ヤギシマメイ
第2話 ヤギシマメイ
【第1章】
寄宿舎を出てから、一時間ほど。
「すみません、遅くなりました」
キタムラが翻訳・校閲案内所・にほん・きゅうしゅう支部に着いた時には、すでに依頼人と思われる娘、それに男性職員が待ちくたびれた表情を浮かべていた。
「……遅いです、校閲さん」
少女のほうが腕くみをして、ため息をつく。
「おおっ」
しかし、キタムラは彼女のほうを見るなり、喜びの歓声をあげていた。
それも無理はないだろう。
というのも、そこにいたのは、キタムラの思い描いた通りの美少女だったからだ。
どこか繊細なダークブラウンの瞳、桃色の唇、とんがり帽子の下から伸びるさらさらの黒髪、紺のブレザー、炭色のマント。チェックのミニスカートからは雪色の美脚がすらりと覗いている。
背丈は、160センチにやや足りないくらいであろうか。
それこそいたって平均的だが、彼女の華奢で、か弱そうな身体は、ブレザーの上から羽織っている大きな黒マントに今にも飲み込まれそうな印象を与えていた。
「校閲にこんなに待たされるとは思わなかった。もう数分遅ければ、帰ろうかなというところでしたよ」
……が、いきなり悪態をついてくるあたり、見た目どおりでもないのかもしれない。
なお、彼女の隣にはスーツ姿で、背の高い男性職員がいるが、少女が目立っているせいなのか、元々、存在感がないのか、彼はまるで、それに寄り添う影のようにしか見えなかった。
「校閲のキタムラくんかね。こちらが依頼主の4級魔法使い、ヤギシマメイさんだ」
「よ、よろしくお願いします」
キタムラは、うやうやしく頭を下げて礼をした。
が、ヤギシマから返ってきたのは、
「……ヤギシマメイ、16歳です。キタムラくんといいましたか? そんなに時間にルーズで冒険から生きて帰れると思うな」
という鋭い指摘。ついでにビシッと、少女の人差し指はキタムラの顔前に突き付けられていた。
「へっ!」
「というのは半分冗談で半分事実。まぁ、これが、ボクなりのご挨拶です」
そんな皮肉を並べて彼女は表情を少し柔らかくした。
「は、はぁ」
「まあ、よろしくという意味ですよ」
「ヤギシマさん……」
「何でしょう」
「一人称、ボクなんですね」
「ええ。ボクっ娘です。それが何か? 最高でしょう」
「ええ。よだれが出ます」
「気持ち悪いね、きみ」
「珍しいなと思ってですね」
「もしかしてボクを痛い子だとか、そんなふうに思ってます?」
「いえいえ、とんでもない。むしろ可愛らしくて、素晴らしいなと」
「ふむ。それが真実なら鞭打ち百回で許しましょう」
「えええええ。全身、皮がむけちゃいますよ」
「魔法使い風のジョークです」
「ほっ」
「魔法使いはよく笑えないジョークを言うので気を付けて」
「はぁ。確かに笑えなかったっす」
「特にボクは冗談が好きな性格です。さて……。キタムラユツキ。せっかく雇うのですからね、あなたからは校閲として、存分なサポートがくることを期待しています。腕はわからないけれど、よろしく頼みますね」
「こちらこそ」
そんな自己紹介が終わったのち。
「では、お二人は契約されるということで、こちらの書類に目を通した後に、契約書にそれぞれサインをしてください。それで契約完了となります」
二人は、男性職員から手渡された分厚い書類をぱらぱらとめくって、お堅い文章に軽く目を通す。
「ボクは契約に意義はないです。面倒なのもありますが」
まずは、ヤギシマが契約書に筆記体でスラスラとサインした。
「右に同じく。面倒というわけではないです。ある意味、このまま死んでも悔いありません。ふつうに本望です」
次に、キタムラが字崩れしたサインを書き終えて、契約が完了した。
「では、手続きをお願いします。職員さん」
「うむ」
