使えるものはひとつだけ
「ひとつだけ?」
桐子は目の前の怪しげな男に問い掛ける。
「ええ。カンニングに使えるアイテムはひとつだけです」
「……何でカンニング限定なの?」
「――私、そう言う神でして」
それに、必要としている者の前にしか現れません。と言って、男は桐子の家の上がり框に座って笑みを浮かべる。対面に腰を下ろしている桐子は困惑顔だ。
――何でこんな奴、家に入れちゃったんだろ。
だが、確かに桐子はそれを必要としている。それも確実で強力な奴を。
――もし、ほんとに受かったら。
桐子はいつかの先輩との会話を思い出す。
『受かったら?』
『そう、受かったらね。付き合ってあげるよ』
男の子は笑顔で桐子に答えた。その微笑みがたまらなく素敵だと桐子は思う。
――先輩、待っててね。
とつぜん家にやって来て玄関先で風呂敷を広げた男。何故か追い出すことも出来ず話を聞いているとこれまた荒唐無稽なことを言い出した。
でも、不思議と疑う気になれない。だが信じる、と言うのとは少し違う。敢えて言うなら、この男を――疑えない。
「これは?」
桐子は小さなスイッチを指差す。ボタンが赤い色で、押し込み型だ。
「それは、時間を止められるスイッチですね」
男はさらりととんでもないことを言う。
「は?」
「ですから、時間を止めて、その隙にカンニングを」
「あ、ああそう……」
桐子はスイッチを手に取ってしげしげと眺める。見たところは何の変哲もない、どこにでもあるようなものだ。
「試してみますか?」
桐子は頷く。男に促されて、スイッチを押し込んでみる。
――?
何か、違和感を覚える。違和感のもとを辿ってみると――音が、全く聞こえない。
男が構わないと言うので家の外に出てみる。
――おお。
道を行く人が何人かいるのだが微動だにしていない。空を見ると鳥が、止まっていた。
――ほ、本物?
慌てて家に戻る。
「か、解除は?」
「もう一度スイッチを」
言われるままにもう一度押す。途端に音が色々な聞こえてきて、世界が再び動き出したのが桐子にも分かった。
「これにする」
男は首肯すると口を開く。
「三点、注意事項があります」
「はい」
「一つは、このスイッチは五回しか使えません。あ、いま試したので、あと四回ですね」
「え、新品はないの?」
「現品限りでして」頭を掻く男。
まあいいや、国語ならなんとか、と桐子は考える。
「それからですね」
「はい」
「稀に時間を止めても動ける人間がいますので、注意して下さい」
「どういうこと?」
「いやあ……、どう言う訳か、時間を止めても動ける人間がいるんですよねぇ」
男は飄々と答える。
「まあ、もしそう言う人間がいたら」
「いたら?」
男は微笑んだ。桐子が思わず引き込まれそうになるほど自然で優美な笑みだった。
「たぶん、その人はあなたに好意的なはずなんですよ。そう言う風になっていまして。ですから、あなたが何とかして下さい」
「わ、分かったよ。で、最後は?」
男はまた、にっこりとする。立てた人差し指を自分の唇に当てて、
「私のことを誰にも、喋らないこと」
そう言って、男はスイッチを置いて去って行った。
桐子は取り敢えずスイッチを持って自室に戻る。
机に座って、スイッチを前に腕組み。
もはや桐子の頭にはこれをどうやって試験会場に持ち込むかということしかない。
――先輩、受かったら喜んでくれるかなぁ。
思わずにやける桐子。
めでたく合格して、先輩と付き合えた時のことを考える。
――そうなったらどうしよう。
頭の中にはそれしかない桐子だった。