少年と警察
正常性バイアスという言葉がある。
異常事態の中でも比較的正常とする心理状態のことを言う。
無意識的な心の防御本能。
どうせ自分には関係がないから。
そういった心理が働く。
怪盗イニクスからの予告状が届いた時、他の街の人の関心が薄いのはこれが理由だと考えられる。
乙坂海斗の言っていた「あまり怪盗の情報が入ってこない」もここに起因している。
怪盗イニクスが他の街では現れないから、というのが正常性バイアスを生み出している原因だ。
予告状が出された。
平時では平和そのもののこの街でも、さすがに怪盗が現れると分かったら非常事態になる。基本的に夜は外に出ないようにしているが、野次馬は多い。店は閉めても屋台が出るというお祭りに様変わりする。
非常事態は非常事態でも、結構ポジティブな方向に振り切っている。
とはいえ、予告状は怪盗の現れる前日にくるので屋台の内容は期待しない方がいい。
年に数回、突然お祭りが開かれるという意味合いが市民の常識としてあった。
ゆえに正常性バイアスは街の中にも存在している。街の外とは違って一応の危機感は持ち合わせてはいるが。
「悪い、月館。博物館ってどこにあるのか知らないんだ」
「街の観光すらもしたことないのか?」
「残念ながら……」
怪盗イニクスが現れる当日のある休み時間。
海斗に話しかけられたかと思えばそう切り出された悠司は溜息を吐き出した。
正常性バイアスがどんな働きをしたのか、海斗はイニクスに興味を持ってこの街の高校へ進学した。
興味があるだけで進学先を決めたりはしない。よほどの好奇心に突き動かされたと考える方がいい。それは八年間ずっとイニクスを追いかけている悠司と気持ちの強さでは似ている。
「分かった」
もともと一人で行こうと思っていたのだから、街の案内がてら海斗に付き合うのもいいだろう。そう考えて悠司はうなずいた。
「一緒に行ってみよう」
「い、いいのか⁉」
「俺も行くのは初めてだけど、それでよければ」
「もちろん! ありがとう、月館!」
海斗は飛び跳ねそうなほど喜んだ。本当に飛び跳ねはしないが、人目をはばからなければ本当にしていただろうと想像できた。
怪盗イニクスが現れるのは今夜。一度家に戻ってから着替える時間は十分にある。
博物館までの道中も、ゆっくりと案内できるのではないだろうか。
「乙坂、時間までに街の案内もしておこうと思うんだけど……」
「それはありがたい! そうだな……予告状の時間が八時だったっけ? 家帰って着替えたら速攻で戻ってくるよ」
友達と待ち合わせるなんて、いつ振りなのかと考えてみたが、八歳の時に海外へ行った友達と毎日のように遊んでいた頃から久しいのではという結論になる。それ以降からももちろん遊びに誘われていくこともあったけれど、今日のように楽しみを覚えるほどとなると難しい。
世間体を気にした付き合いでしかなかった。
怪盗が現れる日の街は賑やかになる。それを知ってもらうのもいいかもしれない。
街を、怪盗を、知ってほしい。
悠司は無意識から浮足立っていた。
「……バッカみたい」
盛り上がる二人の会話を聞いていたクラスメイトの新名春華が小さく呟いたのを悠司は聞いた。
呆れたその声は恐らく、いつまでも子供じみていると言いたいのだろう。
高校生にもなって。そう言っているようにも聞こえた。
会話にははっきりと明言しなかったのに「怪盗イニクス」のことを話しているとすぐに気付かれてしまった。
――博物館のワードだけで知られてしまったのか。ちょっと盲点。
絶対に隠さなければ、という意志がなければ無理なのだろうと諦めて海斗と詳しい待ち合わせ場所と時間を話し合った。
部活に入っていない悠司は家に帰ると珍しい人物がリビングにいるのを見て足を止めた。
「糺世おじさん、いらっしゃい」
きっちりとスーツのネクタイを締めた男性はゆったりとソファに身を沈めているというのに、どこか緊張感を漂わせていた。だが悠司を見てわずかにその緊張が緩んだ。
「悠司、元気にやってるか?」
「そこそこ。あ、でも友達はできたかもしれない」
「ほう?」
父親とは違う距離感の糺世には悠司の口が軽くなりやすくなる。
細かいことを聞かず、話させやすい空気を作るのが上手いからだろう。
糺世の職業は警察官である。
それも警視でこの街の警察署の副署長をしている。
結婚はしていないので時間の空いた時などにこうして月館家に入り浸っている。
最近は忙しかったのか、中学二年生の正月振りに会った。
「しかし、悠司も高校生になったか。早いもんだな」
「おじさんは全然変わらないね」
糺世は悠司の父親の弟で、四歳差と聞いている。だが糺世の外見はここ十年でほとんど変わっていないように見える。
小さいころは「おじさん」というだけで結構な年齢なのだと思い込んでいたが、今では二十代半ばと言われても信じてしまう。
ここでようやく悠司は糺世が仕事モードを終えていないのだと思い至った。
仕事を終えた糺世はネクタイを取ってしまうのに、きっちりと締めたままだ。
「もしかして、イニクスを追ってる……?」
仕事モード継続中の現職警察官。しかも警視が身内のリビングではあるが、休憩所のように体を休めている。さらに今夜は怪盗が現れる。ここから博物館までなら、警察署よりも近い。
そういった理論を並べて導き出したのは、糺世が怪盗イニクス逮捕に関わっている可能性だった。
悠司の推論は当たっていたようで糺世が目を細めて微笑んだ。
「陣頭指揮は他の人間に任せたが、現場責任者はそうなるな」
足を組んで偉そうな態度を取って見せるところは昔から変わらないが、糺世は自身の功績を進んで話す方ではない。
だから偉そうな姿勢ではあっても、表情は憂鬱を物語っている。
「あー……どうしてこうも殺人事件が起きない街に赴任してしまったんだ!」
「……おじさん?」
糺世が警察官になった理由は殺人事件を担当したかったから。それに尽きる。まだ大学生だった頃の糺世は刑事になる、なってみせるが口癖だった。もともと勉強熱心な性格だったこともあって警察学校も上位の成績で卒業して刑事にもなれたが、念願の殺人事件はほとんど起こらないままトントン拍子に警視にまでなった。
優秀なのだが、邪な考えの持ち主であると言えた。




