銅像
校内に鳴り響くチャイムが、今期最後の授業の終わりと夏休みの始まりを告げた。
ホームルームを終えて廊下を歩いていると、校内は浮かれ切った生徒たちで溢れ返っている。
私は今日残された事務仕事に取り掛かる前に、外で一服するかと思い至りポケットのなかを探ってみた。幸いにも、三、四本中身の残されたハイライトの箱が入ったままになっている。
そうと決まればと思い、私は手に持っていた教鞭や教材類を職員室の自分の机に置くと外へ向かった。
校舎を出て、南門へ向かう。そちらは職員玄関に一番近い門で、その傍には教員たちの車が止められている駐車場がある。大抵の生徒は東側にある正門から出ていくため、こちらにはほとんど彼らの姿は見受けられない。
職員玄関と南門から見て、駐車場のあるスペースから対角線上には、コンクリートの土台の上に立てられている銅像がある。今から九〇年ほど前、一九二五年にこの高校を創設し、初代校長を務めた倉数正義の銅像である。銅でできた倉数校長は、スーツをビシッと着こなしており、杖をついて堂々とその場に立っている。髪はポマードで整えてあるらしい。その髪が黒か灰色か、というくだらない議論が、時たま学生たちの間で交わされているようであった。
ふと気づくと、正面に国語教師の桑田がこちらに背を向けて歩いているのが見えた。私はまだ教職を始めてから十年、この学校に赴任して二年しか経っていないが、桑田は教職歴二十年、ここに赴任してから六年のベテラン教師である。
私は駆け足で桑田に追いついた。
「先生もご一服ですか?」
私は桑田の横につくと、煙草の箱を掲げて見せた。
「おや、川端先生。えぇ、少し息抜きしようと思いましてね」
桑田も煙草の箱を示しながらニッと笑って見せる。
「先生、『ハイライト』とは渋いですな」
「そうですか? いつも普通に吸ってるんですが……。桑田先生は『セブンスター』ですか」
「ええ。私も若いときに吸ってみたことはあるんですがね、香りはとても好みなんですが重さがどうにも合わなくてね。私は軽めのものでないとダメなようです」
「ほう、意外ですね。桑田先生は結構ヘビースモーカーなのかと思ってました」
私たちふたりは南門を出て、向かいの空き地で煙草を吸いながら立ち話をした。
「しかし、あの年頃のガキンチョ共には困ったもんですな。全く世話が焼けて仕方がありませんよ」
私がそう愚痴をこぼすと桑田先生は苦笑いをした。
「そうですねな。二十年もやってればさすがに慣れますが、いつでも手のかかるものです。それにひとクラスにひとりは必ず問題児がいる」
「可愛げがまだ残っている分、中学生の方がマシな気がしますね。高校生にもなると、もう完全に大人をなめきっている。こちらの気持ちなんて知らぬ存ぜぬですよ。もうすぐ大学受験だっていうのに、皆夏休みだと浮かれ切っていて、能天気な奴ばかりです」
「そうか、川端先生は三年の担任でしたね。それじゃあさぞ気苦労が絶えないでしょうな。でも、大人から見て能天気に見えても、本人たちは内心では結構焦っていたりするものですよ」
「そうですかね」
「ええ。教師をやっていて教え子から合格の知らせが来たときほど嬉しいことはありませんよ。それまでの道のりは長くて苦しいでしょうが、過ぎてみればあっという間です」
「そうですね。そうなってくれたら、頑張った甲斐もあったというものなんですが」
腕時計に目をやると、かれこれもう三十分ほど立ち話をしていたらしい。煙草も、今吸っている分が最後だった。そろそろ職員室に戻って残った仕事を片付けてしまわなくては。
「桑田先生、そろそろ戻りましょうか」
そういって桑田に目を向ける。すると、桑田はなにやらぼんやりと前に視線を向けている。なんだろうと私もその視線を追って門の内側を見やったが、特別目を引くようなものはなにもないように見える。
「桑田先生、どうかしましたか?」
問いかけてみても、桑田は正面から目を動かさず、何も答えない。肩を叩いてみると、ようやく私が呼んでいることに気がついたようだった。
「ああ、すいません。川端先生、ぼくはもしかしたら暑さでおかしくなってしまったんでしょうか」
「大丈夫ですか? 具合でも悪くされたのでは? 中に戻って休まれた方がいい」
