第五話 鴨川源流
古都を流れる鴨川。
ふと思った“不思議”が、川を遡り、歴史を掘り起こします。
その言い伝えとは?
世界遺産・賀茂御祖神社。一般には“下鴨神社”の名で知られ、玉依媛命〈東殿〉と賀茂建角身命〈西殿〉をご祭神として祀っている。
賀茂別雷大神をご祭神とする賀茂別雷神社、所謂“上賀茂神社”と共に賀茂社として平安遷都以前から存在する、京都では最古の神社だ。そして、例祭として行われる“葵祭”は、京都三大祭りのひとつとして全国に幅広く知られる。
涼子はこの日、その葵祭の露払いとして行われる『流鏑馬神事』の撮影に訪れていた。下鴨神社といえば出町柳のすぐ近く。もちろん美沙も手伝いに来ていた。
通常この様な撮影には助手は必要ないが、小柄な女性写真家である涼子のために、美沙は踏み台を用意して運んでいた。スーパーカブの大きな荷台に大容量のボックスを積めば、かなりの荷物を運ぶ事が出来る。“働くバイク”として誕生したスーパーカブの利点だ。そのお陰で、涼子の得意とする大胆な構図が活かされ、力強い表情を捉えた迫力満点の作品が量産されていった。
「葵祭そのものより、この方が燃えるわ。」
涼子の笑顔は、とても満足げだ。
「流鏑馬やってるのって、ここだけ?」
「京都で流鏑馬って言うたらここ。上賀茂神社では、またちょっと違う行事があるねん。“葵祭”自体はどっちも関わりがあって、そもそも上賀茂神社と下鴨神社は、元々は同じ神社やったんやけど、流鏑馬は下鴨神社。上賀茂神社では賀茂競馬。賀茂競馬って言うたら競馬やな。2月には蹴鞠もしゃはるし、よう遊んだはるわ。あははは…」
「kemary ?」
「けまり。鞠って言うたらボール。ボール蹴って遊ばはるねん。」
「football ?」
「いやいやいや、それもちゃうわ。」
そんな話をしながらも、美沙の頭の中で膨らむ疑問は、実は『神事』の事ではない。そこで、訊くタイミングを逃すまいと思い切って話題を変えてみた。
「何で下鴨神社の『鴨』は鳥の『鴨』って書くの?」
「う…それは…」
こういう事に詳しいのは、たぶんあの男…観光誘致組合の田崎だろうと、涼子は思った。
「と、兎に角…5日に賀茂競馬撮りに行くで。」
涼子は車で、美沙はスーパーカブで、それぞれ下鴨本通を北上し、アートクリエイション事務所へと向かった。
「流鏑馬、撮ってくれはったんですね!」
何とタイミングの良い事か。涼子が撮影に出かけた事を聞きつけ、早速田崎が現れた。
「今撮ってきたトコですやん。」
「そう言わんと、見せて下さいな。」
んもう…と言いながら、涼子はパソコンを立ち上げ、データを取り込む準備を始めた。
「なぁ、田崎さん。」
「はい?」
「美沙ちゃんが疑問に思てる事あるんやて。聞いたげてもらえます?」
美沙が目を輝かせ、ニッコリ笑っている。田崎も、この笑顔には弱いタチだ。
「あのね、上賀茂神社と下鴨神社って、昔はひとつやったんでしょ?」
「あ、あぁ…うん。そやな。」
「賀茂社って呼んでたんですよね?」
「ほぅ、知ってるねぇ。」
「でぇ、そやのに何で上賀茂神社と下鴨神社で『かも』の字が違うんですか?」
想定外だったのか、田崎は一瞬焦りの表情を見せた。
「い、いや…あの、正しいかどうかはわからんで。出町柳んトコに“鴨川デルタ”てあるやん? そこより上流が賀茂。わかる?年賀の『賀』に『茂』の賀茂川。下流が鳥の『鴨』の鴨川。」
「それは知ってます。」
「うんうん、そのな、川の名前に因んだ呼び名が付いてるんやて聞いたで。あくまでも呼び名。ホンマは、上賀茂神社が“賀茂別雷神社”で、下鴨神社が“賀茂御祖神社”言うんやで。」
「ホンマの名前は聞きました。でも、川の名前って…何か怪しい。田崎さんやし。」
