4.シー〇ではない
ここはランブルク王国の南東にある穏やかな森。
その森の中を一人の少女が歩いている。
彼女の名はアンリ。ナン村の狩人ガロの一人娘である。
一流の狩人である父親のガロに仕込まれた一流の技術を持っている。彼女は呼吸と同じで意識せずに足音と声を殺した上で平地を歩いているかのように起伏の激しい森の中を進んでいく。
この国に女狩人がいないわけではないが非常に珍しい存在である。
父親のガロはできることなら機織や薬師、細工師といった身の危険が少なく実入りの良い技術を身に着けてほしいと思っていた。しかし幼少期に遊びのつもりでやらせてみると弓の扱いが天才的であったことに加えてアンリ自身も狩人になることを強く希望したために不承不承ながら狩人の技術を仕込むことにしたのだ。
アンリ自身の高い意欲によりスポンジに水が沁み込むように次々とガロの教えを身に着けていった。
そして成人した今、天才的な弓の才能とガロの教えを身につけた一人前の狩人として最近体の不調を感じるガロの代わりに一人で狩りに出たのだ。
淀みなく動いていたアンリの足がピタリと急に止まり周囲の様子を油断なく窺っている。
狩人としてガロに鍛えられた感覚が生き物の気配を感じたのだ。
周囲を見渡していたアンリの視線がある一点に集中する。アンリの視線の先にはただ青い空が広がっているだけにしか見えない。
いや何も見えないことはない。点にしか見えない程遠くから何かがこちらに向かって飛んできていたのだ。
アンリは背中に背負っている愛用の弓を左手に持ち右手で矢筒から取り出した矢をつがえる。
弓を引き絞り矢を今だ点にしか見えない獲物に向けただ息を殺して待つ。
いくら天才的な弓の使い手であるアンリでも点にしか見えない距離にまで矢を届かせることはできない。
それならなぜ弓を構えているのかと言うと獲物に自分の存在を気付かれないように気配を消す為だ。
森に住む生き物は臆病で周りの気配を常に窺っている。だからアンリの矢が届くような距離で弓を構えれば弓を引く僅かな音やアンリの気配の変化、空気の流れの変化を敏感に感じ取るのだ。
全ての生き物がそのように敏感であるわけではない。しかし、アンリは狩りの成功率を上げるために獲物が自分の気配に気付かない距離で弓を引き周囲と一体化して獲物が自分からやってくるのをジッと待つのだ。まるで何日も息を潜めて確実に標的を狙撃する凄腕スナイパーのように。
森に溶け込んで獲物が射程距離に入ってくるのを待っていると次第に遠くに見えた点が大きくなる。それは大嵐鷲であり足に何かを重たい物を持っているようで少しふら付きながら飛んでいた。
アンリは大嵐鷲が弓の射程距離に入った瞬間ゆっくりとただ右手を開いた。
拘束を解かれた弦は力強い弓の反発力を余すところなく矢へと伝えた。アンリの放った矢は空気を切り裂き大嵐鷲に向かって真っ直ぐ飛んでいく。
矢は寸分たがわず大嵐鷲の頭蓋骨を貫き、脳を破壊。何が起きたか分からぬまま大嵐鷲は地上に落下することとなった。
「フ~、よし。」
大嵐鷲を仕留めたことを確認したアンリは大きく息を吐いて緊張を解く。
せっかく仕留めた大嵐鷲を他の生き物に横取りされる前に回収するために愛用の弓を再び背中に背負うと先ほどまでのように気配を消して森の中を歩くのではなく大嵐鷲が墜ちた場所へ向けて走り出した。
周囲に生き物の気配はないが安心はできない森の中には気配を消すのが上手い生き物も多くいる。そうした生き物が知らぬ間にアンリの大嵐鷲に目をつけているかもしれないのだ。ここからはスピードが命だ。
自分に襲い掛かってくる生き物の気配だけに注意し後は走ることに神経を集中する。
アンリは木々の生い茂る森を縫うように駆け抜ける。
「う~ん、これはさすがに予想できなかったわ。」
アンリは自分が仕留めた大嵐鷲の落下点までやって来ていた。
他の生き物に掠め取られることなく無事に大嵐鷲を確保できた。
矢を放った場所からでは大嵐鷲が足に持っていたものが何か分からなかったが大嵐鷲が仕留めた生き物であることは容易に想像できた。
珍しい生き物だったらラッキーぐらいに軽く考えていただけで、大嵐鷲が仕留めた生き物は碌な状態でないことは想定ないだった。
だがその大嵐鷲が足に持っていた生き物がアンリを悩ませている。
聡明な方には分かっていることであるがそれは人間の男でありこの話の一応主人公であるヤナギ・ナガレであった。
アンリが仕留めた大嵐鷲は気を失ったナガレを雛の餌にしようとした大嵐鷲だったのである。
母鳥が死んだ雛はこの後生きていけないだろうがそれも自然の摂理である。アンリには関係のない話だ。
「死んではなさそうね。死んでたらこのまま森の栄養になってもらうんだけど生きてる人を置いていくわけにはいかないわよね。あの高さから落下して無事なんて運が良い人なのね。」
ナガレが無事なのはアンリが思ったように運が良かったからではない。邪神に加えて世界の端にいた龍、悪魔、リッチなど大量の魔物を倒して得た経験値でレベルが1000以上に上昇したことで身体能力が上がった結果、地上100メートル以上から無防備な状態で落ちても全く身体にダメージが通らなかったのだ。