そう言って私は門の内側に向かって歩き出した。すると、桑田に肩を掴まれ、引き留められた。
「駄目です、川端先生。行かない方がいい。あれが見えないんですか?」
桑田が何を言っているのか、私にはまったくわからなかった。
「一体どうされたんです、桑田先生。なにかあったんですか?」
桑田は、少し躊躇ってから、震える指で前をさして、あの初代校長の銅像は見えるかと訊いた。
「もちろん見えますよ。あれがどうかしたんですか?」
「いや、それがね……馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないですけど、疲れて幻覚でも見てるだけなのかもしれないですけど……あの銅像が、こっちに向かって歩いてきているんですよ」
「嫌だなぁ、桑田先生、いきなり何を仰るんです」
私は笑いながら答えた。銅像が歩くわけがない。現に、私がそちらへ目を向けると、初代校長の銅像は今でも台の上に直立している。
「ああ、やっぱり先生には見えないのですね……。じゃあ、やはり僕の見間違いなのでしょう。でも、なんでですかね……凄くはっきり見えるんですよ。ゆっくり、一歩ずつ、こちらに向かってくるのが。しかも、少しの迷いもなく歩いてくるんです。まるで、あそこに立てられていたときから僕たちの方へ向かおうと決めていたみたいに……。一体、アレは、僕たちに何の用があるっていうんでしょう? 僕たちの方へ来て、どうしようっていうんですかね? 嫌だなぁ。来ないでほしいなぁ」
初め、私は桑田が冗談を言っているのだと思っていた。しかし、次第にその話の内容が常軌を逸し始め、顔はみるみるうちに青ざめていく。桑田は本当のことを言っているのだ。本当に桑田には、初代校長の銅像が私たちのいる方目指して歩いてくるのが見えているのだ。桑田は震える手を抑えようと必死なようだったが、肝心の手はセブンスターの箱を握り潰すばかりで震えは治まっていない。
私は桑田から再び銅像に目を移した。無論、銅像にはなにも異常はない。
「先生、落ち着いてください。きっとお疲れなんでしょう。保険室にいかれたらいかがです。さあ」
「ああ、嫌だ。駄目です。そっちへ行ったら鉢合わせしてしまう。怖いんです。アレが、アレが……」
「わかりました。では、正門の方から回っていきましょう。そっちなら銅像は無いから大丈夫でしょう?」
私は桑田の尋常ならざる様子にゾッとするものを覚えながらも、彼を促した。すると彼は、震えながら私に従って歩き出した。
桑田を連れて行きながら、私は彼の怯えようについて思考を巡らせていた。一体、桑田はどうしたというのだろう? 先ほどまでは普通に会話を交わしていたというのに、どうしていきなりこんなにも取り乱してしまったのか。
銅像が歩くなど、そんな馬鹿なことは……。
しばらく不思議でならなかったが、桑田を保険室へ送り届け、事務仕事を片付けて変える頃には、その出来事はすっかり忘れてしまっていた。
それから数日後、夏休みに入ったものの、私のように学校に出勤しなければならない教員がほとんどである。
三十分ほどバスに揺られ、学校にたどり着くと、敷地内に何台ものパトカーが停まっていて、門の外に人だかりが出来ていた。
なにかあったのだろうか。私は嫌な予感を胸に芽生えさせながら、敷地内に足を踏み入れた。
パトカーは南門から入ってすぐの駐車場付近に止められており、奥の職員玄関付近に職員たちが集まっていて、警官たちになにやら質問されている。よく見るとそのすぐそばに救急車も停まっていて、私が近づいていくと走り去っていくところだった。
私は人だかりの少し離れたところに、新任の女性教師・隅内が放心しているかのように立ち尽くしているのを見て声をかけた。
「隅内先生、この騒ぎは一体……なにがあったんですか?」
隅内は、私が声をかけるとビクッと肩を震わせ、私に目を向けた。
「あ……川端先生。それが大変なんです。桑田先生が……」
隅内は激しく動揺しているようで、今にも泣きだしそうに見えた。
「桑田先生がどうされたんです?」
「桑田先生が……し、しん……いえ、こ、殺されたんです」
金槌で後頭部を殴られたかのような衝撃が私を襲った。
殺された?
桑田が?
