ダブル単語帳作戦
朝8時。一年三組のホームルーム教室の扉を開くと、目線の先に女子高生が一人座っている。窓際で1番後ろの席だ。陽当たりは良いし黒板から最も遠い、大当たりの位置である。
その隣が俺の席だ。そこまで歩いて行くと、机を見つめていたその女子が俺に気付いて、こっちを見てくる。
「うぇい。おはようかみやん!」
「おう、おはよう……」
彼女の名前は石坂凛。口癖は「うぇい」で、その時の感情によって様々な「うぇい」が存在する。今のは特に意味のない、挨拶うぇいだ。
そして俺の名前は上岡康介。たった今覇気の無い挨拶をしてしまったが、別に根暗なわけではないと、少なくとも自分は思っている。
困惑するのだ。困惑してこんなぼそっとしたおはようを返してしまった。なぜなら、毎朝石坂は俺を違う愛称で呼んでくるからだ。今日は「かみやん」。昨日は「こすけ」だった。
「なあ、なんで毎朝ニックネーム変わるんだ……?」
「えー?毎朝のお楽しみあったら学校行こうって思えるでしょ?」
「お楽しみ……そんな理由で人の名前で遊んでるのか。まあいいけど」
そう言うと、なぜだか石坂が見つめてくる。そして数秒後彼女の口から出てきた言葉は……。
「まあいいけど」
「いや真似すんな!」
「あはは、ごめんよー!」
俺は鞄を椅子にかけて、ようやく着席する。最後尾から教室を見回すと、俺と石坂を含めてわずか4人しかいないことがわかる。この8時半までに教室にいれば良いのだから、三十分前に来ている人は多くない。そして早めに登校している人物の目的はだいたい勉強だ。石坂以外の2人はペンを持ってなにかしらの教材と向き合っている。俺もそうしようと考えて、高校生活が始まってからの3週間、早めの登校を心がけている。だが、まともに勉強できた日は少ない。
「コースケ昨日何時に寝たー?」とか、
「コースケ朝ごはんはパン派?米派?」とか、
「犬飼いたいなー!カブトムシでもいいけど!」とか、隣がうるさい!よくこの空気で話しかけてこられるな!石坂の友達が教室に来るのおおよそは8時20分!それまでの20分間、石坂は俺にめちゃくちゃ話しかけてくる。隣の席だから「話しかけるな」と言いにくい。その後気まずくなるのは嫌だからな。登校時間を変更したらしたで、彼女に「避けられている」と思われそうで怖い。同じクラスで一年間やっていく仲間だ。仲が悪くなるようなことはあってはならない。
今日はどんな話題をふっかけてくるだろう。
・・・
・・・
・・・
来ない!なぜ!たまたま!俺はちらりと彼女に目をやる。
「は?」
まずい、つい声が。
「んー?コースケどうしたの?鉛筆忘れた?貸そうか?シャーペンしかないけど良い?」
「忘れてないわ!しかも鉛筆派じゃないわ!」
「じゃあなによ〜」
「石坂、お前何やってんだ?」
俺は石坂の机の上を指さす。その先には、英単語帳……と古文単語帳が縦に並んで開かれていた。
「これ?うっしっしっ、いい作戦でしょこれ!今日って英語と古文どっちも小テストあるじゃん?しかし朝の時間は有限なのだ。そこでっ!二つ同時に勉強するの!」
「はあ……」
「感動した?感動した?」
「しないよ。学校くるまでの電車の中とか、もっと早く……数日前から勉強しとけばそうはならんだろ」
「それはコースケみたいな真面目な人だからできるんだよお!くぅ〜、時間割が曲者だよ、一限が英語で二限が古典だからね。間が5分しかない!これに対抗するには同時勉強しかないっしょ!」
「そうかよ」
俺は鞄から英単語帳を取り出す。俺はこっちだ。古文の方は登校時、30分ある電車内で覚えた。英語も3日前からコツコツやってるが、最終確認だ。
「お、コースケはそっち?私と同じだね!」
「どっちでも同じじゃあねえか。おもしろ」
「ホント?嬉しい〜」
皮肉を知らないのか?どんな言葉もプラスに変える能力者か?本当に面白い奴だと思う。これは皮肉ではない。
「うぇーい!」
そんなことを考えていると、石坂が右の掌を見せてきた。ハイタッチか。なぜいま。
「ん」
俺と石坂の手がパチンと、控えめだが愉快な音を鳴らす。
「んふふ」
石坂は楽しそうな顔をしながら視線を落とした。ダブル単語帳作戦を再開するみたいだ。やれやれ。
会話に一区切りついたので改めて教室を見ると、ぽつぽつとクラスメートが集まりだしていた。
それからの流れは先ほど述べた通り。石坂の友達が来たら、そいつの所へ行って、朝のホームルームギリギリになると石坂は戻ってきて。まあほとんどの生徒はそれと同じような動き方をしているけれど。ふむ、俺は石坂の暇つぶしに使われているのだろう。あいつ、友達と同じくらいの時間に来ればいいのに……。
そして8時50分。授業開始。
英語の教師が入ってくる。
「あいまずテストからでーすあい単語帳しまってー」
先生が小テストを配り出す
「コースケ」
「なに」
「あいまずテストでーす」
「ぷっ、おま、笑わせるな」
「あれいつも言うよねえ」
そうこうしているうちにプリントが手元にまわってくる。
「あい時間は5分間ねーあいはじめっ」
5分後。
「あい隣と交換して答え合わせー」
模範解答の書かれたプリントを配りながら先生がそう言う。
俺は石坂のを預かって採点を開始する。
んー。10点満点中、5点。追試じゃん。
「はいコースケ!」
「ん。はいよ」
俺は石坂から自分の用紙を返してもらって、逆に石坂に石坂のものを返す。
「うわ!5点!半分じゃん!2つやったら英語は半分!1つに集中したら満点いけるわこれ!」
「え?」
ちなみに俺は……7点。俺基準で、イマイチ。
「コースケはラッキーセブンじゃん!古文で良い点数とれるかもよぉ〜?」
「あ?占いじゃあるまいし、関係ないわ」
「んー……来週はあと3点も多く点取れるかも!やったね!」
「あ……」
なんだろう。石坂と話していると、悪いことなんてそうそう無いような気がしてくる。不思議な奴だ。
「口角あがってるよ?」
「え、マジ!?」
恥ずかし……
「ナイススマイル」
「ほっとけ!!」