2 国民服の少年
どんな状況下でも街から人がいなくなるというようなことはなく、地方では大都市であるここ名古屋の繁華街でも、時短要請に応じていない店もあれば、夜ほっつき歩く者もそれなりにいた。
むしろ、行儀の良い連中が引きこもった分、閑散とした夜の街には荒れた雰囲気すらあった。
「コロナなんて、ただの風邪だぁー!」
飲み会の後、会社の同僚2人をタクシーに乗せて見送り、自分は終電に乗るために独り気を吐いて駅の方へ歩き出した中年のサラリーマンがいる。
彼に思いがけない災難が待ち受けていたのも、こんな特殊な背景が一役買っていたのかもしれなかった。
普段ならまだ酔客でいっぱいの道が、今は閑散として街路灯の光だけがしらじらとアスファルトを照らしている。
そんな路上で、中年サラリーマンの行く手に3人の若者の影が立ちはだかった。まだ15〜16の少年に見える。全員が黒いマスクをしている。
「なんだァ、おまえたち。年いくつだア? こんな夜更けにィ。どこの学校ダァ?」
サラリーマンは、酔っぱらって気が大きくなっていた。
「オジサン。マスクもしないでメーワクだよね?」
「こんな時に、夜のマチで飲んでるなんて、社会のゴミだよね?」
「ああ?」
サラリーマンが目を据えた時、若者の1人がそのおぼつかない足めがけてローキックを放った。膝の側面に少年の足の甲がめり込み、関節が、みしっ、と鳴った。
明らかに相手の体を壊す意図を持った蹴りだ。
「あ! 痛っ!」
サラリーマンは、腰から横に崩れるようにして路上に倒れこんだ。その腹に、もう1人が容赦なくトゥーキックを突き刺す。
「うっ・・・・!」
サラリーマンは、アスファルトの上で横向きになった胎児のように体を丸めた。
そこで一旦、暴行は止まった。
「オジサン、金持ってるよねェ? こんな時に飲んでるくらいだから。金出せよ。金額によっちゃあ、ここで終わりにしてやるからヨ。」
他の2人がへらへらと笑う。
「オレ、まだ蹴ってねーんだけど?」
「あー、分かった。じゃあ、金額によっちゃあ、あと1蹴りで終わりにしてやるからヨォー。」
「ぅげろ!」
サラリーマンが体を丸めたまま、路上に胃の中のものをぶちまけた。
「うわ! きったねー!」
「おまえ、まだこれ、蹴りてぇ?」
「いや、遠慮するわ。さっさと金盗ってバックれようぜ。」
「ィへへへへへ・・・。」
その時だった。この3人の無法者の背後で、甲高いが腹の底からの声がしたのは。
「おい! おまえたち! 年長者になんということをしておるか!」
「は?」
3人がほぼ同時にふり返った。
2メートルほど先に立っていたのは———
小学生くらいの子どもだ。
頭はマルコメくんみたいに丸坊主で、目を、らん、と輝かせ、白っぽい学生服みたいな変な服を着て、足は裸足だった。
3人の若者は知らなかったが、この小学生くらいの少年が着ているのは「国民服」というやつだ。ただ、本来の国民服はこんな白い色ではない。
まるで、戦時中の尋常小学校の6年生あたりが、突然21世紀の名古屋の街に現れたかのような奇妙な風景だった。しかも、どことなく周りの風景から浮き上がっているような感がある。
全身真っ白というのは、ひょっとして幽霊だろうか? それにしては、足がしっかりと路面を踏みしめているようだが・・・。
もっとも、幽霊に足がない、というのは本当のことかどうか——。
だが不幸にして、この若者たちにはそういう「知識」は何一つなかった。
「なんだァ、このガキ?」
「おい、いいから、さっさと金盗って行こうぜ。」
1人がサラリーマンのポケットを探ろうと向きを変えた時、ほとんど瞬時に、国民服の少年が2メートルの間合いを詰めて「せいっ!」という掛け声とともに1人の若者のみぞおちに突きを入れた。
そう。「パンチ」ではない。「突き」だ。空手か古武道のような型である。
その威力も子どもの力とは思えないようなものだ。若者は「うっ」という声さえ出せずに、体をくの字に曲げた。
「歯ぁ食いしばれぇ!」
少年の声が響いた。
若者らが何の反応もできないでいるうちに、国民服の少年は跳び上がるようにしてもう1人の若者の横っ面にゲンコをくれた。その跳躍力も子どものそれではない。
ボギッ、と歯の折れる音がした。そのまま、白目をむいて路上に膝から崩れ落ちる。
「なんだぁ、こいつら? なんというひ弱さだ。おまえら、それでも日本男児か?」
これ、おかしい。
小学生なんかじゃない、こいつ。 なんか、ヘンなバケモンだぞ?
だいたい、街路灯の下にいるのに、影がないじゃないか!
残った1人がいきなり、まだうずくまっているサラリーマンを飛び越えるようにして逃げ出した。
最初に突きを入れられた男も、よたつきながらもその後を追って逃げてゆく。路上に気絶している若者だけが取り残された。
「おい、おまえら! 仲間を置いて逃げるとはなんだ! この卑怯者!」
が、白い少年はそれ以上は追わず、うずくまっている中年男性の腕に手を伸ばした。
「大丈夫ですか、おじさん?」
まだ腹を押さえている中年サラリーマンは、明らかに目の中に恐怖を浮かべて、この坊主頭の少年の顔を見ていたが、それでもかろうじて、という感じで1つだけ言葉を絞り出した。
「あ・・・ありがとう・・・・」
だが、言えた言葉はそれだけだった。
あとは、相変わらず恐怖をたたえた目を大きく見開いて少年の顔を見たまま、唇だけが、うあうあと動いて声を出すことができないでいる。
尻餅をついたまま、両手両足を動かしてずるずると少年から遠ざかろうと後ろに下がってゆく。
少年は何も言わず、ふっと微笑を浮かべると、くるりと向きを変えた。
倒れている若者の首に手を当てて脈があるのを確かめる。それから、少年はすっくと立ち上がって夜空を見上げた。
とん、と少年の足が地面を蹴る。
少年の体は、ふわり、と浮き上がり、そのままシュッと一直線に夜空に向かって飛んだ。
やがて、街灯やネオンの光が届かない高さまで上昇すると、少年の姿は夜空の闇に紛れて見えなくなった。