第一話 悲劇の開幕
よろしくお願いします。
鹿に似た魔物の群れと十数人の人間が争っている。舞台は山中の沢。数で勝る人間側が優勢だった。
彼らは魔物の水魔法にも臆さず、果敢に素手で立ち向かっていた。たとえ水の弾丸で体の一部が吹き飛ばされようとも。
(なんだ、これ)
イクスは、その光景を形容するのにふさわしい言葉を「異様」の他に知らなかった。
茂みに身を隠しながら観察を続ける。狩りで生計を立てているイクスにとってこの山は庭のようなものだ。そんな彼も現状には困惑せざるを得ない。
魔物は普通の鹿に比べて体が小さいが、危険度は比にならないほど高い。水魔法を使うことができるため、群れを相手取るなら中級の炎魔法使いが最低でも五人は必要となる。
一方の人間は幼子や老人も混じっていて、ことごとくが普段着だった。狩人や魔法使いには見えず、数が多いとはいえ、到底勝ち目があるようには見えない。しかし彼らは俊敏に動き、跳躍し、獣のように獰猛な手段で魔物を仕留める。
首を噛み千切られた一頭が倒れ伏した。残りは三頭。
人間は全員が例外なく傷を負っている。明らかに致命傷な者もいた。にもかかわらず、彼らは動きを止めない。攻撃の手を緩めない。腕を失えば足で、足が潰れれば歯で。胸に風穴ができようと、人間たちは戦い続けた。
「痛い……痛い……」
「どうして、こんな……!」
「たす、け、て」
人間たちは戦いの間ずっと怯えていた。悲鳴を上げていた。魔物を襲ったのは彼ら自身の意思による行動ではないように思える。イクスの目には、彼らが人形のように見えていた。使い手の思い通りに動く道具に。
涙を流して、肩を震わせて、叫んで、なおも魔物に襲いかかる『人形』たち。その姿を見てイクスが心を揺さぶられることはなかった。どうやってこの場を無事にやり過ごすか。彼はそれだけを考えていた。他人が操られていようが、彼には関係のないことだ。
やがて最後の一頭が事切れる。傷ついた人形は休みもせず東へ駆け出した。足を失った人形は這いながら去っていった。
沢が静寂を取り戻し、イクスは安堵のため息を漏らす。そして魔物の死体に近付いた。彼が山に来たのは鹿の魔物の肉を手に入れるためだったのだ。血抜きをするべく死体を沢に突き落としながら呟く。
「今日は楽だったな」
彼はこの言葉を即座に撤回することになる。
遠くからの足音と微かな地面の揺れを感じ、西を見れば、木々の隙間を埋め尽くす大量の人間がこちらに向かってきていた。それらが人形であることは明らかだった。このままだと自分があの魔物と同じ末路を辿ることも、また同様に。
イクスは剣を抜き、特に足の速かった人形の首を刎ねた。迷いはなかった。
人形に襲われた場合どう戦うか。彼はずっと考えていた。戦闘を観察していたイクスは、人形が致命傷を受けても動くことを知っていた。人形は死なないのか、あるいは死んでも動けるのか。どちらなのかはイクスにとってどうでもよく、考えなければならないのは無力化する方法だ。
首を刎ねる。それはイクスが思いついた解決策の一つである。頭を切り離せば体へ指令を出すことができなくなる。加えて目と耳と鼻が潰れ、敵を認識する手段がなくなる。四肢を潰せば制圧は確実だが、首を狙う方が切る場所が少なくて済む。
イクスの狙いは的中し、人形はがむしゃらに手を振り回すだけになった。
しかし状況は何一つ好転していない。百を優に超える人形の首をすべて落とすのか。
(無理……じゃねえが、面倒だ)
血を払った剣を鞘に戻し、イクスは人形の大群、その後方に目を向けた。右足を失った人形が、少し離れた位置にいる。それを確かめて、呟く。
「『交換』」
イクスの『異能』により、最後尾の人形との位置が入れ替わった。視界が変わった瞬間イクスは走り出す。背負う荷物の重さが疎ましかった。
前方に人形はいない。混乱の声が後ろから聞こえるが、止まらない。周囲に目もくれず、がむしゃらに、西へ向かって走った。このまま行けば村にたどり着く。
これは賭けだった。人形には目指す場所がある。そんな仮説を前提とした賭けだ。イクスは足に自信があった。逃げる自分を追うより目的地を目指す方が楽だ。人形、あるいは彼らを操る誰かがそう考えることに賭けた。心の底から願ったのだ。
※
山の麓にある村。その外れにみすぼらしい小屋があった。薄い木の板で作られた簡素な小屋だ。それは物置きではなく、廃屋でもない。主を持つ、れっきとした住居だった。住人は二人。十六歳の少年ラッグとその妹、リーズ。
