《テルメース》
医務室で休むリンファの元に国王リーブルがやってきたのは、夕方のことだった。
王都シトゥルスに戻ってきたのが昼前。リンファは戻ってからというもの、押し寄せる疲労感に抗えずにずっと眠っていた。依然として彼女の身には血液が足りていない。そんなリンファは、扉が開く微かな音に反応して瞼を上げた。
「ああ、すまない。起こしてしまったか」
「――! へ、陛下! も、申し訳ございません……!」
「いや、そのままで。疲れているのだろう」
医務室に入ってきた国王の姿に、リンファの頭は即座に覚醒を果たす。慌てて起きようとした彼女を見て、リーブルは優しく笑うとそんな様子を制した。それでもリンファは納得とは程遠い表情をしていたが、国王は彼女が身を横たえる寝台に歩み寄ると静かに語りかける。
「リンファ、きみを本日限りでオリヴィアの護衛から解くことにする」
「そ、そんな……私は……!」
思ってもいなかった言葉に、リンファは目を見開くと弾かれたように身を起こした。解く、と言うことはつまりはクビだ。だが、国王は優しく笑ったまま小さく頭を左右に揺らした。
「いいかい、リンファ。よくお聞き。ジュードくんたちがきみの力を借りたいと私に頼み込んできたんだ」
「……え?」
「いや、正確にはウィルくんかな。驚いたよ、謁見の間で土下座までしたのだから」
ゆっくりと語られる言葉に、リンファは思わず言葉を失った。
水の国は体裁を特に気にする国でもある。当然リンファはそれを身に染みて理解している。地の国の闘技奴隷であったリンファとて未だ一部の者には受け入れられておらず、時に嘲笑の的になるのだから。そんな国で土下座などすれば、どのような目で見られることか。
「リンファ、わかるな? 彼はそうまでして、きみをオリヴィアから解放したいと思ったんだよ」
「陛下……」
「……娘がきみにつらく当たるのを知っていながら、嫌われるのが怖くて……私は何もしてやれなかったな」
国王自身も知っていたのだ。オリヴィアがリンファにひどく当たっていたことを。しかし、リンファは複雑な表情を浮かべると心配そうな視線を向けた。
「しかし、私がこの国を離れれば陛下にご負担が……」
「ははは、私はただの一度も負担などと思ったことはない。何も心配しなくていい」
――水の王リーブルは、とても穏やかでありながら地の国グランヴェルまで賭け試合を観に行く王だ。
しかしながら、その理由は賭博のためなどではなく、あくまでもリンファのような奴隷を連れ出して『人間らしい生活をさせる』ため。リンファは王族の護衛として城に住んでいるが、グランヴェルから――表向きは買われてきた奴隷たちは、この王都シトゥルスの中に住居を与えられ、ほぼ共同生活を送っている。奴隷ではない普通の人として。
リンファは彼の代わりに毎日のように彼らの様子を見に行っては、力になってきた。それなのに、自分がこの国を出たら国王に大きな負担をかけてしまうのではと、それが心配だったのだ。
だが、リーブルは穏やかに笑うと考えるような間も置かずに即答した。
「明日からはオリヴィアのためではなく、この世界のために……今も魔物に怯えている人たちのために戦っておくれ」
「……っ、陛下……」
国王から告げられる言葉に、リンファは声もなく何度も頷いた。言葉が出ない――否、言葉にならなかった。
「だが、無理だけはしないように。私にとっては、きみも可愛い娘のようなものなのだからね」
「私などにはもったいないお言葉です、陛下……」
リンファは優しく――どこまでも優しく己の頭を撫でる国王の言葉に、抑え難い嬉々を感じて小さく呟いた。
* * *
ジュードは、山の向こうに沈んでいく太陽を王城の渡り廊下からぼんやりと見つめていた。
仲間たちは各々身を休めたり好きなことをしたりと、自由に過ごしているだろう。リンファの体調のこともあって、結局出発は明日へと見送りになってしまった。だが、まだカミラが水の神殿に行けていないこともあり、ちょうどよかったと思う部分もある。彼女は今のこの時間を使って、都にある神殿に赴いているはずだ。
あの後、国王リーブルはしばらく考え込んだ末にリンファをジュードたちに預けることを承諾してくれた。今頃は彼女にこの話が伝えられていることだろう。勝手に頼み込んで嫌な気持ちになっていないだろうかと、ほんのりと心配の念が湧く。
ジュードの右肩の傷は決して軽いものではなかったが、リンファの気功術のお陰で随分とよくなっている。彼女が今後同行してくれるのなら、ジュードにとっては非常に有難いことだった。
「ジュードくん、そんなところでどうしたんだい?」
「あ……」
そこへ、ふと声がかかった。そちらを見てみれば、廊下の先には国王リーブルの姿が見える。どうやら、リンファと話しに行った帰り道のようだ。ジュードは身体ごと彼に向き直ると、ぺこりと頭を下げた。
「いえ、ちょっと手持ち無沙汰で……怪我のことがあるので細かい作業はまだ駄目だってウィルとマナに言われて、やることがないんです」
「ははは、そうかそうか。ゆっくり寛いでくれ」
特に隠すでもなく明け透けに事情を話すジュードに、リーブルはさも愉快そうに声を立てて笑った。そうしてジュードの隣に並び立つと、先ほど彼がしていたように国王もまた、渡り廊下から山の方へと視線を投じる。そっと細められる目は、何かを懐かしんでいるようにも見えた。
「ジュードくん、ひとつ聞いてもいいかな?」
「あ、はい」
「きみは……テルメースという名の女性を知っているかな?」
思いがけないその問いかけに、ジュードは思わず目を丸くさせた。
――テルメース。何度か頭の中でその名を繰り返し呟いてみるが、ジュードの中に覚えはない。いくら物覚えの悪い彼とて、人の名前くらいは記憶している。一度でも聞けば多少は記憶に残るはずだ。ややあってから、ジュードはゆるりと頭を横に振った。
「いえ、聞いたことはありませんが……」
「……そう、か」
何度思い返してみても、該当する人物はジュードの記憶の中にはいない。
リーブルはその返答に見るからに落胆した様子で頭を垂れる。別に何か悪いことをしたわけでもないのに、ジュードの胸はひどく痛んだ。
「す、すみません……」
「いや、気にしなくていいよ。……きみは、彼女に雰囲気がとてもよく似ているんだ。だから、もしや血縁か、それに近しい子かもしれないと思ってね」
「雰囲気が……似てる?」
「はは、忘れてくれ。それより、リンファのことをよろしく頼むよ。きみたちのような子が一緒なら安心だ」
それだけを告げると、リーブルはいつものように穏やかに笑って王城の中へと戻っていく。だが、その背中はやや寂しげだった。気にはなったものの、相手はこの国の王。忙しい身であることを思えば引き留めて詳しく聞くのも気が引ける。
結局、特に何も言うことはせずリーブルの背中を見送っていたが『テルメース』というその名は、ジュードの中に強く残った。




