悪夢
「お父さん! お母さん!」
夜も深まった時刻。普段ならば人々は各々、眠りにつく時間である。
そんな時間帯にもかかわらず、街には歓喜の声が響いた。吸血鬼により連れ去られた娘たちを出迎える街人や、再会を心から喜ぶ少女たちの声だ。
親たちは涙を流して最愛の娘との再会と、その無事を喜んだ。
ウィルたちはそんな様子を嬉しそうに、そして安心したように見守る。
恐らく、アロガンの毒牙にかかりこうして帰ることができなかった少女もいるだろう。それを思えば複雑だが、ともかくこの少女たちは間に合ってよかったと、ウィルたちはその光景を見守りながらそう思った。
数時間前までは憤りと絶望に満ちていた空気は、今やすっかり弛んでいた。
* * *
「……あれ?」
ふと目を開けたジュードは、森の中にいた。
辺りを見回してみても他には何もない。延々と木々が連なり、森が広がっている。鬱蒼とした――どこか重苦しさを感じさせる暗い森だ。フォンセの森ともやや違う。
ジュードは脇に下ろした拳を握り締め、辺りを警戒するように見遣りながら静かに一歩を踏み出す。
確か、連れ去られた少女たちを助けるために館で吸血鬼と戦っていたはずではなかっただろうか。
ジュードの頭にある最後の記憶はそれだった。アロガンとの力の差がとてつもなく大きなものだったこともしっかりと覚えている。
では、ここは死後の世界なのか。自分はあの吸血鬼に負けて殺されたのか。
ゆっくりと地を踏み締めながら先へ先へと進むジュードの耳に、鳥の鳴き声などの音は届いてこない。むしろ音が存在しない、無音の世界だ。自分が歩く足音さえ聞こえなかった。
辺りの景色は先に進めど進めど変化はなく、ただ森が続くばかり。ぽっかりと口を開けた闇が、ジュードを喰らおうとするかの如く広がっているだけ。かといって、今更引き返しても出口が見つかるかどうかは定かではないし、そんなものが存在するかも怪しい。
だが、そんな時。不意にジュードの耳に低い音が届いた。
「……? 誰かいるのか?」
それは、音と言うよりは声だった。
ゆっくりと、静かにジュードの方へと近付いてくる。重い荷を引きずるような、そんな音と共に。
『……贄……贄、贄……』
それは低く低く、呻き声のようでもある。
ジュードはそこで足を止め、目の前に広がる木々のアーチと暗闇に警戒するように目を凝らした。
すると、闇の中に蠢く影が見えた。次第に木は倒れ始め、蠢く影の巨大さを物語る。どの部分かさえもわからないが、影に押し折られる形で次々と木がなぎ倒されていくのだ。
そして、目の前の真っ黒な闇の中から何かが飛び出した。それは地を這うように素早くいくつも伸び、ジュード目がけて飛翔する。それには、身のこなしに自信のあるジュードも反応ができなかった。
「――っ!?」
地を這う黒い影は植物の蔦に酷似していたが、異なるものでもあった。影そのものが意思を持って動いているような気さえする。黒い影はジュードの両足に巻きつき、彼の身をその場へと縫い止めた。振り解こうにも、絡みついて押さえる力が強くビクともしない。
斬り落とすべく愛用の短剣に片手を伸ばすが、今度は頭上から勢いよく伸びてきた影が、武器を手に取るよりも先にジュードの両手をそれぞれに拘束した。腕から手首辺りまで絡みつき、武器から手を離されていく。
どれだけ抗おうと、影の力が強すぎて抵抗にさえなっていない。
更に太い影が伸びてきたかと思うと、それはジュードの胴部分へ巻きついた。
骨が軋むほどの力で締め上げられ、口からは思わず呻くような声が洩れる。このまま絞め殺されてしまいそうだとさえ思った。その間にも影の出どころらしき巨大な生き物は、何かを引きずるような音を立てながら迫る。ゆっくりとだが、確実に。
やがてその生き物は、辺りの木々全てをなぎ倒して姿を現した。
その姿はやはり巨大であり、辺りにそびえていた木々よりも遥かに大きい。長い年月をかけて育った大木より上だろう。
黒い夜空に浮かぶ月明かりに照らされ、その全貌がジュードの眼前に晒される。それは様々な獣や魔物、それ以外にも数え切れないほどの生き物が融合したような姿であった。
正体が何かと問われれば『正体不明』と称すのが正しいのだろう。ありとあらゆる生命体が混ざり合う姿は、正体を特定できるのかさえ怪しい。まるで合成魔獣のようではあるが、それにしては融合する種類が多すぎる、優に百は越えていた。
正体不明の影が動き、上部から何かがジュードの目の前へと伸びてくる。それを凝視するくらいしか、四肢を拘束されている今の彼にできることはない。
「なんなんだ、こいつ……っ! 魔物なのか……!?」
伸ばされた何かの部分に一筋の光の線が走る。それは瞬く間に左右に割り開かれ、中から真紅の目玉が現れた。間近でその目を直視し、思わずジュードは呼吸も忘れて身を強張らせる。その感覚が恐怖だと理解したのは数拍遅れてからだった。
『……贄……』
「……え?」
『……贄……贄……力……我が大望のための、贄……』
低く低く、幾重にも重なった声――と呼ぶよりは音と表現すべきかもしれないそれに、ジュードは力なく頭を横に振る。理解できないと言うように。
すると目玉が現れた部分より下部が、大きく下に伸びるように開かれた。無数の牙が顔を出し、開いたそこからしとどによだれを垂らす。
『――贄! 我らが大望の、我の贄!』
そして意味のわからない言葉を叫びながら、勢いよくジュード目がけて飛びかかった。
* * *
「――!」
次にジュードが目を開けると、焦点の定まらない視界には薄暗い天井が映り込んだ。
寝起きのあまりよろしくないジュードにしては珍しく、頭はハッキリと覚醒している。バクバクと拍動する心音がいやに耳についた。オマケに身体が妙に熱い、少し発熱しているようだ。
「(……夢、か……)」
気だるい身体を動かして辺りを見てみると、隣の寝台ではウィルが眠っている。ここは恐らくクリークの街の宿だ。
あれからどうなったんだろう、みんなは無事だろうか。そう不安にはなったが、すぐに考えるのをやめた。
仲間に何かがあって、ウィルがこんなふうに大人しく眠っているわけがないのだ。彼は下手をするとジュード以上に仲間のことを大切に想っているくらいなのだから。その彼がすやすやと寝息を立てて眠っているということは、カミラたちは無事なのだろう。
「いってて……そっか、右肩……」
身を起こそうとした瞬間、不意に右肩に激痛が走る。
吸血鬼に刺された箇所だ、発熱は恐らくこの傷が原因だろう。だが、傷は負っても命があるだけいい、充分すぎる。
そんなことを思いながら、ふと傍らの窓に目を向ける。空の様子と月の位置から察するに、現在は深夜の三時前後ほどだろう。夜が明けるまでには、まだ少し時間がある。
「(あの吸血鬼はどうなったんだろう、カミラさんが倒してくれたのかな)」
――ジュードの中には、右肩を突き刺された後の記憶は何ひとつ残っていなかった。
自分があの吸血鬼を倒したのだということも。