「そんな……一体どうして……誰に?」
隅内は涙を流しながら首を横に振った。
「わかりません。私が着いたときにはもう警察が来ていて……。たぶん昨日の夜に殺されたんだろうって……。私、昨日の夜、桑田先生と一緒だったんです。ふたりで夜遅くまで残っていて、最初は一緒に学校を出たんですけど、先生が忘れ物をしたって……。それで私、先に帰ったんです。それがこんなことに……」
私は隅内が泣きじゃくりながら言うのを、呆然とただ黙って聞いているしかなかった。
「教頭先生が一番に学校に来て、それで死体を見つけたらしいんです。そのあとすぐに警察を呼んで、ほかの先生が来る前に警察が到着したので、死体をちゃんと見たのは教頭先生だけなんです……。でも、教頭先生の様子がおかしくて……さっきパトカーの中に連れていかれたんですけど、なにも話してくれないんです。私……もうなにがなんだか……」
しばらくして、私は背広を着た中年の刑事と、若い刑事のふたりから事情聴取を受けた。昨夜なにをしていたか、最近桑田になにか変わったところは無かったか、彼に恨みをもつ人物に心当たりはないか。そういった質問をひと通り受けた。
「財布など、所有物が盗まれていなかったことや、遺体の状態から見て、犯人は桑田さんになんらかの恨みををもっていて犯行に及んだ可能性が高い。本当にそういった人物には心当たりありませんか」
私は、中年の刑事が言った「遺体の状態から見て」という言葉が引っ掛かった。
「あの……桑田先生の遺体は、そんなに酷い状態だったんですか? 一体どんな殺され方をしたんです」
中年の刑事は一瞬、若い刑事と目を合わせた。
「こういうことは、まだあまりお話しできることではないんですが、どうせすぐニュースで流れるので、まあ話しておきましょう。被害者は全身を激しく殴打されていました」
「殴打?」
「ええ、まあ……鈍器のようなものでね。後頭部からも大量の出血が確認されたので、直接の死因は頭を殴られたことによる脳震盪だと思われます。ですがそれ以外にも、身体のいたるところを同様のもので殴られたようです。手足や肋骨、あらゆる部分の骨が折れていて、どうやら粉々に砕けているであろう部分も認められました。おそらく内臓もいくつか破裂しているでしょう。死後に受けたものなのかどうかはまだわかっていませんが、相当の恨みがないとここまではやりませんよ。何を凶器に使ったんだか知りませんがね、どれだけ殴ればあんな風になるのか見当もつきません。二十年以上刑事を続けてきて、あんな死体は初めて見ましたよ。本当に惨い有様でした」
中年の刑事は段々冗舌になってきていた。私は彼の話を聞きながら吐き気がこみあげてくるのを感じた。
そんな私の様子に気づいているのかいないのか、刑事は話を続けた。彼は私の後ろを指さした。コンクリートの壁に園芸用のシャベルが立てかけてある。職員玄関を出てすぐ近くにある園芸倉庫に仕舞われていたものだ。
ただし、それは原型を留めてはいなかった。シャベルの刃の部分は、無理矢理折り曲げられたかのように中ほどで畳まれてしまっている。柄は半分に折れていて、折口は絞った雑巾のように捻じれている。まるで凄い力で捻じ切ったかのようだった。
「どうやら被害者は、あれで抵抗を試みたらしい。しかし、失敗したんですな。シャベルには血痕が少しも付いていない。それに、鉄で出来ているシャベルをあんな風にしてしまうなんて人間業じゃありませんよ。あんなの柔道のオリンピック選手でも無理です。殺し方といい、シャベルを素手で折り曲げたことといい、犯人はとんでもない化け物としか思えません。しかも、これだけ派手にやっておいて現場には証拠ひとつも残っていない。正直、今のところはお手上げとしか言えませんな」
事情聴取が終わった後、私たちはしばらく職員室で待機させられていた。すると、私のデスクの隣に座っていた隅内がポツリと呟いた。
「そういえば昨日、桑田先生おかしなこと言ってました」
「え?」
「日が暮れはじめていたときでした。それまで普通にデスクで仕事をしていたんですけど、お茶を淹れに窓際へ行った桑田先生が、窓の外を見て急に立ち止まったんです。私、不思議に思って、『どうしたんですか?』って声かけたんです。そしたら、先生怯えたような顔しながら、――外に立ってるあの初代校長の銅像、ありますよね。あれが歩いてこっちに向かってくる、なんて言うんです」
