警告を破る者
太陽が空の真上から徐々に傾き始めた頃、マナは食堂で休憩していた。
あの魔族の襲撃から既に一週間、街の中は依然としてメチャクチャだが、少しずつ活気を取り戻し始めている。家屋が破壊された者はそのまま王城に留まっているが、それ以外の者は各々街にある自宅に戻り、これまで通りの生活に戻りつつあった。
この一週間、特に魔族からの襲撃もなく、王都ガルディオンは穏やかな日々が続いている。そんなマナの頭に浮かぶのは、ジュードとカミラのこと。それというのも、二人はメンフィスを隊長とする精鋭部隊と共に今はこの都を離れているからだ。あれはわずか二日ほど前のこと。
ライオットが言っていた神器を取りに行くためメンフィスによって精鋭部隊が選出され、ジュードがそれに同行することになった。それは彼から聞いていたことでもあるし、仕方のないことと思ってはいたのだが、治癒魔法の使い手ということもあり、カミラも同行を頼まれたのである。火の国には狂暴な魔物が多いため確かに癒し手は必要だ、多ければ多いほどいい。
だが、心配は心配である。ちびは魔物ということで当然同行するわけにもいかず、すっかり元気をなくして中庭でしょげている。芝生の上に伏せてゆったりと尾を揺らす様を見つめて、マナは困ったように眉尻を下げた。
「……ああ、いたいた。マナ、ちょっといいか?」
「どうしたの?」
そこへ、作業場にいたウィルが顔を出した。彼はと言えば多少なりとも困り顔で、マナは何となく嫌な予感を覚える。胸の奥がざわめくような。
「あのさ、作業場に置いてた本とノート知らないか?」
「本とノート? それって、文字の配列とか色々書いてあったやつ?」
「ああ、屋敷の中も作業場もあちこち探したんだけど見つからなくてさ」
作業場に置いていた本とノート、そう言われてマナの頭に浮かぶのは一種類しかない。まだ風の国で生活していた頃から、ウィルがいつも持っていた一式だ。
彼は数年前からグラナータ博士が遺した古代文字に並々ならぬ情熱を注ぎ、文字の配列や組み合わせを研究してきた。その結果、一般には使われていない属性付与や無詠唱による魔法発動を現実のものとしたのだ。
――つまり、今はまだ彼らにしかできない技術と言える。
「おじさんたちには聞いた?」
「いや、まだ。……あの人たちに限ってそんなことはないと思うんだけどな」
魔族の襲撃の際に屋敷が燃えてしまったのなら、その時に一緒に燃えてしまったのだろうとも考えられるのだが。屋敷は無事、作業場にも火が出たような形跡はなかった。いつもこの屋敷内に出入りしていた鍛冶屋の男たちは気さくな者たちばかりで、彼らがあの技術をこそこそと盗み出したなどとあまり考えられないし、考えたくはない。
「ね、ねえ、もしあのノートと本が見つからなかったら……どうなるの? あたしたちの技術はもう……」
「それは問題ないよ、あの内容は全部頭に入ってるから造れなくなることはない。ただ……なんか、気持ち悪いんだよな」
「う、うん、そうね……」
もしや、あれら一式がなければもう魔法武具は造れないのでは――マナはそれを心配したのだが、どうやら杞憂だったらしい。文字の組み合わせは数え切れないほどにあったはずだが、それらは全てウィルの頭にしっかりと記録されているようだ。それについては安堵したが、確かに彼の言うように言葉にできない気持ち悪さがあった。
「まあ、もう少し探してみるよ。……ここ最近疲れてたし、どこかに置き忘れてるのかもしれない」
「……そうね、そうだといいんだけど。あたしも探してみるわ」
もし見つからなかったら、誰かが持ち出したということになる。あまり考えたくはないことだった。
* * *
王都ガルディオンを出てやや北側に向かうと、そこには小さな漁港がある。ジュードたちが水の国に行く際に船に乗ったのが、この漁港だ。そんな港に、警戒するように周囲を見回す男が一人。真昼間に黒のローブを纏い、深々とフードをかぶる様は傍目にはひどく怪しかった。
「(ここまで来ればそう簡単には見つからないだろう、魔族が襲ってきた時はどうしたものかと思ったが……この足で風の国辺りに逃げた方がいいかもしれないな)」
それは、メンフィス邸の作業場からウィルのノートと本を盗み出した、ヒーリッヒだった。しかし、彼らの技術を盗み出すのに成功したにもかかわらず、その顔には苦虫を噛み潰したような色が濃く滲む。
それもそのはず、盗み出したノートを見てみても彼にはその内容がまったく理解できなかったからだ。ヒーリッヒとて古代文字くらいは見たことがある。しかし、このノートに書かれている古代文字は彼がこれまで見てきたものとは配列が異なり、何と書いてあるのかさえ読めなかった。どういう効果をもたらすのかもわからない文字列がズラッと並ぶ様は、いっそ清々しささえある。
「クソッ……! あんなガキどもにわかって、この俺様に理解できないわけが……!」
ヒーリッヒは、このノートと本を盗み出してからというもの、ずっとこうして紙面と睨めっこばかりしていた。まずは解読から始めないことには、この中に書かれている内容をひとつも理解できそうにない。
忌々しそうに歯噛みするヒーリッヒだったが、そんな彼の背後に忍び寄る影がひとつ。まるで道化師のような出で立ちの男がヒーリッヒのすぐ真横まで悠々と歩み寄り、彼の手元を覗いた。その顔には胡散臭いまでの満面の笑みさえ浮かべて。
「アナタ、オモシロそうなものを見ていますネェ」
「なッ、なんだテメェは!?」
「おやおや失敬、驚かせてしまう気はなかったのデスよ。ただ、実に惜しいと思いましてネェ」
「……惜しい? 何がだ?」
ヒーリッヒは突然声をかけてきた奇妙な出で立ちの男を振り仰ぐと、その口から出た言葉に怪訝そうな表情を滲ませた。惜しいとは、いったい何に対しての言葉なのか。その意図を探るように。
すると、道化師らしき男はチッチッとわざとらしく舌を鳴らし、立てた人差し指を軽く揺らしてみせる。
「アナタが見ているそのちゃちなモノよりも、もっと力を秘めた文字があることをご存知ですか?」
“……僕がここに書き残す神聖文字が、時を超えて多くの者の助けになることを願う”
「も・し・も、アナタがそれを望むのでしたらワタクシがトクベツに教えて差し上げますよ?」
“神の眷属の加護と祝福を受ける神聖文字は、多くの人々の願いと祈りに応えるだろう。暗き闇を照らし、魔を祓い、世界に泰平をもたらすものとなるだろう。
……されど――”
「ワタクシが知っている文字の方が、この世の大きな力になってくれるハズですからネェ♪」
“――あれを知ろうとしてはいけない。得ようとしてはならない。求めてはならない。あれを願い求める行為は、泰平を破壊する一因となると知れ。
その行いは、この世を確実に破滅へと導くだろう――……”
ヒーリッヒは、男を見上げて薄ら笑いを浮かべた。その目には狂気染みた色が滲む。承認欲求にまみれた色が。
道化師の男はそんな彼を見下ろしてにっこりと笑う。その右顔面には、白塗りのメイクでも隠し切れない深い傷痕が刻まれていた。