。)
胡桃は自分の心理士としての未熟を、歯噛みするようにして思った。
が、次の瞬間、浩一の目の中の殺気が恐怖に変わった。その恐怖の眼差しのまま、胡桃の肩越しに何かを見ている。
胡桃がふり返ると、そこに悟郎少年がいた。
「お・・・おまえは・・・! あの時の幽霊!」
「あの時は、事情も分からず乱暴して、申し訳ありませんでした!」
悟郎少年は、ぺこっと体を90度折り曲げるようにして頭を下げた。
「俺は幽霊じゃないです。生き霊なんです。身体の方は90歳の戦中派なんですが、ちゃんと生きてます。」
それから両手をちょっと広げて見せ、自己紹介を始めた。
「なぜか身体を飛び出すとこの姿になってしまって——。高橋悟郎と言います。先日、この人と一緒に伺った新城夏海さんの勤め先の老人ホームに、ちょっと前まで入所していた老人です。」
(え? バラしちゃうの?)と胡桃は焦った。
「この人は胡桃さんと言って、夏海さんの友達でそちらの専門家でもあります。愛ちゃんや浩一くんのことを心配した俺が相談に乗ってもらったんです。あ、すみませんね。浩一くんだなんて——。でも、俺からすると浩一くんも孫の世代だもんだから。」
そんなふうに言って浩一を見る悟郎さんの目は、少年のそれではなく、縁側で孫を眺める爺さまのような眼差しをしている。
浩一は車のサイドに尻を預けたまま、茫然としてこの奇妙な白い少年を眺めている。理解が追いつかない、という表情だ。
「浩一くん、空を飛んでみないか? この姿の時の俺は力も強いし、空も飛べる。抱えて飛んであげるから——。気分が晴れるぞ。
実は、愛ちゃんとは3回くらい、そうして飛んでるんだ。すごく喜んでくれたよ。浩一くんもどうだい? たまには子供になっちゃってさ。
俺もこの姿よりもうちょっと小さい頃、空が飛びたい、って思ってた。いつかロケットに乗って、宇宙にまで行ってみたいなんてね——夢を見たさ。・・・でもその夢は戦争が跡形もなく砕いてしまったけどね。」
浩一が、解説を求めるような目で胡桃を見た。
「あ、えっと・・・わたしも実は抱えられて、空を飛んでここまで来たんです。」
なんという荒唐無稽な話だ——と、胡桃自身でも思う。
「空から、専門家の助言をもらいながら浩一くんを探していたんだ。」
「あ・・・その・・・、悟郎さんが、須々木山さんが職場にも家にもいないって言うから・・・その・・・つまり・・・」
「自殺する場所でも探してるんじゃないか、って心配してさ。」
え? こんなストレートに言っちゃうの? と胡桃は、悟郎さんと浩一さんをかわるがわる見たが、意外にも浩一さんは曇りのない目で悟郎さんの顔を見ている。
むしろ荒唐無稽である分、余計な負の感情が発動しないのかもしれない。
ならば・・・。
「ここじゃあ、人目がありますから、その先の公園の人に見られない場所でわたしが抱えられて飛ぶところ見せますから。よかったら須々木山さんもどうですか?」
胡桃もこの機を逃すまいと、この非日常的な会話をつないで、まるでお茶にでも誘うような口調で浩一を誘った。
胡桃にとっては賭けだったが、浩一は意外にも何の口答えもせず、虫が灯りに誘われるようにしてついてきた。
建物の陰の人目につかない所に来ると、悟郎少年は何も言わずに浩一の腹のあたりを右手で背中から抱え込んだ。
同じように胡桃も左手で抱え込む。袖口が伸びて命綱のように2人の体に巻きついた。
「怖かったら言ってください。いつでも降りますから。」
言うが早いか、3人の体はふわりと宙に浮かび、それからみるみる速度を上げて上昇していった。
雲の切れ間に星が見えている。3人はそこに向かって上昇している。
まるで、星たちの棲む魔法の国の湖に向かって落ちているようでもあった。
下から見えない程度の高度まで来ると悟郎少年は上昇をやめ、2人が地上の夜景を見られるような姿勢をとってくれた。
「わあー! きれい!」
胡桃が歓声をあげる。
「さっきは須々木山さんを探すので必死だったけど、何の心配もなく空から見る夜景って最高!」
はしゃぐ胡桃の耳に、くすっと浩一が笑ったような声が聞こえた。
胡桃ははしゃぎながらも、その言葉とは別に目の端で浩一の表情をとらえている。
大丈夫そうだ。表情は暗くない。
浩一にとっては、こんな視界は生まれて初めて経験するものだった。当然の話だが、浩一はこの年になるまで飛行機になど乗ったこともない。
いつも地面を這う虫のようにして生きてきて、空はただ時々眺め上げるものでしかなかった。
恵まれた連中は海外旅行などと言って、しょっちゅう飛行機に乗って空から地上を眺め下ろしているんだろうな——。いや、飛行機じゃ高過ぎてこんなふうには見えないか。自家用ヘリなんかを持っているヤツは・・・いや、それも爆音の中で窓から眺めるだけか——。
こんなふうに、夜風に頬をなぶられながら身一つで宙に浮かんで街の灯りを眺めるなんて——。普通じゃあり得ない経験じゃないか?
街の灯りの中の光のない黒い帯は、あれはこの街を流れる川か。空から見ると、こんなふうに見えるのか・・・。
夜気に5月の香りが乗っている。隣では若い女の子が、きゃあきゃあはしゃいでいる。それを運んでいるのが、90歳の生き霊だと言う幽霊少年——。
オレは夢を見てるんだろうか? これはまるで、おとぎ話の世界・・・。