「こら参ったな、はっはっは。いや、川ってな、地域が変わったり他の川が合流したりして名前変わるやん?」
「それもわかります。それと違うて、同じ“カモ”やのに上賀茂の『賀茂』と下鴨の『鴨』、上と下で字が違うのは何でか知りたいんですよ。」
「ははは、難題やな。」
田崎からは答が出なかった。
「やっぱり役に立たへん人やなぁ。」
あはははははは…
上賀茂と下鴨、そして下鴨神社から少し下った、高野川と賀茂川が合流する“鴨川デルタ”を境に、鴨川の『かも』を示す字までも違う。何故? 田崎が駄目なら、そんな話が得意そうなのは…
「賀茂社の『かも』は、年賀の賀に茂やな。美沙ちゃん聞いたことあるかな? 昔、“賀茂一族”って居ってな、豪族や。」
「gozock ?」
「ゴーゾック…ちゃうちゃう。ごうぞく。金と力持ってはった一族や。氏族言うて、同じ苗字…僕で言うたら「樫村」になるけど、この人らは「賀茂」さん。その賀茂さんが、何箇所かに居ゃはった訳ねん。そういう事で、同じ“賀茂社”やのに祀ってはる神さんは別。場所も車で10分ぐらい離れとんねんな。上賀茂神社は厄除、方除、開運、八方除、雷除、災難除、必勝、電気産業守護の神さん。下鴨神社は厄除、縁結、子宝、安産、子育、交通安全の神さんな。」
樫村は、何故か京都の謎についてよく知る。この日も、美沙が抱いた疑問にスラスラと答える。
「賀茂社でも、目的っていうか、何をお祈りするかで行くとこ違ったりするんですね。」
「ほおら、ややこしいやろ? ほんで上と下にしたんや。例えば、『開運は上社』とか、『縁結は下社』って言うたら、まだ覚えやすいやん。ほな次や。上賀茂神社と下鴨神社が同じ『鴨』で書いたあったら? 上と下って、字ぃひっくり返しただけみたいに似てるやろ? 字の雰囲気似てたら間違えたりするやろ? 間違えたら、車で10分かけて移動やん。」
「そんな…え? そんな理由?」
「知らんけど。」
「知らんの?」
ははははははははは……
「神社の呼び名が地名なんですか?」
「まぁそうなってるみたいやな。“その土地に祀られた神社”として地名に因んだ名前で呼ばれたりすることはようあるけど、ここは、神社の呼び名が地名言うかエリアの呼び名になってる感じやな。」
「ふぅ〜ん…わかったような、わからんような…」
「まぁ時間あったら、鴨川の最下流から源流まで辿ってみ? オモロイかもしれんで。」
「手がかり、ありそうです?」
「あるかもな。知らんけど。」
「知らんのかいっ!」
こうして美沙の次なる冒険が始まった。
まずは最下流の、桂川との合流地点を探してみる。それは、横大路付近から見られる。しかし、ここから鴨川沿いを北上するには、伏見区内の道は意外な程複雑だった。
「ああ、この辺で川見ながら走ろ思たら、そら無理やわ。」
「…ですよね。どこまで行ったら見れます?」
「んっとな…地下鉄のくいな橋あるやろ? その辺からやったら、たぶん行けるわ。学校があるさけぇ、そこの角曲がって行ったら川沿いやわ。」
「あ、はい。」
そのおじさんは、美沙のスーパーカブのナンバープレートを見て尚も話す。
「稲荷山トンネルの入口の方へ行って、その交差点過ぎてすぐ左曲がったら師団街道な。そのまま真っ直ぐ行ったら川端や。お姉ちゃん左京区やさかい、川端はわかるやろ?」
「わかります! ありがとうございます!」
もう一回地図を確認してみる。目の前に見えるのが京都南ICだから、少し戻って小枝橋を渡れば、川は見えずとも近くは走れそうだ。
細々と右左折を繰り返し、限りなく川に近い道を選びながら再び左岸へ渡ると、くいな橋の駅近くに辿り着いた。
「あ、学校ってこれや。」
川沿いに向かって左折し、ここからは聞いた通りに進んで行くと、もう川端通に出ていた。
