少年の情緒1
高校の入学式を終えたその足で向かったのは、高校と隣接する大学の敷地の境にある教会だった。
月館悠司の進学した高校は隣接する大学の付属校というわけではなく、ただ立地が隣り合っているだけである。
そしてその間に教会があるだけである。
どこか遠くの地にあったものを移設してきたものだと教会の外の立て看板に書かれていた。
三メートル以上もありそうな扉を開けて中に入ると、中には誰もいなかった。
神父も、シスターも。
誰もいないと聞いたからこそ、やって来たのだ。
家や学校では一人になれない。
一人で考え事をするなら教会が一番いいと聞いた。例え他に誰かがいたとしても関われることがないからだと。
適当に座って隣に鞄を置く。
背もたれに体重を預けてぼんやりと前を見つめる。
目の前にあるのはスタンドグラスではなくて透明なガラス。それが壁の半分以上を占めていて外の景色がよく見えた。
入口側は高校に敷地で、その反対になるから見えるのは大学の敷地であるはずなのだが、実際に見えているのはバラ園だった。
教会の中から見える景色にはこだわっているらしい。
落ち着いたところで悠司は鞄の中から一冊のノートを取り出した。
八年前に買ってからまだ買い替えていない一冊目。
表紙には「怪盗イニクスについて」と書いてある。
このノートは、八年前にある屋敷の中で出会った怪盗イニクスという女性のニュース記事をまとめたスクラップブックだった。
すぐに一冊目が終わると思って毎日新聞やテレビのニュース。ネットニュースも余すことなく調べつくしたが、これまでに得られたものは百をまったく超えない。
多い時は一月に一度は現れたりもしたのだが、少ない時は一年間音沙汰がないこともあった。
怪盗イニクスは複数存在する。
そんな噂がネット上に上がると瞬く間に拡散され、それを見て「違う、あるわけがない」と憤慨したが、怪盗に関する記事はどれもしっかりと姿を映した写真が存在しない。
夜の闇に紛れるように現れては颯爽と宝石を盗んで風のように去って行く。
鮮やかな手腕に対する評価は二極化していて、誰も正体について言及しようとはしない。
したくてもできない。
行動が予測できないので警察も手をこまねいている状態。
ただ、狙っているのはいつも赤い宝石。手がかりと呼べるものはそれだけなのだが、それ以上のことは何も分からない。
彼女はどうして怪盗になったのか。なぜ怪盗なのか。赤い宝石ばかりを狙う理由は。
何より、あの身体能力。
悠司はその身をもって体験している。
二階から子供一人を抱えていてもなお、バランスを崩さず軽く着地を決めた。重力なんてものともしない身のこなし。
怪盗イニクスとは、何者なのか。
――もっと力を付けたら、また会えるかもね。
また会えるかどうかを尋ねると、こう答えてくれた。
怪盗に近づくための力とは何なのか、八年間考え続けた。考え続けて、答えを見つけた。
悠司はノートの最初の方を開く。
表紙を開いて三ページ目に描いた怪盗イニクスの絵。
長い髪と毛先をまとめるのも忘れない。前髪を留めている白い留め具、朧気に記憶した黒を基調とした服とショートブーツ。
記憶が薄れてしまわないうちに描いた怪盗の絵は、悠司の記憶を鮮明なまま保持するのに役立っている。
子供の頃の絵ではあっても、見れば当時のことをいつでも思い出せた。
もう一度会うためには予告状がなければならない。
怪盗イニクスは必ず前日に予告状を出す。予告した通りに現れ、警察の頑張りも虚しく盗んで去る。だが、煙のように聞けるわけではないので、会おうとすればできるはずなのだ。
逃走経路の癖を見つけられたなら、悠司が怪盗と再会するのも夢ではなくなる。
その日も次の日も、怪盗の予告状はなかった。
八年も待っていたのだから今更焦ることもない。
「月館」
入学して二週間が立とうとしている火曜日。教室に入ると声をかけられた。
悠司よりも背が高く、襟足が伸びている顔立ちが整った男子学生。
同じクラスであることくらいしか知らない相手。
名前は一度くらい聞いたことはあるかもしれないが思い出せない。黙ったままでいると、声をかけてきたクラスメイトは自ら名乗ってくれた。
「乙坂海斗。席は窓際の一番後ろ」
「……ごめん、まだ名前覚えられてなくて」
「俺も。まだ半分も覚えてない」
悠司は半分どころか片手で数え切れるほどしか知らない。それも覚えたというよりは中学校が同じだったから覚えているだけで、新たに覚えたわけではなかった。
「家が遠くてさ、知ってる奴がいなくて。んで、月館も見たところ一人だったから声をかけてみたんだけど」
「それは……どうも」
暗に友達がいないと言われているようであまり気分はよくない。とは言うものの、一番仲の良かった友人は現在海外にいる。怪盗に出会ってからの悠司はあまり他の友達と仲良くしようとはしていなかった。
そんな悠司に海斗は距離を詰めてくる。
「あのさ、高校入ったら聞いてみたかったんだけどさ」
「何?」
そわそわと周囲の様子を窺いながら、海斗は耐え切れず笑みを溢れさせる。
「イニクスって怪盗がこの街で有名ってマジ?」
「……え?」
思いがけず登場した名前に体が硬直する。
確かに有名ではある。熱烈なファンもいるくらいだし、知らない人を探す方が難しいだろう。
しかし、進んで会話に出てくるものではない。
どんなに有名でも犯罪者であることに変わりはない。
義賊のような活躍をしているわけでもないので応援するのもおかしく、また、怪盗の肩を持つような発言をすると家族に叱られる子供も多い。
「噂だけは聞いてたんだけど、俺の住んでるとこってあんまし怪盗の情報が入ってこないみたいでさ」
好奇心旺盛な少年の目をして、海斗が詰め寄る。
「知ってたら教えてほしいんだ!」
整った顔が迫る。教室の中はおろか、廊下にいる生徒たちまで何事かと悠司たちに目を向けていた。