過去からの手紙
目を開けると、いつもの風景の広がりを感じる。大して高くもない天井に、ぽつんと電灯が一つ。首を転じると妻が寝息を立てていて、その先に、二歳になる息子が見えた。
枕元の時計を見ると午前六時。夏の朝、空気はまだひっそりとしている。重い身体が睡眠へと傾くのを何とか潰して起き上がる。ふと、妻の寝顔が目に入った。
その寝顔に滲んでいる淡い衰えに、私は顔をしかめた。
洗面台の前に立つ。淡く翳りの滲んだ彼女の顔と、私の顔――鏡に映った私のそれは、昔よりも緩やかに、確実に――衰えていた。
ため息とともに色々なものを追い出そうとしてみる。だが、それは上手く行かない。
着古したスーツに袖を通し、五年以上使い続けている青のネクタイをしめた。
――万年係長の出来上がりだ。
振り返り、二人の寝顔を確かめて家を出た。
外に出ると、早朝だというのにもう温度が上がりかけていた。アスファルトの上を歩いていると、じっとりと汗が滲んでくる。
私はとぼとぼと駅への道を歩いていく。やっと手に入れた公団住宅は、駅から少し遠いのが難点だった。
学生のころ住んでいたアパートが取り壊され、昨今のマンションブームに乗って小奇麗な建物に変わった。私は、そこを通るたびに様々な感慨を抱いた。
よくあんな狭い部屋に四年も居られたとは思うが、つまりはそれが若さなのだろう。
――昔のことだ。
私はたいてい、その台詞を思った。
駅に辿り着く。ラッシュアワーを直前に控えた駅は不気味に静まり返っていた。
私は定期を取り出した。
「――さん?」
誰かに自分の名を呼ばれて反射的に振り向くと、見たこともない女性がそこにいた。歳は四十前後だろうか。
こちらが誰何する前に向こうが名乗った。
「突然申し訳ありません。私、森村洋子と言います」
「はあ……」
そう言われても誰だか分からない。私はぼんやり返事をした。
すると女性は、お仕事でしょう、取りあえずホームに上がりませんか、と言って私を促した。
改札を抜け、ホームへの階段を上がりながら、森村洋子と名乗った女性は、私の前で振り向かずこう言った。
「誰だか、分かりませんか?」
言われた記憶を辿る。だが、何処にもない。私は首を振った。
「そうでしょうね。直接お会いしたことはありませんから」
女性を私は追い越した。不気味といえば不気味だったので、このままいざとなれば電車に乗り込んで逃げるつもりだった。
しかし、次の一言で私は危うく階段を踏み外しそうになった。
「私、旧姓は管野と言います」
思わず立ち止まった。
「かん――の?」
「管野はるかの妹です」
ホームに上がり切る。
私は改めて森村洋子の顔を見つめた――言われてみれば、何となく。
――似ている?
彼女は、私のそんな反応を待ってバッグから一通の封筒を出した。あなた宛てです、と言い添えて。
私は怖ず怖ずと受け取る。
かなり傷んだ封筒だった。私宛てだと言ったが、それらしき宛名は何処にもない。ただ、ひどくボロボロで、まるで――長い長い時を経たような封筒。
私の中で何かの推測が瞬いた。
――まさか。
「あの、これは?」
私の問いに、女性は、ゆっくりとこう言った。
「姉からの、あなたへ宛てたと思われる最後の手紙です」
目をみはる。『会ってほしいんです』――管野はるかの最後の声を、私は鮮明に思い出した。
――馬鹿な。
では管野はるかは、これを私に?
私は、中を見ようと焦るあまり封筒を取り落としそうになる。
「申し訳ありませんが、封は、既に切ってあります」
ようやく中身を取り出せた。黄ばんだ紙片が一枚、折り畳んで入れてあった。
森村洋子は続ける。
「大介さんが、そこに書いてある人物があなただと、やっと教えてくれました」
「あいつが?」
彼女は頷いた。
「長いこと――大介さんはその手紙を仕舞い込んでいたんです」
思わず手紙を見た。そこには懐しい、管野はるかの文字。
「どうして今頃になって?」
彼女は、今度は首を振る。
「分かりません。この手紙は自分に宛てたものだと、大介さんは思いたかったのかも」
そうして、大きく息を吐いて、言った。
「でも、やっと――」
言葉の最後が、風に流される。電車が入って来た。
「あ、どうぞ、行って下さい」
言われて、私は乗り込むしかなかった。
「あなたは? 乗らないんですか」
振り返り、私は聞いた。
「この近くが仕事場なんです」
森村洋子はそう返事をした。
「連絡先は、中に書いてあります」
発車のベル。ドアが閉まる寸前に森村洋子はこう言った。
「もし良ければ、手紙の意味を教えて――」
そこでドアが閉まった。ごとん、と動きだして、物理的に彼女の姿が横へスライドした。
私は、森村洋子の姿が見えなくなるまでじっとそこから動かなかった。そして、電車がスピードに乗り切ったところでようやく緊張を解いた。
――今に、なって。
人気の殆どない車内で私は立ち尽くした。
――あの日彼女は、私に会いに来ようと。
その事実を、森村洋子は知っているのだろうか。
私は座席に腰を降ろすと、手紙に目を通していった。