14 夜空の天使
今日もお父さんは仕事に行った。
何の仕事か分からないけど、このところ夜に出かけることが多い。昼間はほとんど寝ている。
殴られなくなったのはいいけれど、この数日でお父さんの顔は以前よりもっと暗くなっている。目に光がなく、お酒さえあまり飲もうとせず、午後、愛が学校から帰ってくると、敷きっぱなしの布団に丸まって寝ていた。
時々、突然大声を出す。
「ちきしょオ———! なんでだ! バカヤロォ———!」
そんな時、愛は自分からベランダに出て、寄せられたカーテンの陰に隠れる。
でも、それっきりで、お父さんは起きてくるわけでもなく、また静かになってしまう。愛にとっては、むしろ怒って殴ってくるお父さんよりも、今の方が怖く感じられた。
お父さん、このまま壊れちゃうんじゃないだろうか——?
愛が小さい頃は、お父さんも優しかった——という記憶がある。あるいはそれは、願望が実際の記憶とすり替わったものかもしれない。・・・が、そう疑うには、愛はまだ幼すぎた。
ゲームを買ってくれたこともあった。(・・・はずだ)
家にあるたった1つのゲームがそれだが、愛は今はもう、それをやりたいと思うことがなくなった。
飽きたのか、それともそのゲームの牧歌的な世界がかえって辛いのか、愛自身にもよく分からない。
お母さんはまだ帰ってこない。パート先の病院で炊事場の皿洗いが終わるのは、夜8時を過ぎる。
家の中は静かで平穏ではあったが、愛はすることもなく、ベランダに出て星空を見上げて一人でお話を創って遊んだ。
この暗い空は海。
星は、そこに浮かぶ不思議な生き物たちの眼。
愛はベランダに逆さまにぶら下がっていて、生き物たちは愛が落ちてくるのを、今か今かと待っている。
愛が落ちていったら、愛は生き物たちの仲間に入れてもらって遊んでもらえるのだろうか。
それとも、食べられてしまうのだろうか。
すると生き物の1つが、海から愛の方に向かってどんどん上がってきた。
やがてそれは、あの白い男の子の姿になり、ふわり、とベランダの愛の前に降り立った。
天地が逆転した。
「お父さんもお母さんも出かけてるんだね。」
空から降りてきた白いお兄ちゃんは、前の時と変わらない優しげな声で話しかけてきた。前よりなんだか背が伸びてるように感じたのは、愛の思い違いだろうか。
「うん。お仕事に行ってるの。」
「どんな仕事? 遅いの?」
「お母さんは、病院のお皿を洗う仕事。9時頃には帰ってくる。お父さんの仕事は知らない・・・。前は、昼間のお仕事だったけど、今は夜——。」
「ひとりぼっちで寂しくない?」
悟郎少年のそんな問いかけに、女の子はふるふると首を横にふった。かえってこの静寂は、この子にとっては安息であった。
そんな女の子に、悟郎少年はとびっきりの提案をした。
「お兄ちゃんと一緒に空を飛んでみるかい? お母さんが帰ってくるまで。」
女の子が目を輝かせたのを確認すると、悟郎少年は女の子の背中から腕を回し、ひょいと抱きかかえた。
そのまま、ふわり、と浮き上がる。
「怖かったら言ってね。いつでも降りるから。」
「うん。」
そう返事した愛ちゃんの声は、これまで悟郎少年が耳にしたどの時の声よりもはずんでいる。
アパートがみるみる小さくなってゆく。1つ1つの建物の窓の灯りがどんどん小さくなって、それらの無数の集まりが視界いっぱいに広がってゆく。
さっき見上げていた星空とは別の、もう一つの星空だ!
「すごぉい! きれい・・・!」
道路を流れてゆく光は、車のライトだろう。点滅しているのは信号機。こちらに突き出してきているのは高いビルだ。そのてっぺん付近でチカチカしている赤い光は何だろう?
「ねえねえ、お兄ちゃん! あれは何?」
はしゃぎながら聞く愛に、悟郎少年は一つひとつ小さな子にも分かるように解説しながら、ゆっくりと飛んでくれた。
愛は夢を見ているのだろうか? まるでこれは、アニメの中お話のようだけれど・・・。
しかし、頬に当たる夜風は心地よく髪をなぶってゆき、愛自身の体重はしっかりと悟郎少年の腕に支えられているのが分かる。
そうした身体感覚の1つ1つが、これが「現実」であるということを愛に伝えていた。
30分ほどの遊覧飛行を終えてアパートのベランダに戻ると、愛ちゃんの表情は見違えるほどに明るくなっていた。
同時に、ひどく名残惜しそうな表情もしている。
「またやろう。誰もいない時に——。」
悟郎少年がそう言うと、愛ちゃんは顔中に笑顔を広げた。
「ねえ・・・。」
帰ろうとする悟郎少年に、愛ちゃんが遠慮がちな声をかけた。
「お兄ちゃんは・・・、天使さんなの?」
「ちょっと違うなぁ——。」
悟郎少年は、陰りのない笑顔を見せた。
「僕はこれでも、生きてる人間なんだよ。ちょっと変わった力を授かっちゃっただけのね。」
そう言うとそのまま、ふわりと浮き上がって、星空の中へと消えていった。




