グラムとメンフィス
「グラム、ジュードが心配か?」
子供たちが部屋に戻ったところで――過去の懐かしい記憶に想いを馳せていたグラムは、メンフィスからかかった声に意識を引き戻す。時刻は夜の十時、大人の酒盛りはこれからが本番だ。
酒の入ったグラスを軽く回し、氷が小気味好い音を奏でるのを楽しみながらグラムはひとつ唸る。血の繋がりがないとは言え、ジュードはグラムにとって大切な息子だ。心配になるのは当然である。
グラムは向かい合って座るメンフィスを一瞥し、また低く唸る。そんな様子を見てメンフィスは薄く笑った。
「ふふ、愚問だったな。……ワシも心配だよ、離れている間に随分と色々なことがあったようだ」
そう穏やかに語るメンフィスの声を聞きながら、グラムは昔を思い出していた。初めてジュードと出会った時のこと。そして、それからの生活。
「……ジュードはな、何も覚えていないんだよ」
「ん?」
空になったグラスにまた酒を注いでいきながら、ふとグラムは口を開いた。突然語り始めた親友にメンフィスはやや赤ら顔で疑問の声を洩らす、既に多少なりとも酔いが回っているらしい。そんなメンフィスの持つグラスにも酒を注いでやりながら、先を続ける。
「ワシに拾われるまでのことだ」
「……」
「どこで何をしていたのか、どこから来たのか……あの子は何ひとつ覚えておらんのだよ」
グラムがジュードを拾ったのは、今から大体十年ほど前になる。当時のジュードはまだ幼く、医者は六歳か七歳になりたてだろうと言った。
六歳、七歳ともなれば日常の記憶があってもおかしくはない。どこから来たのか、親がどのような人であったのか、自分の名前は何なのか。
しかし、幼いジュードにはそれらの記憶がまったくなかった。そして、その記憶は今もまだ戻っていない。
「……余程のことがあったのか何なのか、魔族があの子を狙うのは……ジュードが忘れてしまっている記憶に関係があるのかもしれんな」
ジュードがどこで生まれて、それまでどこで生活していたのか。その手掛かりになるものは彼が持っていた腕輪くらいしかない。そのジュードが、いったいなんだと言うのか。魔族にとってどのような意味を持つのか。
「あの子は、ワシが見つけた時はボロボロだった。ボロボロで、何も思い出せなくて、不安で恐ろしくて……壊れるくらい泣いておった」
「……」
「そんなあの子が、なぜ魔族なんぞに目をつけられねばならん! ジュードがなんだと言うのだ!」
グラムは片手で拳を作り、その手でテーブルを叩く。抑え切れない憤りを隠すことなく。メンフィスはそんな親友の姿を珍しく無言で眺めた。子供たちの前では決して見せることのない怒りを露にした様子。気心知れたメンフィスの前だから見せるものであるとは、彼自身も理解している。
既にジュードは怪我をしている。それが魔族によって負わされた傷であるのだとも、彼らから聞いた。
だからこそ、グラムは心配で仕方がないのだ。これからも彼が、ジュードが危険に巻き込まれるのではないか、また傷を負うのではないかと。
「メンフィス」
「なんだ」
「ワシに何かあったら、あの子たちを頼むぞ」
「おいおい、お前ワシより酔っておらんか?」
「酔ってなどおらん」
そうは言いながらも、メンフィスに負けず劣らずグラムも赤ら顔である。それでもまだ飲む気らしく、グラスに酒を注いでいく。手元は既に危なっかしい。酔いは充分に回っているようだ。
メンフィスは小さくため息を洩らすと、やれやれと片手で軽く後頭部を掻いた。
* * *
自室に戻ったジュードは寝る支度を終えて、つい先ほどの結果を簡単に纏めていた。
彼らの新しい技術はまだ改良が必要ではあるものの、思っていた以上にいい成果を出せそうだった。それというのも、ルルーナの補助魔法によるものが大きい。ジュードたちの想像をいい意味で派手に裏切って、彼女は上級の補助魔法をいくつも巧みに操った。
そこまで考えて、ジュードは寝台に腰かけたまま窓越しに外を見遣る。街のような街灯がないこの山の中では、月明かりくらいしか頼れるものがない。しかし、今日は生憎の空模様らしく月明かりさえ射さないようだった。外は深い暗闇に支配されている。
その様は、アグレアスたちとの邂逅を果たしたあの森を彷彿とさせる。ぞわぞわと言いようのない不安が湧き上がった。
魔族のこと、テルメースという女性のこと、地の国のこと、ヴェリア大陸のこと、そして――自分自身のこと。
水の国で、魔族とは二度戦った。だが、そのどちらもジュードは途中からまったく覚えていない。
ひと思いに殺さず、自分を『贄』と呼んだ魔族のことも気になる。サタンと呼ばれていた、あの気味の悪い生き物のことも。
「考えてもわかるわけないよな……」
元々、自分の頭は考えごとをするのに向いていない。早々に諦めてしまうと、今度は寝台の傍らにあるサイドテーブルからいくつかの本を手に取った。背表紙にはいずれも『伝説の勇者の物語』と書かれている。言わずもがな、ジュードが小さい頃から傾倒している勇者のおとぎ話だ。
中でも彼が一番好きなのは、グラナータ・サルサロッサ博士が書いたとされる話。勇者の名前も容姿も、何もかも書き記されていないそれは、読み手の心の中に自分だけの勇者像を創らせる。
名前も、姿も、性格さえ定かではないからこそ、物語を読みながら読み手が想像を働かせて空想の中で自分だけの勇者を創り出す。それは読み手に『伝説の勇者』というものを身近に感じさせたし、根拠も何もない安心さえもたらした。
こんなふうに月明かりさえ射さない闇夜は、幼い頃はとても怖くて。父グラムが夜遅くまで仕事をしている時は、邪魔になってしまうことを考えると父の寝台にもぐり込むこともできなかった。そんな日は、よくこうして伝説の勇者の物語を読んで空想の中の勇者さまに不安をやっつけてもらったものだ。
伝説の勇者は実在したんだろうか、そうだとしたらどんな人だったんだろう。
寝台に転がってそんなことを考えていると、いつの間にかジュードは寝落ちていた。
眠る前に抱いた漠然とした不安はいつものように彼の中の勇者が蹴散らしてくれたらしく、穏やかな寝顔で。