両親は魔物に殺された。ラッグは当時六歳で、それ以来兄妹は寄り添うように暮らしてきた。多くを望まず、境遇を嘆かず、他を妬まず。彼らは慎ましく生きてきた。多くの村人が兄妹に手を差し伸べ、温かく接した。華やかさこそ欠けていたものの、確かな幸せがそこにあった。
「ごめん、リーズ……。ごめん……」
「お兄ちゃん……」
今、支えあってきた兄妹──ラッグとリーズは、ともに涙を浮かべている。リーズは両手足を縄で縛られ、ラッグはそんな彼女の前で両膝をついていた。お互いの表情には倒錯した愛情も、激しい憎悪や嫌悪もなく、ただただ悲痛な苦しみがあるだけだった。
今朝のことである。激しい物音で目が覚めたラッグは、壁の穴から外の様子を窺った。
「なんだ、これ……」
物音は、足音だった。大勢の村人が、老若男女問わず、東へ向かって走っていたのである。
どうなっているんだ。
何が起きてるの。
村人の叫びはラッグの心情と一致していた。見知った顔の暴走を目の当たりにし、困惑は深まるばかり。
だから、最愛の妹の現状に頭が回らなかった。
「お兄ちゃん、逃げて!」
扉を乱暴に開ける音が聞こえたかと思うと、リーズの悲鳴のような懇願が続く。
振り向いたラッグの顔面を、リーズの右足が正確に捉えた。
「がっ!?」
倒れたラッグに馬乗りになるリーズ。リーズの両手を辛うじて掴んで止めたラッグは、振りほどこうとする力の強さに言葉を失った。
(手を離せば、首を絞められる……!)
信じたくない。信じられるはずもない。リーズがこんなことをするわけがない。
だが、今自分たちが置かれている状況がどうしようもなく異様なことにもラッグは気付いている。殺されるという推測は、おそらく、事実なのだろう。
「違うの、お兄ちゃん。こんなこと、したくない……。でも、体が言うことを聞かないの。『東の町に行け』って、頭の中で誰かが叫んでる! 『進路上にいる生き物は、仲間以外皆殺しにしろ』って!」
「なんだよ、それ……。誰がそんなことを……!」
ラッグは激しい怒りを抱いた。抱いたが、それで状況を打破できるわけでもない。彼が考えていたのは、「リーズに殺人を犯させてはならない」というただ一点だった。そのためにはどうするべきか。ラッグは考えて、考えて、考え抜いて。
妹に手を上げることを選んだ。
「……ごめん」
両手でリーズを投げ飛ばし、跳ねるように起き上がる。戸棚から縄を取り出したラッグはそれを両手に持ち、跳躍の構えを見せるリーズに向き合った。
ラッグは、再度のリーズの突撃を避けなかった。自ら地面に倒れながら、リーズの勢いを利用して後方に投げ飛ばしたのだ。
仰向けのリーズに駆け寄り、両手両足を縄で縛る。解けにくい結び方は木こりから習った。まさか薪ではなく妹を縛ることになるとは思わなかったが。
かくしてリーズは拘束され、人を手にかける恐れはなくなった。
……だから、なんだというのだろう。あれからラッグはオウムのように謝罪を繰り返すばかり。自分たちの幸せが崩れ、取り戻す見当さえつかない。彼は途方に暮れていた。
リーズの発言が真実なら──最初から疑うつもりもないが──彼女は何者かに操られている。つまりその黒幕を倒せばいい。だが、手掛かりがない。リーズを操った者は間違いなく村人を操ったのと同一人物だろう。手段は魔法か、魔道具か、それとも他の何かか。いずれにせよあれほどの人数を操るのは並大抵の手間ではない。必ず痕跡があるはずだ。
それがないからラッグは動けない。今日まで、というよりここ最近、村に異常はなかった。作物の収穫は十分で、家畜もよく育ち、川も枯れず、賊や魔物に襲われることもなかった。自分たちは幸せだった。それがなぜ終わったのか。誰が終わらせたのか。ラッグには何もわからない。
「ごめん、リーズ……」
時間が無意味に過ぎていく。陰鬱とした空気が場を支配する。絶望という二文字がラッグの体にまとわりつき、活力という活力を奪っていった。
誰もいなくなった村の、小さな家で、兄妹のすすり泣く声だけが聞こえる。このまま弱って死ぬのが先か。飢えて死ぬのが先か。はたまたリーズが縄から抜けるのが先か。彼らは緩やかに、確実に終わりへ近付いている。それがわかっていても行動を起こすことができない。絶望に身を任せ、停滞していた。