大胆な女の子
「では、始め」
受験生が一斉にプリントを表に返していく。
紙の音がやけに大きく響いた。
高校入試。一教科目は数学。
僕はところどころ引っかかりながら何とか解答していく。
そうして、どうにか全ての解答欄を埋め、時間を見ると残り五分。記入ミスのないことを確認した僕はふうっと息を吐いて、顔を上げた。
その時。
――?
空気が、重苦しくなった気がした。
――な、なんだ? これは……。
周囲の受験生達がぴたりと止まっている。誰も身体はおろかペンさえ動かさない。何より、彼らの息遣いが――聞こえない。
どうして良いかわからず僕は席を立てずにいた。迂闊に下手なことも出来ず、僕は状況把握のため、なるべく眼だけを動かして周囲を確認してみる。
僕の両隣は動画を一時停止したみたいに、動作の途中で止まっている。
――まさか。
時間が止まっているとでもいうのか。僕は信じられない気持ちで、思い切って少し首を動かして窓の外を見る――空を舞う雀が空中で、静止していた。
確定だ。どうやら本当に止まっている。だがどうして? そして、なぜ僕だけは動けている?
がたっ。
と、不意に何か物音がした。
僕は咄嗟にその方向を見てしまう。
動けているのは僕だけではなかった。僕の席からはだいぶ離れた教室の入り口付近――女の子が一人、席を立っていた。
その子は他の受験生の答案を覗き込み、しばらくそうしていたかと思うと、今度は後ろの受験生。それが終わると、少し歩いて更に後ろの受験生の机へ歩いていく。よく見ると女の子は手に筆記用具と――答案用紙を持っている。
――な、何、してるんだ……?
僕は腰を浮かそうとしてぎりぎりで踏みとどまる。ここはとにかく、止まっているふりをしようと決めた。相手は時間を止められるほどなのだ。他にどんな力を持っているか分からない。
女の子は受験生の机を渡り歩きながら、時々自分の解答用紙に書き込んでいく。
彼女の行為は疑いようもなくカンニングなのだが、問題は時間を止めたのはこの女の子なのかということだ。その方法は? また、時間を再開する方法はあるのだろうか。
考えているうちに、女の子が僕の座っている列までやって来た。答えを書き写しながら、ゆっくりと僕のテーブルまで近寄って来る。
取り敢えず僕は『止まっていることを悟られない作戦』を敢行する。いかにも止まってますと言う体で微動だにせず女の子を迎え撃つ。
彼女はしゃがんで僕の答案を見ると自分の答案用紙に書き込み、暫くして立ち上がり、後ろへ向かう。
女の子が立ち上がる時、僕と目が合った。
僕の目の中に入った女の子は。
長い黒髪をなびかせ、目のくりっとした、とても可愛らしい顔立ちをしていた。
女の子は自席に戻る。
そして、背筋を伸ばし前を向いた。
そこで出し抜けに空気が変わる。
僕の両隣の受験生が途端に動き出しペンを走らせていく。それ以外の音も聞こえ始める。
時間が――動き出した。
やがて、一教科目が終了した。
二教科目、英語。
さっきと同じように残り五分で時が止まり、女の子が受験生の机を渡り歩いて答えを書き写していく。
必ず残り五分なのは受験生達の解答が出揃うのを待っているのだろう。目の前までやって来た彼女に対して、今回も僕は何とか身体を静止させて乗り切った。
やがて時間は再開され、二教科目も終了。
あと、三教科。
僕は何食わぬ顔で着席している女の子を軽く睨む。
間違いなく彼女はこの入試をカンニングで受かろうとしている。時間が操れるのだからそれも可能だろうが、一生懸命頑張っている他の受験生のことを考えると腹立たしい。何より、彼女のその、行為。
――虚しく、ならないの?
やがて三教科目の国語が始まろうかという時。
ふ、と彼女が髪を掻き上げ、形のいい小さな耳が露わになる。
その仕草の、妙な色っぽさにドキリとする。
試験官が入ってくる。僕は前を向く。
当然今回もカンニングに来るのかと思っていたが、何故か時間は止まらなかった。
ひょっとして止められるのは二回までとか、何か制限があるのかも。よく考えてみればあんな力がいくらでも使えたらそれこそ神様だ。
僕はどこか安心したような気持ちで三教科目を終えた。
僕は何となく彼女のことを気にしている。
昼休み。午後からあと二教科だ。
結果として、僕は残り二教科ぶんのカンニングに耐える羽目になった。彼女は僕の解答を気に入ったのか、二時間とも僕のところにやって来た。
結局、どうやって彼女にカンニングのことを問いただそうかと考えているうちに全ての試験が終わってしまった。大事なのは、このまま僕が指摘しなければ彼女は逃げおおせてしまうと言うことだ。
周りの受験生達が帰り支度をする中、僕は鞄に教科書を入れることもせず、彼女を目で追っていた。
そそくさと帰り支度を済ませ教室を出ていく女の子。
慌ててその後を追う。
受験生で溢れ返る廊下。僕は教室を出るのにまごつく。仕方なく教室の入口から目を凝らす。彼女はあっという間に人混みに紛れてしまっていた。
短く溜息。やがて廊下の人混みが収まって教室を出る。けれど彼女の姿はもう、どこにもなかった。
――まあ、いいか……。
僕は鞄を肩にかけ直す。合格していればまた、会える。
――その時はちゃんと問い詰めてやる。
そう言う気持ちと、また会えるかも知れないことへの高揚感。
廊下を歩き、階段を降り、玄関に向かう。
理由はどうあれ、僕はまた彼女に会いたいのだ。
それを認めたくないと言う声と、認めてしまえと言う声が僕の中で同時に渦巻いていた。