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ひとつだけ  作者: 滝岡尚素
第二話 幸福な遺書
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過去からの手紙

 目を開けると、いつもの風景の広がりを感じる。大して高くもない天井に、ぽつんと電灯が一つ。首を転じると妻が寝息を立てていて、その先に、二歳になる息子が見えた。


 枕元の時計を見ると午前六時。夏の朝、空気はまだひっそりとしている。重い身体が睡眠へと傾くのを何とか潰して起き上がる。ふと、妻の寝顔が目に入った。


 その寝顔に滲んでいる淡い衰えに、私は顔をしかめた。


 洗面台の前に立つ。淡く翳りの滲んだ彼女の顔と、私の顔――鏡に映った私のそれは、昔よりも緩やかに、確実に――衰えていた。


 ため息とともに色々なものを追い出そうとしてみる。だが、それは上手く行かない。



 着古したスーツに袖を通し、五年以上使い続けている青のネクタイをしめた。

 ――万年係長の出来上がりだ。

 振り返り、二人の寝顔を確かめて家を出た。





 外に出ると、早朝だというのにもう温度が上がりかけていた。アスファルトの上を歩いていると、じっとりと汗が滲んでくる。



 私はとぼとぼと駅への道を歩いていく。やっと手に入れた公団住宅は、駅から少し遠いのが難点だった。



 学生のころ住んでいたアパートが取り壊され、昨今のマンションブームに乗って小奇麗な建物に変わった。私は、そこを通るたびに様々な感慨を抱いた。

 よくあんな狭い部屋に四年も居られたとは思うが、つまりはそれが若さなのだろう。



 ――昔のことだ。

 私はたいてい、その台詞を思った。



 駅に辿り着く。ラッシュアワーを直前に控えた駅は不気味に静まり返っていた。

 私は定期を取り出した。




 「――さん?」

 誰かに自分の名を呼ばれて反射的に振り向くと、見たこともない女性がそこにいた。歳は四十前後だろうか。



 こちらが誰何(すいか)する前に向こうが名乗った。


 「突然申し訳ありません。私、森村洋子と言います」

 「はあ……」

 そう言われても誰だか分からない。私はぼんやり返事をした。



 すると女性は、お仕事でしょう、取りあえずホームに上がりませんか、と言って私を促した。



 改札を抜け、ホームへの階段を上がりながら、森村洋子と名乗った女性は、私の前で振り向かずこう言った。

 「誰だか、分かりませんか?」



 言われた記憶を辿る。だが、何処にもない。私は首を振った。

 「そうでしょうね。直接お会いしたことはありませんから」



 女性を私は追い越した。不気味といえば不気味だったので、このままいざとなれば電車に乗り込んで逃げるつもりだった。



 しかし、次の一言で私は危うく階段を踏み外しそうになった。

 「私、旧姓は管野と言います」



 思わず立ち止まった。

 「かん――の?」

 「管野はるかの妹です」



 ホームに上がり切る。

 私は改めて森村洋子の顔を見つめた――言われてみれば、何となく。



 ――似ている?

 彼女は、私のそんな反応を待ってバッグから一通の封筒を出した。あなた宛てです、と言い添えて。



 私は怖ず怖ずと受け取る。

 かなり(いた)んだ封筒だった。私宛てだと言ったが、それらしき宛名は何処にもない。ただ、ひどくボロボロで、まるで――長い長い時を経たような封筒。



 私の中で何かの推測が瞬いた。

 ――まさか。

 「あの、これは?」



 私の問いに、女性は、ゆっくりとこう言った。

 「姉からの、あなたへ宛てたと思われる最後の手紙です」



 目をみはる。『会ってほしいんです』――管野はるかの最後の声を、私は鮮明に思い出した。



 ――馬鹿な。

 では管野はるかは、これを私に?



 私は、中を見ようと焦るあまり封筒を取り落としそうになる。

 「申し訳ありませんが、封は、既に切ってあります」

 ようやく中身を取り出せた。黄ばんだ紙片が一枚、折り畳んで入れてあった。



 森村洋子は続ける。

 「大介さんが、そこに書いてある人物があなただと、やっと教えてくれました」

 「あいつが?」



 彼女は頷いた。

 「長いこと――大介さんはその手紙を仕舞い込んでいたんです」



 思わず手紙を見た。そこには懐しい、管野はるかの文字。

 「どうして今頃になって?」



 彼女は、今度は首を振る。

 「分かりません。この手紙は自分に宛てたものだと、大介さんは思いたかったのかも」



 そうして、大きく息を吐いて、言った。

 「でも、やっと――」



 言葉の最後が、風に流される。電車が入って来た。

 「あ、どうぞ、行って下さい」


 言われて、私は乗り込むしかなかった。

 「あなたは? 乗らないんですか」

 振り返り、私は聞いた。


 「この近くが仕事場なんです」

 森村洋子はそう返事をした。


 「連絡先は、中に書いてあります」

 発車のベル。ドアが閉まる寸前に森村洋子はこう言った。


 「もし良ければ、手紙の意味を教えて――」

 そこでドアが閉まった。ごとん、と動きだして、物理的に彼女の姿が横へスライドした。



 私は、森村洋子の姿が見えなくなるまでじっとそこから動かなかった。そして、電車がスピードに乗り切ったところでようやく緊張を解いた。



 ――今に、なって。

 人気(ひとけ)の殆どない車内で私は立ち尽くした。



 ――あの日彼女は、私に会いに来ようと。

 その事実を、森村洋子は知っているのだろうか。



 私は座席に腰を降ろすと、手紙に目を通していった。

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