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#9 終章/岬にて


 夏のはずが、岬を吹く風はひどく冷たかった。

 崖の上にはみっつの人影があった。そこから少し奥まったところには防風林に囲まれた小さな家が建っている。他に家は見当たらず、人影もない。空は重く低く、遠く波涛の砕ける音が聞こえるが、厚い霧に阻まれて海は見えない。

 人影はヨウとスアン、そして不思議な白い髪をした中年の女だった。

 ヨウはふたりと向き合い、少し離れて立っていた。女はうつむいたスアンの後ろに立ち、その小さな肩に手を置いている。

「それじゃあ」

 と、ヨウがスアンに声をかけた。

「そのおひとを頼って、安心して幸せに暮らすんですよ」

「大丈夫だよ、この子のことは私がしっかり引き受けたからね」

 白い髪の女が鷹揚に笑って言った。だがスアンは今にも泣きださんばかりだ。

「……おじさん……、私も行く……置いていかないで……」

 ようやくそう言ったが、

「スアン嬢ちゃん」

 と、ヨウはスアンに近づき膝をついて応えた。

「ここには嬢ちゃんひとりきりだ。谷のことも親父さまのことも忘れて生まれ変わってもいいし、カナルの誇りを大事に守って生きてもいい。ここには嬢ちゃんを知る者は誰もいない。もう嬢ちゃんを繋ぎとめる軛も絆もない。自由に生きるんです。嬢ちゃんにはそれができる」

「そんな……そんなこと急に言われても……」

 今にも消え入りそうな声だ。うつむいた頬を伝って涙がぽつりと落ちる。

 ヨウは諭すように続けた。

「嬢ちゃんには時間がある。ゆっくりと考えるといい。そしておとなになったら遠い故郷の海を目指してもいいし、誰か大切なひとを見つけて一緒に暮らしてもいい。思うままに強く生きなさい。ハクぼっちゃんのぶんまで……親父さまもきっとそれを望んでいますよ」

それから立ち上がると言った。

「さあお別れです。──これを」

 と、スアンの手を取り、その掌に小さな巾着を載せた。

「これは嬢ちゃんが持っているべきだ。きっと嬢ちゃんを守ってくれますよ」

 それはあの血と炎の中で汚されもせず、奇跡のようにそこにあった。

 薄布の繊細な美しさに燭台の灯にゆらめいた夏越しの夜がよみがえる。

「──おじさん!」

 スアンが顔を上げ、叫んだ。

「また会える? ねえ、また来てくれるよね──」

 ヨウは一瞬立ち止まった。だが振り返ることもせず、再び歩きはじめた。

 霧に呑まれおぼろに消えていくその後ろ姿に、異界に去った幼い弟の姿が重なる。スアンにも、ヨウが並みの人間ではないことがもうわかっていた。

「さあもう帰ろう。すっかり冷えてしまった。温かいお茶でも淹れようね」

 女がスアンをうながした。このひとも、きっと私たちとは違う世界を生きているのだ……、とスアンは思った。それはきっと、私たちは見ても触れてもいけない世界だ──あの、神隠しの道のように。

 自由に生きろ、というヨウの言葉を深く心に沈め、スアンは頷いた。

 ふたりも踵を返した。岬には風だけが残った。






お読みいただき、ありがとうございました。

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