アンリはマジックバックから折りたたみ式の荷台を取り出すと代わりに大嵐鷲をマジックバックに仕舞う。
マジックバック、それは迷宮で見つかるマジックアイテムの一つである。基本的な性能は見た目以上に物を入れるということに加えて重量が増えないこと。様々な容量のものがあり中には空間だけでなく時間にも作用する特別なマジックバックもあるらしい。
アンリが持っているマジックバックは父ガロが冒険者時代にダンジョンで手に入れたものだ。
折りたたみ式の荷台にナガレを縛りつけるとアンリはナン村に向かって森の中を歩き出した。
「ここはどこだ?ハァ、また記憶がないぞ。邪神?を倒したところまでは覚えているんだけどなぁ。」
ナガレは知らない部屋で目を覚ます。
自分の部屋でないことは確かであるし、まして邪神に襲われた荒地でないことは言うまでもない。
レベルアップの反動により全身が痛みに襲われて気を失ったが身体の異常は感じられないどころか今まで感じたことがないほど体が軽い。驚きなのはずっと苦しめられていた肩こりも腰痛も全く気にならないのだ。肩こりも腰痛も治った可能性が高い。
「身体の調子が良いのはうれしいけど、理由が分からないのが怖い。でも理由が分かってもすで終わったことだから今更どうにもできないか。さてこれからどうしたものかな。」
やらないといけないことは多くある。
この世界の常識の取得、生活するための金の稼ぐ方法を探し、日本への帰還方法の模索等々だ。
思考に没頭していると部屋の扉が開いて人が入って来た。
「あ、気がついたんだね。怪我はなさそうだったけど体調は大丈夫。」
部屋に入って来てナガレを気遣ったのはアンリである。
そんなアンリをナガレは目を見開いて凝視している。
狩人ととして鍛えられているが女性らしい引き締まった足。腰は無駄な肉は全くなく筋肉で引き締められている。慎ましやかだがはっきりと見て取れる女性の象徴。野生的だが女性の優しさも併せ持つ金色の瞳。
ナガレはそんな美しいアンリが現われたことに驚いて目を見開いたわけではない。
驚いたのは彼女の頭部にある猫の耳である。
ファンタジー小説内では多々登場する獣人であるが実際に目にしたことがなくそしてナガレの常識ではそんな場所に耳が出来るはずがないのだから驚いて凝視してしまうのも頷ける。
自分と同じ耳を持った上で頭部に飾りとして獣の耳があるならば説明はできる。人間の頭部には脳がめいいっぱい詰まっており耳の機能をつける余地はないはずなのだ。
ナガレはアンリの耳を見ながら異世界に来たことを認識し自分の常識が通じないことを痛感していた。
「どうしたの?ワタシの顔をジッと見て。」
目を見開いて動かないナガレをアンリは不思議そうに見る。
「あっ、すみません。あなたのような人に会ったのは初めてだったもので。」
「何それ。もしかしてナンパ?命を助けられて惚れるのは女性のほうだと思ったけど逆もあるのかしら。でも大丈夫?私のお父さんは怖いわよぉ~。」
アンリは笑いながらナガレをからかう。
「ち、違います。も、もちろんあなたは十分魅力的です。ただ私の周りには同じ種族しか居なかったもので、ジロジロ見てすみませんでした。」
変に勘違いされ怖いお父さんを怒らせたら自分がどんな目に合うか分からないナガレは必死で訂正する。
「ああ、獣人を見たことなかったらそうなるのかな?私は豹獣人のアンリよ。」
少し気落ちしたアンリの表情にナガレは気がつかない。
日本では女性経験が皆無な上に緊張しているのだから弁解の余地を与えて欲しい。
「ヤナギ・ナガレです。ナガレと呼んでください。助けていただいてありがとうございますアンリさん。」
綺麗な女性と二人っきりになる経験がないナガレは緊張しながらもお礼を述べた。
「助けたって言っても大嵐鷲を狩ったらナガレも一緒に墜ちてきただけなんだけどね。」
大嵐鷲のことも自分が落ちたこともナガレにはサッパリ分からない。
「身体は何ともありません。寧ろ調子が良いくらいです。墜ちたっていうのはどういう状況だったんですか?」
「足に何かを掴んでいる大嵐鷲を狩ったんだけど大嵐鷲が掴んでいたのがなんとナガレだったのよ。あれはホントビックリしたのよ。あれだけの高さから墜ちたんでどこか怪我してないか心配だったけど大丈夫そうで安心したわ。」
気を失っている間に大嵐鷲という鳥に掴まれて空の旅をしていたことを漸く理解したナガレ。
同時に恐怖した。この世界には自分を足で掴めるほどの大きな鳥がいる。アンリが普通に喋っていることから珍しいことではない。
ナガレのいた世界で鳥は空を飛ぶために極限まで身体を軽量化した上に大きな筋肉の力で飛んでいた。いくらナガレを足で掴めるほど大きいと言ってもナガレを掴んだまま空を飛べるとは思えない。恐らく魔法のような力が働いているのだろう。
そしてそんな巨大な上に不可思議な力を使う大嵐鷲を狩るアンリ。ナガレはアンリを怒らせないことを誓った。決して過去に美人を怒らせて恐怖を心に刻み込まれたからではない。