1:異世界転移した公爵令嬢
推しが婚約を発表した。つらすぎる。
「なんなのよおぉぉぉお!!!!! 嘘でしょおぉぉぉお!?!?!?」
アパートの一室で、若い女性――エリコが発狂していた。エリコはSNSの婚約発表の画面を見るや否や、反射的にスマホを壁に叩きつけた。スマホの画面にひびが入ったが、それどころではないようだった。
「おかしいわ! ありえないわ! そりゃ啓太君は人気者だけど早すぎるわ! まだ22歳よ!? 私と同い年なのに!」
アイドルグループの中で特に推していた男性の突然の発表。それはエリコにとって死刑宣告に等しかった。世知辛い世の中でOLとして何とか生きているエリコにとって、アイドルは救済だった。
だが、その救済が突如として失われてしまった。エリコは人生という大海原で羅針盤を失ってしまったのだ。
「しかも婚約者が一般女性って何!? 私だって一般女性なのに!!」
エリコはごくありふれた日本人女性だ。外見だって悪くないし、社会生活を送れるレベルの人格は持っている。
「ウウッ……私が一般的すぎるから駄目なんだ……こんな思いをするなら公爵令嬢か王女に生まれたかった……」
エリコは号泣しながら、絞り出すように呟いた。そりゃあエリコだってアイドルと結婚出来るとは思っていない。だが、相手がフリーなら微粒子レベルとはいえ可能性はある。その希望が今断たれたのだ。
一体何が足りなかったのか。全体的に色々足りてないが、特に足りないのは社会的ステータス……つまり権力と金だった。
「私が公爵令嬢とか、なんかこう偉い人だったらイケメンを侍らせ放題なのに……」
だが、いくらそう呟いた所で現実が変わるわけがない。実は財閥の娘の血を引いていて、ある日突然金持ちのイケメンが迎えに来るとか、そういう展開には絶対にならない。
その時、壁に叩きつけられて転がっていたスマホの通知音が鳴った。エリコの理不尽な暴虐を受けてなお、健気にもスマホはその職務を全うしていた。
エリコはのろのろと這いつくばりながら手を伸ばし、スマホの画面を見る。
『あんたのお気に入りが婚約したそうね。心中察するわ』
「あ、公爵令嬢Xからだ」
スマホの画面に表示されていたメッセージは、エリコが見知った人物からの物だった。公爵令嬢Xとは、SNSの友達のアカウント名だった。ファンクラブのアカウントをフォローしていたら、ある日相互になり、それ以来SNS上ではあるがこうしてメッセージを送り合うくらいの仲になっていた。
『公爵令嬢X。私を理解してくれるのはあなただけよ。私は別に大層な生活を望んでいるわけじゃないの。ただ、月100万円くらいお小遣いをくれて、私が送ったメールには1分以内に返してくれるけど、私が昼寝して返信忘れても気にしないで、帰ってきたら温めてない冷たいご飯を出しても笑顔で食べてくれるような、そんなちょっと優しい彼クンが欲しいだけなのに……』
『そうね』
エリコの長文メッセージを見た公爵令嬢Xは、おそらく『エリコ、そういうとこやぞ』と突っ込みたかっただろう。だが、賢明な公爵令嬢は一単語でスルーした。
『私は私が憎い……私がもっとセレブならこんな思いをしないで済んだのに』
『なら、なってみる?』
『え?』
SNS上のメッセージをやりとりしていると、不意に公爵令嬢Xが不思議な事を言い出した。
『実はね、私、日本人じゃないのよ。とある貴族の令嬢なの。あなたと同じように私も今の自分に満足してなくて。どう? 立場を交換してみないかしら?』
『立場交換って……ゲームとかで気に入らない王族の婚約者の代理になるああいう奴!?』
『ゲームうんぬんはよく知らないけど、私たちの立場を入れ替えるという点ではそうね』
『おおお! いいわ! その提案が本当なら乗るわ!』
実際にそんな事は無いと薄々理解はしているが、それでも面白そうな提案ではあった。特に今日のエリコは色々な面でメンタルが限界に来ており、正常な判断が出来ない状態だった。
『同意する、という事でいいかしら?』