七条から、祇園の玄関口を横目に程なく出町柳。今出川通を左折して賀茂大橋を渡る。右手には鴨川デルタ、すなわち賀茂川と高野川の合流地点だ。地図にはここまで「鴨川」と表記されているが、橋の名は賀茂大橋なので、まさにここから上流を「賀茂川」としている。
但し、賀茂川と高野川の間にあるのは賀茂御祖神社、所謂“下鴨神社”なので、地名には『鴨』が使われている。
美沙は、ここで新たに気付いた。
「え? 何で?」
下鴨本通りから分岐して賀茂川沿いに走るのは、加茂街道。『加茂』なのだ。
『鴨』『賀茂』『加茂』…頭の中で謎が蠢く。“賀茂氏族”は数箇所に居たと聞いたが、川とその流域に纏わる伝説じみたものといえば…その水が生まれる場所にあるのかもしれない。ひとまずは、このまま上流へ向かう事にした。
加茂街道は、賀茂川の右岸を北上して志久呂橋までとなる。上賀茂神社を対岸に見ながら、美沙は立ち寄らずに進んだ。
志久呂橋を渡り、府道61号線に入ると、いよいよ未踏の地。もうそこは、山間部へと向かう細道。上賀茂の端正な住宅街から山あいの風景へと、急激に変わりゆく。そしてその道に寄り添うように流れる賀茂川は、渓流の様相だ。
「いろいろ言われてるけどなぁ。もっと上へ上がって雲ヶ畑広場から左行ったら、ドン突きにお寺があってな、そこの奥が源流や言われてるわ。」
「いろいろって、他にも説があるんですよね? それは?」
「源流とはちゃうけどな、そこ。ほれ、出合い橋ってあるやろ? そこが鴨川の起点みたいに言われとったわ。」
「ここ…がですか?」
「そや、ここ。こっからが賀茂川や言う人も居ゃはるわ。ほんでもまぁ、地図ではお寺の方に賀茂川て書いたあるやろ? お寺まで行ってみたらええわ。水湧いとるさかい。」
「わかりました。ありがとうございます!」
地元の人に教えられた通りに美沙は、バスの転回場となる雲ヶ畑広場へ、そしてさらに山奥へとへ向かった。車一台分程の幅の道を走り、砂利が敷き詰められた広場にスーパーカブを停める。ここが駐車場になっている。
山門の前の庭園には、1週間ほど前に満開を迎えた石楠花が、見事に咲き誇っていた。そして、満開と時期を同じくして『石楠花祭』が行われたそうだ。
「あの…すみません…」
誰に声をかけたらいいのか? いやその前に、誰も見当たらない。そして、声を発しても誰にも届かない。美沙の声は、高くか細く通りが良くないのだ。
諦めようか? そう思ったその時。
「すみませ〜ん!!」
大きな声が聞こえた。自らを“秘境探険家”と称する、佐竹典史という男性だ。
「は〜い!」
奥から住職が現れた。拝観は出来るようだ。但し、山門の奥はあくまでも修行の場であり、手荷物の持ち込みは禁止されている。また、修行僧のみが立ち入る事を許されるエリアがある事も、注意を受けた。
美沙は、佐竹と一緒に山門をくぐった。
奇岩が並ぶ、道とも言えないような道を上り、そこに岩窟を見た。湧水の如く細い流れが、そこにあった。
「これが?」
「鴨川の源流って言われてますね。」
何か不思議な空気を感じた。特に、奥の岩屋山には喩えようのない雰囲気が漂っていた。もしかしたら、ここにも修行を満行した高僧の魂が宿るのかもしれない。近付いてはいけない事は、容易に感じ取れた。
佐竹は、ふと何も言わずに下り始めた。美沙も佐竹に付いて行くように山を下った。このままこの人と別れてはいけない。直感的にそう思った。
「あの…佐竹さぁん!」
「はい。」
「鴨川と賀茂社について、何か詳しい事ご存知ですか?」
「鴨川? いや、鴨川っていうか…う〜ん、雲ヶ畑広場で話しましょう。」
2人は山道を少し下った。
「もう亡くならはった人でね。」
「歴史上の人ですか? 私、日本の事、まだよう知らへんのです。」