職員は二人分のサインの入った契約書をキタムラから受け取ると、
「いま確かにサインをいただいた。では、これにて二人は魔道、校閲の友となりましたことをここで証明しよう。校閲、ゆとり魔法使い共に、良き旅と日常をお祈りする。では、私はこれからこの契約書に事務的な処理を施します。もう登録時に大方の説明は済んでいると思うので、このへんで邪魔者は失礼を。せっかくの縁だ。仲違いなどせずに、くれぐれも仲良くやりたまえね」
そう言い残した彼はそのまま書類を抱いて、案内所の奥へと消えた。
印象通り、まるで影のような男のきわめて冷静かつ事務的な対応だった。
彼はもう帰ってはこないのだろうか。しかし、いまのキタムラにはそんなことは関係なかった。
さてさて。
契約書を受理されたということは、つまり、すでに二人の日常生活は開始しているという意味でもある。5分以上が経過しており、キタムラは明らかに時間を無駄にしている不安に駆られた。
というわけで、さっそく少女に話しかける。
「さて、これからどうするんです? ヤギシマさん」
「呼び名はメイで構いませんよ。フレンドリーにどうぞ」
「失礼。どうしますか、メイさん。いきなり校閲でもいいですよ。何しろ技術には自信がありますからね。ご要望があれば何なりと申し付けてください」
「そうですね。ユツキくん、きみには当然ながら校閲をお願いするのですがね……」
「ええ、それは分かっています。で、何を校閲しましょうか」
「ふーむ」
ここで大きく溜息をつくヤギシマ。
少女はやれやれといったふうに両手を宙に広げた。
「ん、どうしたの?」
一方でキタムラは変わらないマイペースを発揮している。
しかし、この無知ぶりに相手が呆れるのも当然だった。
それもそのはず。
「校閲を頼みたいのは山山だけれど、今のままでは、その、なんていうのか校閲自体が不可能ですよね」
「え!?」
ここで、キタムラはこの世界の基本かつ重要なことを思い出していた。
そう、魔法書の翻訳者の不在である。ゆとり魔法使いの使用する魔法というものは、まず翻訳者が魔法書をすばやく翻訳し、校閲がその中から誤字脱字を発見して訂正しつつ無意味な文字を取り除き、最後にそれをゆとり魔法使いが攻撃魔法、あるいは回復魔法なりとして詠唱することによってはじめて呪文としての体を成すのである。
もっとも、上級魔法使いともなればそのようなステップを正確に踏むことすらも必要なく、自分自身で簡単な翻訳や校閲処理を行うことが可能な者も存在してはいるのだが、それはまた別の話だ。
「ああ、だよな。翻訳なしで校閲なんてできないからね。ごめん、俺としたことがすっかり忘れていたよ」
「……ですよねー。やれやれ。分かりました。では、まずは優秀な翻訳者を探すことにしましょう。今回のボクの最終的な目標。それをまずお伝えしておきます」
「はい」
「もちろん……それはね」
「どうぞ」
「脱ゆとり魔法使い。つまりは3級への昇格です」
「え、大仕事じゃん」
キタムラは、ちょっと間の抜けた声を出していた。
「そうですよ! それをしっかりと自覚したうえで、ユツキくんは校閲を志望されたと思っていましたが?」
「うぐ……、確かにそれは、まぁそうだが」
美少女との出会い目的が半分とはとても言い出せず、それどころか校閲としての責任、その重大さを感じて言葉を濁すキタムラ。
そんな彼を尻目にヤギシマは続ける。
「とりあえずは、ここにある電子掲示板でいい翻訳ちゃんがいないかをちゃちゃっと探してみますかね。どうせだから、きみもついてくる?」
「あ、はい。で、でも」
このような軽いスタンスの俺で本当に大丈夫なんすか、翻訳探しは、というか冒険は……、と喉元まで出かかった言葉をごくりと飲み込むと、キタムラは奥の部屋へと向かうヤギシマの後を追った。