『するする! いつ、どうやって交換するの!?』
『じゃあ、まずは真名を教えてくれるかしら?』
『マナ?』
『あなたの本当の名前の事よ。私の名前だって公爵令嬢Xじゃないのよ』
『あー、リアル情報ってことね』
いくらやりとりが長いとはいえ、リアルの情報をネットに晒していいものか。エリコは少しだけためらったが、やがて本名を伝えることにした。
『エリコ……いい名前ね。私に似ているわ』
『そっちの名前も聞いていい?』
『もちろんよ。交換にはお互いの真名が必要だもの。私の名はエリアーデ。公爵令嬢よ』
そうしてお互いの名前の交換が終わると、突如スマホの画面で表示しきれないくらいの長いURLのようなリンクが表示された。
『それに手を触れれば契約完了よ』
「長っ! これ、ウイルスとかじゃないわよね?」
エリコは思わず叫ぶ。あからさまにインチキくさいURLっぽいが、向こうの細かい情報が載っているかもしれない。変な情報商材サイトに飛ばされたとしても、名前以外の情報はリークしていないのだからすぐにページを閉じれば大丈夫だろう。
そうして、エリコはひび割れたスマホの画面をタッチする。その直後、画面から目も眩むほどの光が溢れだし、一瞬でエリコの身体を包み込んだ。
「うわっ!? な、なんなのこれ!?」
エリコが叫び終わる前に、光は完全にエリコを呑みこみ、エリコと共に姿をかき消した。床に転がったスマホには、もう何も表示されていなかった。
◆ ◆ ◆
「う……うぅ……」
「目が覚めた? エリコ、いや、公爵令嬢エリアーデ様」
冷たい感覚と共に目覚めたエリコは、頭を振りながらゆっくりと身を起こす。先ほどまでいた自室ではなく、どこかの屋外……ぱっと見では森の中のように見えた。
蛍光灯のような光を放つが、炎には見えない不思議なカンテラを持った人物が、笑いながらエリコを見下ろしていた。そして、その顔には見覚えがあった。
「え!? わ、私!?」
「いやぁねぇ。あなたはもうエリコじゃないわ。エリアーデよ」
「……え? え?? えっ!?」
そう言われてエリコは自分の身体を確認する。薄紫色のドレスのような物を羽織っているが、エリコはこんなお姫様みたいな服は持っていない。前髪を引っ張って目に見える所に持ってくると、真っ黒な自分の髪とはまるで違う、プラチナブロンドの美しい金髪が見えた。
「なんなの!? この状況!?」
「なんなのって、あなたと私で立場を交換するって言ったじゃない。契約は無事成功したみたいね」
そう言って、エリコはくすくすと笑う。自分の顔なのに、中身が違うとまるで別人のように感じる。それに、エリコは黒いローブを羽織っていて、まるで魔女のような出で立ちになっていた。よく見ると、周りの森の暗闇に溶け込むように、複数の人間がエリコの後ろに付き従っていた。
「ちょ、ちょっと詳しく説明……痛っ!」
エリコ……いや、エリアーデが立ち上がろうとすると、不意に足に猛烈な痛みを感じた。足だけではない。どうやら全身に傷を負っているようだった。
「せっかくだから痛めつけておいてあげたわよ。ああ、私の方は至って健康体よ。器としてはいい身体ね」
「うつわ?」
へたり込んだエリアーデがそう尋ねると、エリコは底意地の悪い笑みを浮かべ、口元を歪める。
「本当に異世界人って馬鹿ね。あんな間抜けな罠にホイホイ掛かるなんて。魔法防御って概念が無いのかしら」
「あうっ!?」
エリコは小馬鹿にするようにそう言いながら、エリアーデを蹴り飛ばした。
「私はね、ちょっとしたお貴族様のお嫁さんで終わるなんてごめんなの。魔力を極め、この世界を手中に収めるの。あなたみたいな小市民とは違って、権力志向が強い女なの」
エリコはボールでも蹴るみたいに入れ替わった身体を蹴り飛ばし、地面に突っ伏したエリアーデの頭を踏みつける。
「でもね、魔力の実験って身体に負担が掛かるのよ。エリアーデの身体は大分ガタが来てるから、器を変えたいとこだったの。でも、魔力をすんなり移すには、空の器を探さないとならない。この世界の人間はほとんど魔力持ちだから、そういうのが無くってね」
