20 again
「年長」をかさに着ないところが、悟郎さんの美質だろう。若い人の話でも、自分の知らないことなら全身を耳にするようにして聞こうとする。
この地域で中規模の貨物運送会社を切り盛りして、裸一貫からそこそこの財産を築いたのも、こういう美質に人が集まり、よく従ってくれたことも一因ではないだろうか。
夏海は昼休みに胡桃ちゃんに電話をして、仕事が引けてから悟郎さんの相談に乗ってもらえないかと聞いた。
「秘密基地へご招待 !? 行かいでか!」
胡桃ちゃんは、例のテンションで二つ返事してくれた。
「遅くなったら、泊まっていいよ。お布団2つあるし。わたし今日、帰り遅いし。」
「1つのベッドで寝てるわけじゃないんだ。(笑)」
「やめてよ。」
「悟郎さん、どうすんのよ?」
「悟郎さんは、夜は窓際で座ってるから——。」
「あ、そうか——。」
胡桃は、まだ主人の戻っていない部屋で悟郎さんと向き合っていた。
「それは鬱状態に入ってるんだと思います。その先が危ないから、早めに介入した方がいいんだけど・・・。」
介入の手立てがない。担当の児相に連絡するにしても、いったい誰がどういう状況でそれを知ったことにして通報するのか——。
説明のつくシチュエーションがない・・・。
「介入、というのは?」
と悟郎さんが聞いた。
「父親の浩一さんの相談相手になること——。カウンセラーを派遣するのがいいんだけど・・・。わたしも一応、カウンセラーの資格、持ってはいるけど・・・。この前、思いっきり拒絶されちゃってるし・・・。」
胡桃は自信なげに床に視線を落とした。
「猛烈なプライドの城壁が、誰かが中に入ることを拒んでるんです。それは屈辱感と同じもので出来てて・・・、崩れ出したら、あっという間に彼自身を押しつぶしてしまうと思っているから、必死で守ってるんだと思います。」
「崩しちゃダメなんだな?」
「ええ。自分で扉を開けて、中に招き入れてもらわないと・・・。今の鬱は、それが崩れる寸前なんだと思う・・・・。」
玄関の鍵が回る音がして、夏海が帰ってきた。
「ただいまぁ。胡桃ちゃん、来てる? ・・・あ、なんか、深刻な話・・・?」
夏海はちょっと、なんか場違いな声を出したかな? という目をした。
「おかえり、ナッツ。あ、マスクそのままね。勝手に上がらせてもらってるよ。」
胡桃は座っていた床の位置を少しずらして、夏海のために場所を空ける。
「ん、深刻というか、例の城壁の話ね。」
それからまた、悟郎さんの方を向いて続きを話し出した。
「虐待を受けた子どもって、子ども時代がないんだよ。浩一さんの場合、特にそれが顕著なんだと思う。だから彼は、子ども時代をどういうふうに作ってやればいいのかわからないんだ。なのに現実には家族がいて、8歳になった子どもがいる。
そういう場合、たいていはディズニーランドに連れてったり、やたらカワイイ服を着せたりと、子ども本人の気持ちとは無関係に『親』のイメージを押し付けたりするんだよ。虚像なんだ。」
胡桃はマスクをずらして、少し温まってしまったジュースを1口飲んだ。
「彼の場合たぶん『子どものいる家庭を持っている』ということ自体が、彼が自分自身に向けて創り上げた虚像なんじゃないか、と思う。自分はちゃんと大人になれたのだ——という・・・。それなのに、そこにいる奥さんと愛ちゃんは生身の人間で・・・、虚像とはどんどんズレていく・・・。彼の城壁は、その虚像を現実から守るために作られているんだ・・・と、わたしは思う・・・・。」
そう言って胡桃はまた、少し悲しそうな視線を床に落とした。
しばらく連絡なかったけど、胡桃ちゃんは胡桃ちゃんで、ずっと考えていてくれたんだ——と夏海はありがたく思った。
こんな答えは、わたしじゃ出てこない。虐待を受けた経験のある胡桃ちゃんだからこそ、ここまで深く洞察できるんだろう。
しばらくの沈黙があった。
「わたしは・・・中に入れる自信がない・・・・」
胡桃ちゃんがぽつりと呟くと、少しして悟郎さんが言った。
「中に入れれば、いいんだな? 城壁を壊さずに——。」
「悟郎さん・・・?」
「俺は飛べる。夏海さん、明日は休みだったな? 胡桃さんは時間取れそう?」
「有給取ってきた。今日は泊まる気だったから。・・・でも、その城壁ってのは現実のものじゃなくて・・・」
「そりゃありがたい。専門家がいた方が心強いからな。明日の昼間、2人に付き合ってもらうことになるかもしれん。」
悟郎さんは胡桃ちゃんの言葉をさえぎってそう言うと、窓際の椅子に外を向いて座った。
「ちょっと行ってくるよ。」
悟郎さんの頭がゆらゆらと揺れると、悟郎さんの胸から、すうっと白い光が現れて窓ガラスの向こうで少年の姿になった。
胡桃ちゃんはもう、さっきとはうって変わった表情になってそれを見ている。
悟郎少年は、そんな胡桃ちゃんにこっと笑いかけると、そのままシュッと夜空に向けて飛んでいった。
胡桃ちゃんは跳ね上がるようにして窓に駆け寄り、空を見上げた。が、もう少年の姿は見えない。
「胡桃ちゃん、悟郎さんの目をのぞいてごらんよ。今、少年の方の悟郎さんが見ているものが映ってるから。」
夏海がアドバイスすると、胡桃ちゃんはふり返って彫像のように固まった悟郎さんの目を覗き込んだ。
その黒々と潤んだ瞳には、上空から見た街の灯りが流星のように流れてゆくのが映っていた。




