怪盗と邂逅2
「……っ」
背中から伝わる感触から誰かに手を引かれてこの場に入ったことを思い出した。
一体誰が、と身をよじろうとすると体全体を強く抱きしめられて身動きが取れなかった。
動くな、喋るな。できるだけ息を殺せ。
そう言われていると瞬時に理解して、屋敷に入って来た時のように息を殺した。
女性が何かを持って再び部屋を出て行く。
部屋の中に静寂が広がった。
「もう、出ても大丈夫だね」
小さな扉が開かれ、部屋の中に戻った。
少年が先に這い出て振り返る。
入っていたのはクローゼットで間違いなかった。
そしてそこからもう一人現れる。
長い髪を毛先の方で一つにまとめた、若い女性だった。
夏の風のような香りはクローゼットからではなく、この若い女性から漂っていた。
「君、ここの家の子供じゃないよね?」
「あ……僕は、あれを取り返しに」
咄嗟に正直に答えてしまってから慌てて口を噤む。
一緒に隠れていたからつい同じ侵入者だと思ってしまったが、何者なのか分からない相手に自分の情報を与えてしまった。
「あれって……これかな?」
よっ、と小さくジャンプしたかと思えば、飾り棚の一番上にある目的の星型キーホルダーを手に着地した。
鮮やかな動きに目が奪われた。
そっと右手にキーホルダーを置かれるその動作まで、目で追ってしまう。
「子供から大事なものを奪うなんて酷い人たちだ」
「あの……」
お礼を言うべきなのか、それとも女性が何者なのか問うべきなのかを逡巡していると、女性は唇に人差し指を当てて何も言うなとほほ笑んだ。
「君の目的はこれで終わり?」
短い質問に一つ頷くと、「私も」と抱え上げられた。
え、と反応するよりも早く窓を開けて枠に足をかけているのが見えた。
「脱出するよ。頑張って声を出さないようにして」
言われるままに口を閉ざす。片手で支えられているのが不安で、両手で女性の首に腕を回すと満足そうにまた微笑んだ。
案の定二階から飛び降りて屋敷からの脱出を果たした。そのまま下ろされるのかと思えば、さらに敷地の外まで出してくれた。
ようやく解放されて、地面に足が着く。同時に緊張感も溢れてぺたんと足から力が抜けた。
「大切なものを取り戻すために行動するなんて、君は勇敢だね。偶然私がいたから見つからずに済んだけれど、今夜のような無謀な行動はしない方がいいよ」
頭を優しく撫でられて、少年は月明かりに照らされている女性を見上げる。
美しい顔をしたその人に、どうしても少年は目を奪われた。
「あなたも泥棒なんですか……?」
意図せず零れた言葉に女性は困ったように項垂れる。
「ああ、うん。そう思うよね。でも、泥棒なんて言い方はしないで?」
撫でていた手が離れて、女性の全身が月明かりに晒される。
肩にかかっていた長い髪を手で払い、前髪を留めている大きな白い留め具がきらりと煌めいた。
「怪盗。私は、怪盗だよ」
「か、い……とう」
「うん。まあでも、さっきの君は泥棒のそれだったかな」
朗らかにそう言われ、まさしく自分でも泥棒をしていると感じていた。
怪盗。
初めて耳にしたその言葉は、とてもしっくりくるものだった。
「また、会えますか?」
次に出た言葉は意図して出したものだ。
怪盗は軽快に数歩下がった。
「もっと力を付けたら、また会えるかもね」
これでお別れだとまた怪盗が一歩下がる。
少年は抗うように声を張った。
「僕は月館悠司! あなたは⁉」
名前を名乗れば返してくれる。その自信がどこからかきて自ら名乗った。
しかし、怪盗は笑うだけ。
「朝になってニュースを見てごらん。そうすれば、私の名前が分かると思うよ」
怪盗は名乗らずに姿を消した。
「ありがとう! どうやって返してもらったんだ?」
友達との最後の別れの時間。
星型のキーホルダーを手渡すと今までに見たことのない笑顔で喜んでもらえた。
笑って誤魔化して、友達の手の中のキーホルダーを見つめる。
友達との最後の時間だというのに、少年――月館悠司の頭の中は怪盗でいっぱいだった。
「うん……色々あってさ」
友達との別れの時間にも関わらず、気になるのはあの女怪盗のことだった。
心ここにあらずな悠司を前に友達は顔を覗き込んで興味深そうに観察している。
「へえ? じゃあ、いつか日本に戻ってきた時に教えてよ」
「え……帰ってくるのか?」
「いつかな。大きくなったら一人で戻ってこられると思うし」
友達の言葉は、大人になってのことなのだろう。長い年月を越えてまた会えた時、この日の会話の続きをしようという約束でもあった。
約束があれば、別れは寂しいものではなくなった。
「分かった。また会えた時に話すよ」
「とか言っても、連絡なんて取ろうと思えばなんだって取れるけどな!」
「そういうこと言うなよ!」
ネットを自由に扱える環境が整ってさえいれば、別れて数分後にはやり取りが叶う。実際には飛行機が飛んでしばらくしないと無理なのだろうが、そこはそれ。
こういう会話があると言うことは、お互いに自由なネット環境がないという証拠でもある。
八歳であれば無理もない。
そういう親の教育方針に抗えるほどの反抗心は持っていない。
まだ思春期は遠い未来なのだ。
「それじゃ」
「ああ、またな」
手を振り合って、搭乗口に向かう友達家族を見送る。
友達は三度振り返った。
その度に手を大きく振った。
見えなくなるまで。
最後まで見送るのをとめなかった両親に声をかけられ、悠司もその場を離れる。
空港のカフェに入って休憩していると、近くに座った他の客の話し声が聞こえた。
「なぁ、ネットニュース見た?」
「なんかあったっけ?」
「怪盗だよ怪盗。地方の小さいニュースだけど」
「地方のニュースまでチェックしねえよ。っていうか怪盗? いつの時代だよ」
二人組の若い男たちの会話は笑い声が絶えない。
怪盗を馬鹿にしたものだ。
怪盗という存在を、アニメを始めとした創作物の中の存在だと決めつけている。
「流行ったよなー、昔。母親が漫画持ってた」
「結構前に配信されてるアニメ観た。って、それより、怪盗の名前は?」
「えーと、なんだったかな。……お、これだ」
悠司はしかと耳に入れた。
昨夜助けてくれた女怪盗の名前を。
怪盗イニクス。
それがあの人の名前かと、忘れないように何度も心の中で繰り返した。