エリコは欲しいものが全て手に入ってご満悦なのか、エリアーデを踏みつけながら、歌うように解説を続ける。
「だから異界で器を探していたの。干渉は大変だったけど、こうして素晴らしい器を得る事が出来たわ。ありがとうねエリコ……いや、エリアーデ様。あなたはもういらないわ。一瞬だったけど、貴族になれてよかったわね」
猫がネズミをいたぶるように、エリコはエリアーデの頭をぐりぐりと踏みにじる。魔力も魂も全て移し換えて健康な肉体を手に入れた以上、絞りカスに等しいエリアーデはもういらない。
「い……」
「い? 痛い? 悔しい? アハハ! でももう遅いわよ!」
「イケメンは……金持ちのイケメンはどこだぁぁぁぁぁぁ!?」
「ヒィッ!?」
突如として顔をあげたエリアーデの気迫に、エリコは一瞬たじろいだ。エリアーデは顔面を泥で汚しながら、両腕でエリコの足を掴む。
「こ、こら! 離しなさい! 死にぞこない!」
「公爵令嬢なら近くにイケメンがいるでしょ! それを……出せぇえぇぇぇぇええええ!!」
「離しなさい! 離れろっ! な、なんて力なの!?」
エリコは足にしがみつくエリアーデを必死に振り払おうとするが、まるで噛みついたスッポンみたいに離れない。自分の身体からこんな力が出るなんて、元エリアーデすら知らなかった。
「このっ……! いい加減に……死ねっ!」
エリコの焦げ茶色の瞳が紅く輝き、魔力を発動させる。魔力の塊をぶつける原始的な攻撃だが、その衝撃でエリアーデは数メートルぶっ飛び、巨木に叩きつけられた。
「ハァ……ハァ……まったく、なんてしぶとさなの」
「う……ウゥッ……」
「まだ生きてるの!?」
かなりの魔力を叩きこんだはずなのに、エリアーデはのろのろと立ち上がった。その動きは、どことなくゾンビっぽく見えた。
「か、金持ち……イケメン……ホワイトハウス……」
エリアーデは全身を打撲し、足を引きずりながらエリコの方に再び近寄る。その姿を見て、エリコは一歩後ずさる。
「お、お前たち! あの化け物をさっさと処分しなさい!」
エリコはもうあんまり相手にしたくないのか、後ろで黙って待機していた黒ずくめのローブの男達に命令を下す。
「で、ですが、あれは元とはいえエリアーデ様の体では」
「構わないわ! 滅多打ちにして崖の下に投げ捨てなさい!」
「はっ!」
エリコの命令に従い、エリアーデは男達によってそこらに落ちていた木の棒で叩かれた。エリアーデは凄まじい勢いで抵抗したが、散々痛めつけられてようやく大人しくさせる事に成功した。まるで野獣だ。
「私の身体でよくもそんな力が出せるものね。私はどちらかというと病弱な方だったのだけど」
エリコは呆れたようにそう呟き、ぐったりとマグロ状態になったエリアーデを見下ろした。
「お……おぉ……か、金持ち……」
「まだ生きてるの!?」
エリコはまるで気持ち悪い害虫でも見るような目でエリアーデを見た。半死半生とはいえ、ここまで痛めつけられて息があるのは恐ろしい。
「放っておいても死ぬでしょうけど、あっちの崖下に捨ててきなさい」
エリコは無慈悲にそう命令すると、男達にエリアーデの身体を抱えさせ、まるで粗大ゴミでも捨てるように崖の下に放り投げた。崖は数十メートルはあり、健康体の人間でも落ちたら即死だろう。
「さようならエリアーデ公爵令嬢様。来世ではいい身分に生まれるといいわね」
「死体の確認をしておきますか?」
「必要無いわ。万が一生きていたとしても、この辺りは魔獣の住処だから、鉢合わせると厄介だし。エサになってくれるでしょう」
じゃあ行くわよ、とエリコが言うと、黒ローブの男達もそれに従い、彼らは闇の中に消えていった。エリコとエリアーデがいた場所は、再び夜の森の静寂に支配された。
一方、崖下にほうり捨てられたエリアーデ令嬢は。
「う……うぅ……ゆ゛る゛ざん……」
どっこい生きてた崖の下。