不思議な夢と姫巫女さま
ふわふわと安定しない、無重力地帯に放り出されたかのような浮遊感の中で、ジュードは静かに目を開ける。目の前は暗く、何も見えなかった。だが、すぐ近くに誰かの気配だけは感じる。
『……ジュード……』
その気配は思ったよりも近いことが、すぐ傍らに聞こえる声から理解できた。父グラムとは違う、まるで頭の中に直接響くような低い声。聞き慣れないものではあるが、ジュードはどこか既知感を覚えた。
『ここは……? 誰か、いるのか……?』
しかし、彼が洩らした疑問に対する答えは返らない。
程なくして、目の前に光が広がり始める。それと共に、傍らに在る何者かの気配が遠ざかり始めた。ジュードは咄嗟に手を伸ばそうとしたが、身体はまったく動いてくれない。
光に照らされて黒い影となる何者か。眩い輝きに阻害されて、その正体は窺えない。
代わりに残されたのは、頭に響く心地好い声がもたらす言葉だけだった。
ジュード、守れ。
破邪の力を持つヘイムダルの姫巫女を守れ――――
「――!」
ジュードが次に目を開けると、その視界には薄暗い木製の壁と天井が映った。寝起きがよいとは言えないながらも、不思議なほどに頭の中がスッキリとしている。
暫し瞬きも忘れたようにただただ中空を眺めてはいたが、やがて身に感じる振動に徐々に意識を引き戻し始めた。傍らを見れば、カミラが小さな窓から外を眺めている。
「(ああ、寝てたのか……)」
そこでようやく、今見ていたものが夢なのだと理解した。ただの夢と呼ぶには妙に引っかかるものを感じながら、ジュードはゆるりと頭を振る。
王都ガルディオンを発って既に二日。現在は、風の国ミストラルに向かう馬車の中だ。どうやら振動が心地好かったのと、旅の疲れもあって馬車の壁にもたれてうたた寝していたらしい。
「(姫巫女さまか……)」
――ヘイムダルの姫巫女。
それは、彼が愛する伝説の勇者の物語に出てくる女性を指すものだ。
かつて勇者と共に戦った女性、それが姫巫女。ジュードは何度も何度も、耳にタコができるほど繰り返しジス神父に教えてもらった。
魔族が通ってきた扉は姫巫女の力によって閉じられ、長たる魔王を失った魔族は魔界に封印されたと伝えられている。
今の時代に伝わっている話のどこまでが本当で、どこからが作り話なのかはわからない。もしかしたら、全てグラナータ博士が生み出した架空の物語なのかもしれないとさえ思う。
「(仮に、全て本当にあったことなんだとしたら……封印された魔族が、どうやってまた現れたんだろう)」
あんな妙な夢を見るほどには、ジュードの中で「魔族が現れた」という話は強く心に残っているようだった。
しかし、結局は姫巫女も伝説の中の存在だし、それを守るなどできるはずもない。やはりただの夢だ。
「あ、ジュード起きたの?」
「うん、ごめんね。いつの間にか寝ちゃってたみたいだ」
「ジュードはずっと戦ってたんだもの、疲れが溜まってるんだよ」
現在、馬車の手綱はメンフィスが握っている。馬車と御者台とを繋げる簡素な扉が閉じられているのをカミラの肩越しに確認して、ジュードは改めて彼女に目を向けた。念のため普段よりも声量を落として、ひとつ疑問を投げかける。
「……ねえ、カミラさん。ヴェリア王国が十年前に滅ぼされたってことは、魔族はその時にこの世界にやってきたんだよね?」
「ええ。それまでは見かけなかったわ、ヴェリアの聖王都もとても平和だったの」
「十年前にはこの世界に現れてたのに、どうして魔族はヴェリア大陸の外に出てこないんだろう……」
カミラの話が真実だとすると――魔族は十年前にはこの世界にやってきたのに、大陸の外に住まうジュードたちはそのことをまったく知らなかった。それはひとえに、魔族の姿を見なかったからだ。
魔族は魔物と異なり知恵を有し、人語を操ると言う。そんな生き物がいれば、どこかの誰かが間違いなく遭遇しているはず。だが、あらゆる場所に配達に出掛けることの多いジュードでも、そういった話を耳にしたことはない。
すると、カミラは先ほどのジュードのように一度己の肩越しに扉を確認してから答えた。
「それは……大昔に姫巫女さまが大陸に張った結界のせいだと思う」
「結界?」
「ええ、姫巫女さまは万が一のことを考えて、魔族が嫌う光の結界を大陸に張り巡らせたそうなの。封印は破られても、その結界はまだ活きてるんだと思うわ」
闇の魔族は、相反する光の力をひどく嫌う。そのため、姫巫女はその魔族が嫌う光の結界をヴェリア大陸に張り巡らせたのだろう。もし封印が破られてしまっても、魔族が大陸の外に出て行けないように。
伝説の勇者のおとぎ話が嘘か真か、それは別にどちらでもいい。重要なのは、おとぎ話に出てくる魔族がこの世界に現れてしまったということ。
「……カミラさん。オレの家族には話してもいいかな、魔族のこと」
「えっ!?」
「大丈夫、父さんもウィルも口は固いし、……いや、マナは駄目だな。とにかく、絶対に喋ったりしない人にだけ」
グラムとウィルは悪戯に人の秘密を暴露したりはしないが、マナは別だ。彼女は悪気があるわけではないのだが、ついうっかり流されて口を滑らせてしまう可能性がある。良くも悪くも隠し事ができない、そういうタイプなのだ。
それにルルーナも。彼女は地の国からやってきた客人だ、広められて困る話はしない方がいいだろう。問題は、カミラの素性を隠してどうやって地の国への入国の協力を頼むか、だ。
カミラはその言葉に考え込むように暫し黙り込んでから、小さく頷いた。
「……わかった。でも、絶対に絶対に秘密だからね」
「うん、そこは大丈夫だよ。……ありがとう、カミラさん」
グラムやウィルに話したところで解決策が見つかるわけもないが、一人であれこれ悩むよりはずっとマシだ。
少しばかり気が楽になったように感じながら馬車に設置されている小窓に目を向けると、遠くに見慣れた村が見えてきていた。