真剣だった
彼女の家は高校からふた駅離れた、郊外の一軒家だった。この辺りは最近造成されたらしく、建ち並ぶ家はどれも新しく、よく似たデザインだ。
似た家が多い所為か、僕はメモを片手に迷ってしまう。
五月の終わり、空気はすっかり初夏のよう。額に滲んだ汗を拭い、いったん一軒の家の前で立ち止まる。
――どこだ……?
がちゃり。
と、目の前の家のドアが不意に開いて。
「間宮くん?」
林堂さんが、僕を驚いた顔で見つめていた。
「びっくりしちゃった。二階で何となく外を見ていたら、間宮君が歩いて来るんだもん」
「実はちょっと迷っちゃって」
近くに公園があるからそこで話そう、と彼女が言うので二人で向かっている。
「あー、分かりにくいよねぇ、ここら辺。こう同じような家が並んでちゃね」
公園に着いて、僕たちはベンチに腰を下ろす。
「ふー、……さて。どうしたの? わざわざ家にまで」
彼女は、前を向いたまま僕と目を合わさずに言葉を発する。
「えっと、きみと同じ中学の子が心配しててさ」
と、僕は自分がここに来ることになった経緯を説明する。
「あー、あいつか。担任に頼まれた、ねぇ……」
「で、何かあったの? テストにも来ないで」
「うん……」
林堂さんは頷いたきり、押し黙る。
長い長い間があった、と思えた――そのままどちらも口を開かないままで終わるのかと、僕が危ぶみ始めた時。
「あたしね、ふられちゃったんだ」
ぽつり、と一言。
「――あの先輩?」
「そうそう。すっごくかっこいい人でね、中学の時から好きでさ」
確かに、もてそうな顔ではあったな。
「でね? ――この前、思い切って告白したんだよ」
「そうなんだ」
ちょっと複雑な気持ちで、僕はこの話を聞いている。
「――でも、ダメだった」
小さなため息をつく林堂さん。
「そのショック? 学校に来ないのは」
「ううん、どうかな……。私にとってもう、あそこは行く意味がないって言うか」
林堂さんは俯いた。
「あーあ……。高校受かったら、付き合ってくれるって言ってたんだけどなぁ」
その言葉に、僕は反応してしまう。
「――だからカンニング、したの?」
彼女の顔がみるみる強張っていく。
でも、次の一言は意外なものだった。
「やっぱり――効いてなかったんだね」
僕は頷く。何故か僕は動けたんだ、と言うと、
「そうか……。君だったのかぁ」
訳の分からないことを言った。
「それって、どういう――」
「先輩、ひどいんだよ? まさか本当に受かるとは思わなかった、だって。」
僕の言葉を遮って林堂さんが続ける。
「何だよそれ、って話じゃない? それって……、それって、どうせ受からないと思ってたってことじゃん! 結局、体よく断るつもりだったってことじゃん!」
怒気をはらんだまま、前のめりになって肩を震わせる。
「だったらその時に言えってんだ! 今頃になってなんだよ! 期待、させんなよ……!」
地面に向かって叫ぶ。少し泣いてもいた。
「でもあたしも馬鹿だなぁ、あんな言葉、本気にしてさ……」
顔を上げ涙を払う林堂さん。
「あ、馬鹿だったねあたし。カンニングしたし。だから、しょうがないか」
僕は何と声をかけたものか迷う。どうやって時間を止めたの、とか、どうやってその力を手に入れたの、とか、聞きたいことはいっぱいあったのに、口をついたのは全然違う言葉だった。
「――勉強、教えようか?」
彼女はちょっと目を丸くする。
「あははは。いいよいいよもう――もう辞めるし」
「そんな――」
「あんな学校、ほんとは行きたくなかったし」
「そんなこと言わずに。たかが――」
すると彼女は僕を睨みつけた。
「たかが? たかが、なに?」
しまった、と思ったが、もう遅い。
彼女は怒りに声を震わせる。
「下らない、って言うの? カンニングまでして、って? ――言っとくけど、私は真剣だった! 真剣に、先輩と付き合いたかった!」
一気に言うと、立ち上がりこちらを嘲笑うように見下ろした。
「――ああ、ひょっとして下心? それとも、同情?」
「いや、僕は――」
彼女は僕を睨んだまま、更に叫んだ。
「ふざっけんな! そんな、そんなの……」
後は言葉にならないようだった。
さっきよりも大粒の涙を流し、しゃくりあげる。
ベンチに崩れ落ちるように座る。
僕は、せめて彼女が落ち着くまで側にいようと心に決める。
数十分後。
「ごめん」
落ち着いた様子の林堂さんが僕に頭を下げる。
僕は首を振る。
「別にいいよ」
「あー……。何だか、叫んだらすっきりしちゃったなぁ」
泣き腫らした顔で伸びをする。
時刻はそろそろ夕暮れ。日が落ち始めると、少し肌寒い。
「どうして?」と林堂さん。
「ん?」
「どうして、私に勉強を教えてくれるって?」
「ああ、いや……」
僕は頭を掻く。
「方法はどうあれ、せっかく入ったんだし辞めるよりはいいと、思うから」
「そっか」
「――入試の時」
「ん?」
「僕の答案をよく見に来た」
「あー」林堂さんは僕の隣でくすりとする。
「間宮君のが、良く出来てる気がしたんだよね」
「でも、国語は多分、君の方が出来てたと思うよ」
僕の言葉に、林堂さんは、ん? という顔をする。
微笑んで、僕は、
「だって国語の時、君はカンニングしなかっただろ? ――それでも、君が新入生代表だったんだから」
林堂さんはきょとんとする。やがて、僕の言った意味が分かって。
「ま、まあね? 国語だけはずっと『五』だったんだ」
「もう、時間は止めないの?」
「うん。と、言うか」
林堂さんはベンチから足を浮かせてぶらぶらさせた。
「詳しくは言えないけど、もうあれは――使えないんだ」
どこかせいせいした晴れやかな顔。
「そうなんだ」
僕も同じように足をぶらつかせる。
「ねえ」真面目な声の林堂さん。
「ん?」
「今からでも、間に合うかなぁ……、勉強」
絞り出した声だった。
「――分からない」
「えー、何よそれ」
「いや、僕は『本当の林堂さん』がどのくらい出来るか知らないし」
林堂さんは顎を上げて、暮れなずむ空を見上げた。
「まあ、そうね」
「でも付き合うよ。僕で良ければ勉強、教える」
林堂さんは、悪戯っぽい目で僕を見る。
「……下心や同情はなしよ?」
当たり前だよ、僕はそう言って彼女の瞳を見返す。
それを聞いて満足したのか、林堂さんはにかっとした。
「じゃあ宜しくね――センセ?」
その笑顔にどぎまぎしながら、僕は深く、深く頷いた。