「ああ、そうなんや。ははは…でも歴史はあんまり関係なくて、作家さんなんですけど、実はね、さっきのお寺に泊まらはったそうで…」
佐竹は、雲ヶ畑に来た理由を話し始めた。
古都を流れる鴨川。その姿は京都の顔と言っても過言ではない、誰もが知るであろう風景だ。それは平安京の東端を流れ、御所の側を掠める。神聖でありそうだが、この川の源流には何やら伝説が囁かれ、そのミステリアスな一面を見てみたかったのだと言う。
「さっきのお寺は、奥の山から“妖気”が流れるのを封じ込めるために建てられたって…」
「yorkie? ワンちゃんみたいな名前の…悪い物?」
「日本語。妖気。怖い、嫌〜な空気の事。それからここは、雲ヶ畑って言うんやけど、今で言う島根県の“出雲国”ってあって、そこから移住した人が築いた里って聞いた事あります。神様の国。でも、そんな人らでも、都に不幸を流さへん様にって、亡くなった方の遺体はこの峠を越えた向こうの集落に運んだんです。それで、持越峠。」
「何か怖い…」
「いや、考えてみたら、遺体って自宅に埋葬せぇへんでしょ? 葬儀場まで運ぶやないですか。」
「あ、そうかぁ。」
「ね! で、それだけ都を流れる川は守られてきた言う事。」
佐竹はそう言うと、少し遠い目で岩屋山を見た。そして静かに口を開くと、都を流れる重要な川に賀茂氏の名を充てたのは、賀茂一族がそれだけの力を持っていた証だろうと説いた。
ところで、この人なら何か知っているのかもしれない。美沙は、抱いていた疑問を投げかけてみた。
「違い…ですか。えっと、河川法ではどっちも鳥の方の鴨川らしいです。」
「鳥の? そしたら上賀茂の方が変えられたんですか?」
「みたいですね、賀茂一族に因んで付けられたんやろうけど、年賀の『賀』が付くでしょ? 縁起がいいって事らしいですよ。下鴨神社が川、上賀茂神社が賀茂一族に由来してるいう事でしょうね。「上」と「下」を取ったら響きは同じやし、字ぃ見た方がわかりやすいし、『ややこしいから』っていうのも間違いではないんちゃうかな? あっ!」
佐竹はそこまで言うと、何かを閃いた様に表情を変えた。
「そうそう、鴨川って、カルガモのお引っ越しが有名でしょ? ほんで、それに因んで鳥の『鴨川』って。そんな言われの方が可愛らしいて、いいでしょ?」
遠い目で話し始めた佐竹だったが、上手く話を“すり替えた”ようだ。
…あはは、ええ加減やなぁ。
そう言って2人は笑った。淀んだ空気は風に流され、気持ちが和んだ。
美沙は、鴨川源流とされる流れを見た。そこは京都市とは思えない程山深く静かな山里だった。
しかし、上賀茂と下鴨の違いの意味についての明確な答は出なかった。京都の歴史はあまりにも深い。そこには、“知らなくていい何か”が存在するのかもしれない。
鴨川は、御所の側では“鴨が棲める清らかな川”であるべきで、上流から不幸を流す事などしてはいけない。そんな思いを込め、神として祀られる賀茂一族の名を川に冠し、その神聖なる場所・賀茂社にて清められた水を都へと送った。一方で、加茂街道の『加茂』と言えば、これも賀茂一族との関わりを持ち、『上賀茂』『下鴨』のどちらにも寄らない中立の位置にあった氏族なのではないか? 真偽は定かではないが、自己流にそんな解釈をしてみた。
「佐竹さん、凄く詳しいんですね! そういう事かぁ。ちょっとスッキリしました。」
「まぁね、ははは…よう知らんけど。」
「知らんのかいっ!」
あはははははは…
【第五話 鴨川源流】
読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、取材途中でも謎に悩まされました。結果、作者独自の思考などを多く含む内容になっています。
次回も謎多き伝説を探ります。