人間という生き物
水の国の王都シトゥルスに残ったヘルメスは、今日も今日とて王城の二階部分にあるテラスから外を見ていた。その視線は、遠くに見える城下街の南側出入り口に向けられている。この都で一番大きな出入口だ。ここ数日とまったく変わりがない様子に、その口からは今日も諦めたようなため息が零れ落ちた。
「ヘルメス王子、こちらにいらっしゃいましたか」
「リーブル様、オリヴィア王女も。いかがされましたか? ……もしや、ウチの爺がまた何かご無礼を……」
そんな彼に声をかけたのは、ついたった今テラスにやってきたと見えるこの国の王――リーブルと、その娘のオリヴィアだ。
シヴァは消えてしまったものの、その相棒となるフォルネウスが極限まで弱まった彼の力に合わせて眠ったお陰で、水の国の異常気象は随分と落ち着いていた。毎日降り続いていた雪は止み、雲間からは陽の光が射し込む。天から架けられた梯子のような光は、辺りの雪景色と相俟ってひどく美しい。
そんな中、ヘルメスが真っ先に心配になったのは自国の大臣の存在だった。まさか、と青くなりながら身体ごと向き直ったヘルメスに、リーブルはいつものように穏やかに微笑んで「いや」と頭を横に振る。
「ああ、いや。王子の姿が見えなかったので、どうしているかと気になってね。……ジュードくんたちの帰りを待っているのかな?」
「はい、すぐ戻ってくるものだと思っていたのですが……」
「ジュードくんたちなら大丈夫さ、あの子たちは強いからね。以前、我が国に魔族が現れた時も助けられたんだよ」
ジュードたちの――離れていた時の弟の活躍を聞いて、ヘルメスの整った相貌には自然と安心したような、それでいて嬉しそうな色が滲む。安全な場所にこうして避難できたことで、彼の気持ちも随分と落ち着いてくれたようだ。そっと一息洩らすと、ヘルメスはそのまま頭を下げた。
「民を受け入れて下さっただけでなく、私にまでこのようなお気遣い……リーブル様には、なんとお礼を申し上げればよいか言葉も見つかりません」
その言葉に、リーブルは傍らのオリヴィアと一度言葉もなく互いに顔を見合わせる。しかし、すぐに改めて小さく頭を振った。
「……ヘルメス王子、我々には生まれや国の違いこそあれど、人間という同じ生き物なのだ。人が人を助けるのは当たり前のことだよ。ちょうどジュードくんたちが火の国から同盟の話を持ってきてくれたところでもあるからね、今後は共に手を取り合い、魔族と戦おうじゃないか」
「そうですわ、そのためにも今はごゆっくり英気を養われてくださいませ。それで、あの……その……」
リーブルの言葉に続いて、オリヴィアがにっこりと微笑みながら告げたものの、途中で言い淀む様子を横目に見遣るとリーブルはぎくりと身を強張らせる。娘のオリヴィアの男好きは、父親である彼もよく知っている。特にヘルメスのように見目のいい男はオリヴィアがより好むタイプだ。ほんのりと頬を朱に染めて、腹の前辺りで両手の指先を絡ませながらもじもじとする様に、どう諦めさせるかとリーブルは必死に思考をフル回転させた。
「ヘ、ヘルメス様は、ジュード様とエクレール様のお兄様でいらっしゃいますのでしょう? よい兄はどういうものか、よい姉になるにはどうすべきかお教えいただきたいんですの!」
水の王族二人から向けられた言葉を噛み締めるように何度か小さく頷いたヘルメスだったが、オリヴィアのその突然の申し出には目を丸くさせて小首を捻った。それはリーブルも意外だったようで、これまでと違い男性に言い寄らない愛娘の姿に目を瞬かせる。
「私がいい兄かどうかは微妙なところですが……それでもよろしければ」
「もちろんですわ! ありがとうございます!」
その返答に、オリヴィアはそれはそれは安心したように何度も頷いた。
どうやら、今の彼女は男性よりも血の繋がりのない妹のことで手一杯のようだ。そういえば、いつの間にか「ジュード様、ジュード様」と言わなくなったな、とリーブルはこの時になってようやく気付いた。
「ん?」
などと、そんなことを考えていたリーブルの視界の片隅にふと太陽のものではない光が映り込んだ。西の空から猛烈な速度で飛んでくるそれは――馬と、馬車のようだった。
なんてことはない、精霊の森に行っていたジュードたちだ。近づいてくるにつれてその正体がわかり、リーブルの顔には安堵が滲む。
ゾンビ化した民を救う方法を見つけてくれたのか否か。気にはなるが、今は彼らの帰還を純粋に喜びたかった。
しかしながら、その一方で王城の中には不穏な空気が漂っていた。
カミラは目の前でわなわなと拳を――全身を震わせる大臣を青くなって見つめる。何かまずいことを言ってしまっただろうかと思考をフル回転させた彼女だったが、つい今し方の己の発言にハッとなった。慌てて口元を手で押さえたところで、一度出た言葉が戻ってくれるはずがない。
「カミラ様、今……今、なんと……!?」
「え、えっと……」
「伝説の勇者……伝説の勇者と仰いましたな!? かつての勇者が今この世におると!?」
エクレールの帰りが遅いことに痺れを切らしつつあった大臣を宥めていた最中のこと。もしや魔族に襲われたのでは、何かあったのではと日に日にイライラを募らせる大臣を少しでも安心させるために、カミラは「ジュードたちの傍にはかつての勇者様がいるから大丈夫」と言ってしまったのだ。決して悪気があっての発言ではなかったが、その言葉は大臣の苛立ちに拍車を掛けた。
水の国の兵士たちも、ジェントがかつての勇者だということに疑念を抱いていた。伝説の勇者はおとぎ話だけの架空の存在と思う者もいるだろうし、実在したとしても四千年という遥か昔の人間がなぜ今の世にいるというのか。精霊たちの証言以外に証明する方法だってないのだから、信じろと言う方が無理な話である。
「ジュード様の名を語るだけでなく、伝説の勇者様の存在まで使い人心を掌握しようとはッ! これは我がヴェリア王国に対する冒涜です! あの詐欺師め、決して許せぬ!!」
「そ、そんな……」
ジュードたちの知らないところで、また厄介な問題が起きてしまいそうだった。




