第二話 出発
今日は三話まで投稿します。
その停滞が破られる音がした。扉を蹴破る音。
飛び込んできたのは長身の男。息を切らし、紫色の短髪が汗で濡れている。男の名はイクス。彼は人形から逃げてこの村にたどり着き、偶然この家に入った。
「まだいるのかよ、クソッ!」
ラッグを認識したイクスはそう吐き捨て、剣を引き抜き、切りかかった。
「うわあ!?」
「お兄ちゃん!」
首を狙った一撃は間一髪で躱された。追撃を加えようと構えるイクスだが、違和感に気付く。
(こいつ……今、攻撃を避けた?)
多少の損傷では人形は止まらない。それを知ってか知らずか、人形は躊躇なく捨て身の攻撃を仕掛けてくる。それが、イクスが目の当たりにした事実だった。人形は防御をしないし回避もしない。だからこそ簡単に首を落とすことができたのだ。
(それに、反撃もしてこねえな)
ラッグは恐怖を噛み殺し、リーズを庇うように立つ。
(……なるほど)
その行動と、地面に転がされたリーズを見て、イクスはおおよそ事態を察した。
「いきなり切りかかったのは謝る。悪かった。俺はイクス。敵から逃げて、ここに来た」
「……俺はラッグ。こっちは妹のリーズだ。敵っていうのは、魔物か?」
「いや、大勢の人間に襲われた。逃げるだけで精一杯だったぜ」
薄々わかっていたが、改めて言葉にされると心が苦しい。敵。優しかった村人たちはもう、抗うべき脅威になってしまった。
「それは……多分、この村の人たちだ」
「へえ……」
ラッグは自分が見たものを話した。妹のことは言わなかった。隠せるとも思っていないが、黙っていた。話せばきっと、この男はリーズを殺す。
「今朝、突然に……か」
「ああ。前触れなんて、なかった。本当に、突然のことで……」
「ま、それはいい。問題はお前だ」
「俺?」
「そうだ。なぜ、お前は操られてないんだ?」
「そ、それは……」
「俺からすれば犯人はお前以外にあり得ない。今のところ、だけどな」
それは、ラッグもずっと考えていた。どうして妹が、村の人が操られているのに、自分だけが無事なのか。
反論したのはリーズだ。
「違う! お兄ちゃんは犯人じゃない! だって──」
「リーズ、駄目だ!」
「だって私は、お兄ちゃんを殺そうとした!」
「リーズ……!」
「……なるほど。自分が操る人形に自分を襲わせるはずがない、か。あえてそうすることで疑いを晴らすってのもなくはないが、そうだとするとこいつは相当な策士だな」
「だから、お兄ちゃんじゃない!」
「ああ、わかったよ。よくわかった。お前が犯人じゃないことも、その女が操られてることも」
「!」
「警戒するなよ。その女が縛られている限り、何もしない。だから、隠し事はするな」
ラッグは観念せざるを得ず、リーズが話した内容を全て伝えた。リーズの現状も、包み隠さず。
何もしないという言葉は嘘ではないのだろう。イクスは剣に手をかける素振りさえ見せない。だが、その目はどこまでも冷たく、哀れな被害者に向ける視線だとは到底思えない。ラッグは、イクスとリーズを絶対に二人きりにさせないことを誓った。
「で、答えをまだ聞いてなかったな。なぜ、お前は操られていない?」
「……確証はない、けど」
「けど?」
「心当たりなら、ある」
ラッグは襟に手をかけ、一息に上着を脱いだ。イクスは目を見開いた。程よく筋肉のついた体の、胸の中央に、模様が描かれていたからだ。
「刺青か? お前、見かけによらず遊んでるんだな」
「これは生まれつきなんだ」
「妹にもあるのか?」
「いや、ない……と思う。少なくとも昔はなかった」
「そうなのか?」
リーズが頷き、今もないと付け加える。彼女にとってラッグの胸の模様は見慣れたものだ。最も古い記憶にもそれはあった。兄にあって自分にないことを不思議に思わなかったわけではないが、気にかける意味もなかった。模様はただの模様であったし、自分たちが家族であることも変わらない。
「魔法陣……じゃないな」
観察を終えたイクスはそう結論付けた。黒い線で描かれた不可思議な模様。それは四個の三角形を合わせた大きな三角形と、小さな円で成っている。魔法陣にあるはずの魔法言語はなかった。
「俺が無事だったことに特別な意味があるなら、これだと思うんだ」
「だろうな」
「何か知ってるのか?」
「知るか。もういいから服を着ろ」
イクスはぶっきらぼうに言い、椅子に腰かける。
「で、これからどうする?」
「これから……って?」
「お前まさかこのまま一生過ごす気か? 自分を殺そうとした女と一緒に?」
正気じゃないなとイクスが言う。ラッグは体を貫かれたような思いだった。イクスの言う通りだ。このままだと誰も幸せにならない。妹のため、村人のため、無事だった自分が何かしなければならないのだ。
イクスという乱入者により、ラッグはようやく正常な思考を取り戻した。その思考を巡らせる。これから何をするべきか。最優先の目標は何か。
「……操られている人を、元に戻す」
「そうだな。そのためには原因を突き止める必要がある」
「黒幕の正体も、だ……!」
「わかったならいい。行くぞ」
