#8 再び、神隠しの道
女たちが嗚咽を噛み殺しながら月明かりを頼りに藪をかき分けていたとき、ふと不安に駆られたスアンが振り向き見たものは、炎に包まれた谷だった。
「──!」
スアンは息を吞んだ。あそこに父がいる──。
父も後から来る、とヨウにも護衛の男にも言われたが、そんなものは自分達を安心させ、逃がすための方便だったのだ、と気がついた。
スアンはハクの小さな手をぎゅっと握った。
「……お姉ちゃん」
見るとハクも泣いている。
「帰るよ、お父さんのとこに」
スアンはハクの耳元で小さく囁くと、殿を歩いていた男の目を盗み、そっと列を離れた。
山から下りたスアンが見たもの。傷を受けてのたうつ者。すでにこときれて動かない者。きっと見知った顔もあっただろうが、血と灰と泥に汚れて判別はつかなかった。家屋も大半は炎に包まれ、石造りの建物は燃え残ってはいたものの室内から放火されたらしく、窓から炎が吹きあがっている。その中でまともに動いている人影はひとつもなかった。
スアンはハクの手を引いて父の姿を求め、熱風とまぶしさを避け、路上に転がるて顔を伏せ物陰を移動していたが、ふと顔を上げ、あっ、と声を上げた。
「お御堂が……!」
谷の生活の中心であり、住人の宝であった祭殿が燃えていた。
夜は村を焼き尽くす炎によって煌々と輝き、熱風に煽られて降り注ぐ玻璃のきらめきはさながら水晶のカケラのようだ。街路に散った玻璃も炎の照り返しを受けきらきらと瞬き、この世の地獄ともいうべき光景は幻想的な美しさに彩られていた。
あふれ出た涙を拭うと、スアンはハクとともにまた走りはじめた。
イハサヤとヨウはじりじりと後退しながら、今は谷の中心辺りにいた。やはり多勢に無勢。追い詰められている。
その中でヨウの戦いぶりはすさまじく、頼もしい味方であるはずが、イハサヤにも彼がなにか恐ろしい存在であるように思えてきた。
「……あんた、本当は何者なんだ……?」
物陰で荒い息を継ぎながらイハサヤが言った。
「わっしは三界に寄る辺のない身」
杖を握りしめ、ヨウは辺りの気配に全身をそばだてるようにしながら答えた。
「だから恩に報います。おまえさまが死んだらおふたりが悲しむ──」
そこまで言ったとき、信じがたい声がした。
「お父さん!」
ふたりは振り返った。スアンがハクとともに駆け寄ってきた。
「スアン……! なんで戻って来た!?」
そう口では言いながら、イハサヤはふたりの子供を抱きしめていた。
暴徒が気づき、いたぞ、殺せ!などと叫びながら襲ってきたのを、ヨウが叩きのめした。
「おふたりを連れて、早く!」
転びつつ三つの影が暗がりへと逃げこむ。ヨウは三人をかばってその前に立った。
「……なんてこった……!」
イハサヤはヨウの後ろで呻くようにひとりごちると、スアンの肩を掴みその顔を覗き込むようにして言った。
「ヨウと一緒に逃げろ、あいつならきっとなんとかしてくれる」
「いやだ、お父さんと一緒にいる──最期まで──」
イハサヤにしがみつき、スアンが泣き声でそう言った時。
「馬鹿っ!」
イハサヤは叫ぶとスアンを自分から引き剥がした。
「俺はおまえらの最期なんか、考えたくもないんだ……!」
悲鳴のようなその声に、ヨウは思わず振り返った。
「おまえらは俺の宝だ、死なせてたまるか──」
再びふたりを抱きしめるとそう言い、イハサヤはヨウの名を呼ばわった。
「子供らを助けてくれ、あんたならできるはずだ……!」
「…………」
一瞬の逡巡のあと、ヨウはスアンの手をとった。
「お父さん……!」
スアンはイハサヤに駆け寄ろうとしたが、ヨウはスアンの手をしっかり握って押しとどめた。しかしヨウは言った。
「おまえさまも──」
そうイハサヤを促したが、イハサヤは頭を振った。
「俺は行けん、仲間を見捨てることはできん」
「……もう他にはどなたも、生き残っていないかもしれない」
それならなおさらだ……、と、イハサヤが応えた。
「俺はこの谷の長だ。谷を守って死んだ仲間に、報いにゃならん」
先刻、恩などというもののために死ぬのか、とヨウに言ったイハサヤは、今、義のために死のうとしていた。
「さあ、早く! 約束したぞ!」
風に煽られ、炎が迫ってきた。イハサヤが叫んだ。
「あんたが旅芸人でも魔物でもなんでもいい、俺の子供らを頼む……!」
振り返り父を呼び続けるふたりを急き立てて、ヨウはその場を後にした。
谷が燃えている。
スアンは泣きながら、同じく泣いているハクを引きずるようにしつつ訊ねた。
「どこへ行くの、おじさん、逃げるところなんて──」
「『神隠しの道』へ」
そのスアンのもう一方の手を握り締め前を向いたまま、ヨウが答えた。
「だって、あそこには近づいちゃいけないって、おじさんも言ったじゃないの──」
怯えた声でスアンが言った。それに答えるふうもなく、ヨウは続けた。
「あそこにはもうひとつ道がある。ひとには見えぬ、あやかしの道が」
「────」
スアンは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。襲ってきた男を、ヨウが杖で打ち倒した。
阿鼻叫喚の中、ヨウはふたりを庇って何人倒しただろうか。気がつくと三人は封印の岩が置いてある、古い辻にたどり着いていた。
「いいですか、わっしの杖が光りだしたら、おふたりとも目を閉じて、口も閉じるんですよ。何があっても目を開けちゃいけないし、声をだしてもいけない。何があってもです──」
と、言う間もなく、ヨウの杖がぼうっと光りはじめた。
スアンは息を吞んだ。黒く汚れた、ただの古びた木の杖だと思っていたものが、見る間に輝きを増していく。
「目を閉じて! 嬢ちゃん、坊ちゃんの手を放しちゃいけませんよ!」
びょうびょうと何かが身体の中を吹き抜けていく。
風の音とも獣の唸る声ともつかぬ恐ろしげな響きが渦巻く中、スアンは片手でハクを抱きかかえるようにしながらもう一方の手でヨウの腰紐をしっかりと掴み、自身もヨウに身体を押しつけるようにして歩いていた。
ヨウは時に杖を振るいながら進んでいるらしい。そのたびに何かが砕け飛び、断末魔がびしびしとスアンの心に突き刺さる。あやかしの道、とヨウは言ったが、目で見ずともこの道がひとの道でないことはスアンにもわかっていた。
恐怖が膨れあがり口から悲鳴となって飛び出そうとする。スアンは必死に堪えていたが、それももう限界だった──。
「ひゃああああ」
突然恐ろしい悲鳴が耳元でしたかと思うと、ハクが信じがたい力でスアンの手を振り切った。
「…………!」
思わず目を開け名を呼び、ハクに追いすがろうとしたその刹那、力強い手がスアンの頭をヨウの胸に押しつけた。
血と煙の匂いが肺腑いっぱいに流れ込んでくる。不穏な空気が一層ざわめき、嵐のように吹きすさぶ中、スアンは嗚咽を噛み殺し、ヨウはスアンを庇うように抱きしめたまま、じりじりとあやかしの道を進んでいった。