キタムラユツキ
【プロローグ】
「西暦? あったな、そんなもの」
多くの人々が西暦という概念をもはや破棄した時代。
環境の破壊もかえりみずに過度に発展を続けていた『科学』は、かつての『戦争』を境に世界政府によって見直され急速に衰退、終わりを告げる。
その代わりに『魔法』という、それまではイレギュラーかつ迷信的な色合いの強かった非科学的要素がその実用性の高さとエコ性から少しずつ注目を浴びはじめ、やがて世界的に深く浸透していった。
加えて、西暦の代用品として新たに作られた暦は、世の中に最初の『魔法使い』が登場した時期から年代を数え始める『魔法暦』と呼ばれるものであった。
当然、一般人たちの中にも魔法使いの素質を持つ者たちが次々に出現して、ますます隆盛を見せる魔法時代…………のはずだったが、ひとつ問題が。
それは。
———魔法歴1116年
「ほえーっ。ムズすぎだろ」
「魔法書とか読めないよー。それに誤字だらけ」
繁華街の喫茶店では、しばしば新米魔法使いたちの悩ましげな声が聞こえてくる。その後、ゆとりの魔法詠唱失敗には付きものの、思わず耳を塞いでしまいそうな爆発音などが続く。
まぁ、いまではきわめて日常的な光景である。
その原因こそ現在、全世界を統括する「世界魔法政府」の新規教育政策『ゆとり的教育』の失敗にあった。
これにより一部の者を除けば、魔法書の解読すらできない『ゆとり魔法使い』が急増してしまったのだ。
魔法世界の威信をガタ落ちさせる事態には、さすがの政府も憂慮してずいぶんと頭を思い悩ませた。
そして、長らく考えた末にようやくある画期的な対策方針を打ち出すことにした。
それは、魔法書の翻訳者(魔法言語を素早く翻訳する役割)や校閲者(翻訳した魔法言語の中から誤字脱字などを洗い出して、ちゃんとした効力を持つ正しい呪文に直す役割)といった解読補助役を養成した後、魔法文字の読めないゆとり魔法使いたちのところに派遣するという方法。
ゆとり魔法使いが世界で魔法を使用するには魔法文字を『校閲する者』、『翻訳する者』、『発動者』の三役が必要になる。
この頭数を揃えるため、特殊な素質がなく魔法詠唱は使用できないが、魔法書の解読や校閲が可能な教養者たちが、平凡な一般人の中からも駆りだされることになった。
彼ら、彼女らは『校閲』や『翻訳』とも呼ばれ、助っ人として、さまざまな「ゆとり魔法使い」のもとへと、日々派遣されている。
そんな「校閲」の一人、キタムラユツキ、18歳。
2流の私立魔法文学校(翻訳や校閲などを養成するための教育機関である)を卒業後、しばらくニートをしていたが、このほどついに国家試験に合格して、かねてからの夢だった職業に就くことができたのだ。
魔法言語に少しは耐性があるはずの彼だが、まだまだ未熟な新米校閲ということに変わりはない。
ちなみに、第一希望の派遣先には「僕は美少女のところがいいです」とはっきり書いたつもりだったが、未だに派遣の結果は彼のもとへ戻ってきておらず、しぶしぶ自宅待機をしている状態である。
さて、今日で希望を出してから、ちょうど一週間ほど。
そろそろ結果がきてもいいはずの頃合。
「……遅いな。派遣先が美少女かどうかが気になって何も手につかない」
思わず、そんな独り言が出てしまう。
キタムラは仕方なしに、新米のためのガイド本をぱらぱらめくり始めた。
ガイド本によれば、魔法使いのもとへとそれぞれ派遣される校閲にも、危険はつきものなのだという。
それこそ、魔法使いといえば世界各地で危険な冒険をすることで魔術的経験を積み、悟りを開き昇格していく職業だ。一部例外もあるが。
そのデンジャラスな冒険に校閲もサポート係として同行しなければならないのだから、当然ではある。
なお、この世界の魔法使いにはそれぞれ1級から5級までのランクがあり、魔法使い人口の大部分を占める3級以下の、通称『ゆとり魔法使い』が旅をする際には基本として『校閲』と『翻訳』の資格を持つ随行者が必要なのだ。そして、翻訳と校閲とゆとりとの三大連携が冒険成功の鍵を握るといっても過言ではない。
つまり、ゆとりと校閲と翻訳とは一心同体の存在でなければならないのである。
それも、キタムラが派遣先に美少女を選んだ理由のひとつだった。
「……わざわざ校閲になったのに男と組むなんて考えられないし、頼むぜ、選考委員。美少女とのコンビだったらいくらでもやる気が出るってもんだ」
キタムラが再び独り言を口にした時。
プルルルル、という振動がジーンズのポケットから伝わった。
入れているのは、携帯端末。
どうやら、選考委員からの連絡とみてまず間違いないだろう。
「来たか」
彼はポケットからそれを取り出すと、おそるおそる通話ボタンを押して、耳に当てた。
「はい」
「こんにちは。きみが一週間前に派遣希望を出してくれた翻訳・校閲案内所・にほん・きゅうしゅう支部の担当者だ。いま大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
「ふむ。……合格者ナンバー、191257番のキタムラユツキくん。声からして、きみがご本人さんで間違えないよね?」
電話の主、おそらく中年の男性職員は間髪いれずに第一声を放った。
「ええそうです。キタムラです。間違えありません」
すると、電話口の職員は、「……そうか」と一瞬、重たそうに息をついて。
「きみさ。第一希望の派遣先になんて書いた?」
「えーと。美少女のところへの派遣が希望だと書きました」
「ふざけてるのかい?」
「えっ!」
「これは、場合によっては依頼されている、ゆとり魔法使いの方々の命にかかわってくる問題でもあるんだよ。皆さん、真剣にご検討されてらっしゃるのに失礼にも程があるぞ」
「す、すみません」
電話にもかかわらず、キタムラはその場でつい、頭を下げていた。
「だが、幸いにも、きみに依頼をしてみたいという方が見つかった。まぁ、風変わりな方だけれどね、きみの希望通りの美人さんだ。だから、今からすぐに翻訳・校閲案内所・にほん・きゅうしゅう支部へと来てくれたまえね」
「ほ、本当ですか! あ、ありがとうございます」
「とにかくすぐに来てくれたまえね。大丈夫か?」
「もちろんです! わ、分かりました。すぐに向かいます!」
ツー、ツーと電話が切れた後、キタムラが大きく飛び上がり、ガッツポーズで喜んだのは言うまでもない。
彼はすぐさま、校閲ハンドブックや幾つかの必需品をかき集めて、リュックに詰め込むと寄宿舎を飛び出し、翻訳・校閲案内所へとむかうのだった。
美少女魔法使いの校閲になれるということに心を躍らせて。