私は自分の心臓が飛び跳ねるのを感じた。
そうだ。私も数日前同じことを聞いた。私も聞いていたではないか。
「そのときの桑田先生の怯え方が尋常じゃなくて、まるで本当に銅像が動いているのが見えてるみたいな……。でも、そんなことあるわけないし……。席に座らせてお茶をあげたら、なんとか落ち着いたみたいだったんですけど……。でも、あれはなんだったんでしょう? どうして、桑田先生はあんなことを……」
私はなにも答えることが出来なかった。
それから三十分経ってようやく解放された。
職員玄関を出ながら、私は考えていた。
あのとき、私は桑田が具合が悪いか、疲れていて一時的におかしな幻覚を見たのだと思っていた。しかし、もしそうであるならば、別の日にも全く同じ幻覚を見るということがあるだろうか。
桑田は殺される直前にも、銅像が自分の方へ歩いてくる幻覚を見ていた。この点が妙に引っ掛かる。
私の脳裏に、あるひとつの考えが浮かんでいた。あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだが、もし本当だとしたら恐ろしいことだ。
あの銅像は本当に動いたのではないだろうか。なぜか私には見えなかったが、桑田にはそれが見えていたのではないだろうか。だとすれば、あのとき銅像は確かに私と桑田の方へ向かってきていたのだ。
桑田を殺したのはあの銅像だ。あれが動くのだとしたら、人を殺すなど造作もないことであるに違いない。銅で出来た腕に思い切り殴られれば、人間の骨など簡単に砕けてしまうだろう。シャベルを原型も留めないほど折り曲げることなど、容易であるに違いない。
一体、私はなにを考えているのだ。そんなことあるはずがないではないか。
しかし、私の頭の中はその説を信じ始めていた。そう考えればすべてのことに納得がいく。
いま、私の目の前にその初代校長・倉数正義の銅像が立っている。私は恐る恐るその銅像を調べてみた。銅像は、普段通り厳めしい表情を浮かべながら、堂々とした姿勢で立っている。いつもと違うところがあるわけでもなく、血痕がついているわけでもない。
やはり思い違いだろうか。
銅像の肩のあたりを見て、私はハッとなった。そこに白くて細い筋が通っている。まるで何かに傷つけられた痕のようだ。よく見ると、腕や胸、頭のあたりにも同じ筋がいくつかついている。
これはシャベルで殴られた痕ではないだろうか。私はそう考え、全身に鳥肌が立つのを感じた。
中年の刑事が言った通り、桑田はあのシャベルで抵抗したのだろう。しかし、硬い銅像相手には全く歯が立たなかったに違いない。
私は凄まじい恐怖に駆られて走り出した。
もし、この想像が本当だったら……。
そのとき、背後で気配を感じた気がした。私が背を向けたのを確認して、銅像が動き出す。そして、走る私に向かって一直線に歩いてくる。
私は振り返らなかった。振り返らずにそのままバス停まで急いだ。バスを待っている間、生きた心地がしなかった。
バスを降りてからも、私は走った。一刻も早く自宅にたどり着きたかった。
走ってマンションまでたどり着き、階段を勢いよく駆け上がった。自宅のドアを開け、中に入り込んだときは息も絶え絶えだった。
「あら、どうしたの。そんなに疲れて」
台所に立っていた妻が訝しげに私を見た。
同じ職場の教師が殺されたという話を聞いて妻は大層驚いた。事件の詳細を語っていくにつれ、どんどん顔色が悪くなっていった。
「信じられないわ。人間のやることとは思えない。一体誰がそんなことを……」
私は押し黙った。
銅像のことを警察に話すべきだろうか。しかし、そんな話誰が信じてくれるだろう? ただ、頭のおかしい奴だと思われるだけだ。
そのとき、階下でドシン、ドシンという大きな音が二回続けて響き渡った。音とともに、わずかに振動が起きた。
「なに、今の?」
私の頬を冷や汗が流れ落ちた。手が震えだし、全身から血の気が引いていくのを感じた。
やがて、マンションの階段をなにかが勢いよく駆け上がってくる音が聞こえてきた。
スティーブン・キングっぽさを意識してみました。
銅像が動きだして……なんていかにもキングっぽいですよね。