「行くって……そうか、東の町!」
ラッグは妹の言葉を思い出した。
「ああ。操られた村人はそこに向かってる。到着したら大暴れするだろうな」
「そうなったら、町が危ない! それに村のみんなも山賊扱いされて……殺されるかもしれない」
「ああ、それは諦めろ」
「……は?」
「事情を説明して村人を助けてもらおうにも、先に町に着く必要がある。が、今からだと無理だ。絶対に間に合わない」
淡々と語るイクス。彼はどこまでも冷静だった。躊躇もなく、葛藤もない。その態度がラッグの神経を逆撫でした。
「それならっ……それなら、なんのために行くんだよ!」
「村人の鎮圧を手伝う。それが終わったら原因と犯人を探す。何か知ってる奴が町にいるかもしれない。学者とかな」
「見捨てるのか、村のみんなを!」
「違う。最初から、助けられないんだ」
「ぐっ……」
本当に、本当にそうなのか。諦めたくない一心でラッグは必死に考える。より早く町に行く方法を。
「そうだ、馬……」
「馬?」
「村長の家には馬がいるんだ! 二頭いる! 馬に乗れば、きっと間に合う!」
「なるほど、馬か。そりゃあいい」
「案内する。こっちだ!」
ラッグは一目散に駆け出した。暗い現状に光明が差した気がしたのだ。馬に乗れば間に合う。間に合えば村人は助かる。逸る心を現すような足取りで走った。イクスの言う通り、時間は限られている。早く出発しなければ。
「え……?」
そんなラッグを馬小屋で待ち受けていたのは、すでに死体と成り果てた二頭の馬だった。
「あ、あ……。どうして……!」
「……そういえば、お前の妹が言ってたんだったな。『進路上にいる生き物は、仲間以外皆殺しにしろ』って。馬は村人に殺されたんだ。……クソ、ぬか喜びしたぜ。考えればわかることだってのに」
ラッグが膝から崩れ落ちた。あれほど泣いたというのに、また涙が溢れてくる。見出したわずかな希望さえも打ち砕かれてしまった。それは立ち直りかけた心を殺すに余りある衝撃で、イクスがいなければラッグはまた、しばらくその場にうずくまっていただろう。
「時間が惜しい。もう行くぞ」
「……」
「行くぞ! てめえは来ねえのか!?」
「……いや、行く。行くよ。一人でも多く、助ける」
「よし。じゃあ早速……っと。その前に、お前は家で飯の準備をしてこい」
「え? そ、そんな時間、あるのか?」
「仕方ねえだろ。お前、妹を飢え死にさせる気か?」
「飢え、死に……?」
「忘れてたのか? 薄情だな。いつ戻れるかもわからない上に縛ったまま置いていくんだから、床に飯を転がしておかないと──まさか、連れてくるつもりでいたんじゃねえだろうな?」
図星だった。当然リーズも来るものだとばかり考えていた。仕方のないことだ。彼ら兄妹は今まで、ずっと一緒にいたのだから。
だが、今はそうもいかない。連れていけば道中襲われる危険があり、無事町に着いても受け入れられるとは限らない。連れていく理由など、どこにもなかった。
「置いたらすぐに来い。俺は村の入り口にいる」
「わかった。……ありがとう」
本心からの言葉だった。イクスにはリーズを気にかける理由がない。それでも彼は時間をくれた。リーズのため、そしてラッグのための時間だ。イクスは、あのまま家に戻らずに出発しても構わなかったのに。
扉を開ければいつも通りの光景が待っていることを、期待した。
帰るとリーズが駆け寄ってきて、ラッグはその頭を撫でる。買ってきた物を見て喜ぶリーズ。兄妹二人で料理をしたら、近所の人からもらった机で一緒に食べる。夜はリーズを寝かしつけて、安らかな寝息を聞きながら道具の手入れをする。ラッグの、幸せな夢。かつての日常。
けれど、彼を待っていたのは悪夢にも劣る現実だった。ぐちゃぐちゃに荒れた室内で、リーズが拘束から逃れようともがいている。抜け出せば東の町へ向かうだろう。道中の生物を見境なく襲いながら。
ラッグの硬直は一瞬だった。今は時間が惜しい。
パン。干した肉や魚。塩漬けした野菜。床に敷いた布の上にありったけの食料を置き、皿には水を入れた。その行為の意味がわからないリーズではなかったが、騒ぎ立てることはなかった。
「お兄ちゃんは東の町に行く。リーズは、連れていけない」
「……うん」
「ご飯も、水も、これだけしか用意できないんだ。それも、こんな、犬みたいな……」
「いいんだよ、お兄ちゃん。だって、助けてくれるんでしょ?」
「リーズ……! ああ、そうだ! お兄ちゃんがすぐに、絶対に助けてやる! だから、ほんの少しの辛抱だ」
「うん。私、待ってるから。お兄ちゃん、いってらっしゃい!」
本当は、抱きしめてやりたかった。縄の上からでもいい。ぎゅうと抱きしめて、艶やかな黒い髪を撫でてリーズを安心させてやりたかった。だが、そうすればきっとリーズは首筋に噛みついてくる。そういう命令を受けているから。だからラッグは、せめて満面の笑みで、最愛の妹に別れを告げた。
家にいた時間は、そう長くなかった。
「もう、いいのか?」
「大丈夫……行こう!」
二人の男は東へ向けて矢のように走り出した。