#7 水晶の夜
その一刻ほど前。
先刻、騒ぎのあった辺りに、男が数人戻ってきた。
路上にも少なくない数の男たちが残っている。彼らが戻った男たちに声をかけた。
「もうひとりはどうした」
「ダメだ、逃げられた。あの野郎、山に逃げ込みやがって」
ひとりが憎々しげに答えた。傷を負っているのは、反撃されたせいだろう。
「まずいな……」
石畳を黒く汚した血だまりを見下ろし、ひとりが言った。
「連中、襲ってくるかもしれない」
「…………」
男たちの目に再び殺意が浮かぶ。
「人手を集めろ、やられる前にやってやる……もともと余所から来て居座った連中だ、ぶっ殺したところでバチは当たらない」
ひとりが目を光らせて応えた。
「もちろんだ、カナルを刈れると聞いたら、いくらでも人は集まる」
「この際だ、鉱山も取り返してやる」
「思い知らせてやる」
「よし」
口々にそんなことを言うと散っていった男たちがさらに数を増して、今、水晶谷を襲ってきた。
手に手に松明と得物を持ち、充分に武装した暴徒に対して、谷の砦門は無力だった。半鐘も長く続かなかったのは、門番がすでに屠られたあかしか。
慌ててイハサヤの家を飛び出した男たちが見たのは、燃え上がる砦門だった。暴徒は口々に何かを叫びながら家屋に火をつけ、打ち壊している。
「くそっ……、ちと早すぎやしねえか」
イハサヤの隣にいた男が吐き出すように呻いた。
「若い奴はお御堂へ行け、女たちを連れて逃げるんだ!」
イハサヤが叫んだ。
「奴らは俺たちがくい止める、……やられっぱなしでいられるか」
「イヤだ、俺たちもやってやる──」
若い男がそう言ったとき。
「馬鹿野郎!」
誰かが一喝した。
「女子供を守れ!」
その言葉に、何人かが祭壇に向かって駆けだした。続けてまた数人。十人ばかりか。
「お前も行け! お御堂の、武器や備蓄のありかはわかってるな?」
イハサヤの近くにいた年かさの男に促され、またひとりが泣きそうな表情で走り去る。
イハサヤの家に蓄えてあった得物が運び出され、男たちはそれを手に取ると暴徒に向かっていった。
「あんたも一緒に行くんだ、ここにいたら巻き添えになる」
イハサヤが叫ぶように言い、ヨウも無言で駆けだした。行き先はもちろん祭殿である。
祭殿では玻璃の窓に映る炎の色に、内は騒然となっていた。
わけがわからず泣き出す者もいれば、動転して外に飛び出そうとする者もいた。怪我人の帰還を見ていた何人かは状況を察し彼女達を必死でなだめていたが、どうやら裏道から廻ったらしい町の男が松明を掲げて近づくのに気づき、息を吞んだ。
祭殿にたどり着いた若い男たちの目に入ったのは、今しも窓を破り扉に火を放とうとしている暴徒の姿だった。
「くそ……っ」
走り寄ろうとした男のひとりに手をかけた者があった。
「お借りしますよ」
そう言うと男が手にしていた槍を取り、投げた。
それは風を切って扉に取り付いていた男の背に刺さり、暴徒が一斉に振り向いた。
怒号と悲鳴。
暴徒と谷の若者がもつれあう中、ヨウが祭殿の扉を叩いて叫んだ。
「扉を開けろ! ここにいたら蒸し焼きにされるぞ!」
ゆっくりと扉が開いた。
「逃げろって……どこへ……」
細く開けた扉の中から、女が涙のあとのついた怯えた顔で言った。
「若い衆と行くんです、彼らが守ってくれる」
続けて祭殿に飛び込んできた男が、祭壇の裏から得物や食料を取り出しながら叫んだ。
「食料や金はそれぞれが持てるだけでいい、得物は腰に差しておけ──行くぞ!」
「うちのひとは──うちのひとはどこなんです?」
ひとりが悲鳴のように言った。それに呼応するかのように、他の女たちも夫や近しい者の名を挙げてざわめきはじめた。
「後から来る! あんたらを逃がすために戦ってるんだ、それをムダにするな!」
男が怒鳴り、女たちも口を噤んだ。嗚咽が再び広がった。
外ではヨウと数人の男が祭殿を守って奮戦していた。いずれも返り血を浴びて凄惨な姿だ。
「おじさん!」
ヨウの姿を認め、スアンが走り寄ってきた。
「お父さんは──」
「後から来ます」
ヨウは短く答えるとスアンの正面に向き直り、両肩を抱くようにして言った。
「しっかりなさい。ハクぼっちゃんのこと、頼みましたよ」
それからスアンの肩を押すようにして踵を返したヨウの背中に、スアンが叫んだ。
「お父さんのこと守って……! お願い」
ヨウは一瞬足を止めた。かすかに頷いた気がしたが、夕闇の中ではしかとはわからぬ。スアンも踵を返し、動きはじめた人々の群れに向かって走りだした。
「わしらはいい、置いていけ」
谷のはずれから獣道に分け入ろうとした時、殿にいた男に白髪の男が言った。隣の老婆も頷く。
「もうこの歳だ、あんたらの足手まといになりながらこの場を永らえたとしても、たいして長生きはできまいよ」
「なにを言うんだ……」
男は顔をゆがめて苦しげに言ったが、
「それよりも」
と、老人は続けた。
「やつらには散々煮え湯を飲まされてきたんだ……今こそ恨みを晴らしてやる。ひとりなりとも道連れにしてやる」
男はなおも何かを言おうとしたが、うまく言葉にできなかったらしい。泣きそうな表情になり、一言だけ、
「すまない」
と言った。
「いいんだ、早く行け。やつらに追いつかれるぞ」
何人かがひっそりと列を抜け、闇に溶けていった。
熱風と火の粉の中を、ヨウは谷の中心へと走った。
襲ってくる者は全て叩き伏せた。ひとりがヨウの背後から斬りかかろうとしたとき、一条の矢が飛んできてその背中に突き刺さった。
「ヨウ!」
ヨウは振り返り、声のした方へと走った。追いすがった者の肩に、矢がまた突き立った。
「ご無事でしたか」
走り込んだ林の陰に、矢をつがえたイハサヤがいた。矢はあと数条しか残っていなかったがスカハサはかまわずまた射た。
「そう簡単にやられてたまるか」
そう応えたイハサヤは、しかしあちこちに手傷を負っていた。血まみれのひどい姿だったが、返り血もあるのだろう。傷はいずれも深くはなさそうだった。
「あんた、……若いのと一緒に行かなかったのか?」
「おまえさまには一宿一飯の恩がある。お子さん方には若い衆がついているから大丈夫です」
「恩か。そんなもののために命を捨てるのか。そんなんじゃ命がいくつあってて足りねえだろう」
イハサヤは少し呆れたように笑った。
「わっしは大丈夫だと申し上げました」
ヨウは周囲に気を配りながら応えた。
「それに」
「それに、……なんだ?」
「いえ」
いぶかしげに訊ねたイハサヤに、ヨウはほんの刹那の沈黙の後短く答えた。
「行きましょう、ここはもう危ない」
ヨウはそう続けると、イハサヤに肩を貸して立ち上がった。