深愛の勾玉①
「ねぇ、アキヤマくん」
とても懐かしい声。優しくて、人を包み込んでしまうような、柔らかい響き。
「なんだよ。ミサ」
アパートに響く俺の声。昔と同じボロアパートの一室は、むしっとしていて不快指数高め。
「今日の晩御飯、なににする? アキヤマくんの好きなハンバーグがいい?」
「ああ、それで頼む」
なんで俺は日常っぽい会話なんか堪能しているんだ? さっさとこの幻影を振り払って先に進まないと。サラの心臓を手に入れて、救わないといけない奴がいるんだ。
俺はミサに目をやった。後ろで髪を一つくくりにした優しい目つきの女性。眼はくりっとしているが大きくはなく、声は細く、高い。
「ミサ、なんでこんなところにいるんだ?」
それは暗に、お前は幻影か? と訊ねたつもりだった。
「なんでって、アキヤマくんと付き合っているんだから、アキヤマくんのアパートにいるのってそんなにおかしなこと?」
「や、それはそうなんだけど」
かわされた。
窓から差し込む夕日から察するに、今日は休日で、それも仕事が休みな特別な休日なのだろう。
「あのさ、俺、仕事……」
「仕事のことはいいの。次の仕事を探すのはもうちょっと先でいいから」
ミサはにっこりと笑うと、六つの畳を並べた部屋を歩き、冷蔵庫に向かった。中から麦茶を取り出し、ガラスのコップに注ぐ。
「それまでは、私が働いてアキヤマくんを支えるからさ」
「あ、ありがとう」
どうなっているんだ? これは俺の過去を投影しているんじゃないのか?
辺りを見回す。
昔と同じ俺の部屋にはろくな家具もなく、本棚には技術書が乱雑に置かれている。机の上のパソコンにはびっしりと付箋が貼られていて、家まで仕事を持ち帰っていたのがバレバレだ。
しかし、昔と違って片付いている。ゴミが圧倒的に少ない。ミサが来ない日があると、すぐに散らかしてしまっていたのだ。布団のそばに大量に置かれているはずのエナジードリンクの缶もひとつもない。
そうか。俺は仕事を辞めることができたんだ。
ミサがお茶を俺の座るソファまで持ってきてくれた。俺はそれを受け取って飲んだ。冷えた麦茶がのどを通り抜けた。
「ミサ、これって幻影なんだよな?」
直球。通じるかは未知数。
「幻影? なぁに? アキヤマくんが冗談いうなんて珍しいね」
「違うんだよ。俺は真面目な話をしているんだ。俺は異世界に転生して、今はサラって魔女の心臓を取り返すために洞窟の奥深くに冒険している最中だったんだ」
「へー、面白そうな話。ネット小説でも書いてるの?」
ミサはころころと笑って、自分もお茶を飲んだ。
「あ、そうだ。この間親戚のおばさんからもらったお茶菓子があるんだ。確かあのへんに……」
「ちゃんと話を聞いてくれ。ミサ」
ミサは動きを止めた。浮かんでいた笑みは消え、俺をまっすぐに見据える。
「なに? 仕事は私がするからしばらく休んでいていいって何度もいってるよね?」
「違う。その話じゃない。第一俺は逃げだすことすらできなくて、樹海で自殺を試みたんだ」
「ちょっと、そんな冗談はさすがに笑えないよ」
「笑えないジョークじゃない。これは事実なんだ」
俺はミサの肩を捕まえて、彼女に告げる。
「俺が自殺を試みる前に、俺とミサは別れたんだ。忘れたのか? 俺は最低な男だから、お前と一緒にいることもつらくなって、一方的に別れを告げたんだよ」
ミサは何もいわず俺と見つめ合っている。
しばらくの沈黙の後、
「あ、そう。そうだったね」
と彼女はいった。
ふと、窓ガラスから差し込んでいた夕日が一気に消えた。
時刻が夜へと変わっている。顔を戻すと、ミサはキッチンに立っていた。
「ちゃんと死ななきゃだめじゃない。自殺もろくにできないなんて、アキヤマくんって本当になんにもできないんだね」
違う。ミサは絶対にこんなこといわない。
「私はいっつもアキヤマくんの尻ぬぐいばっかり。でもそれが私の役割なんだよね。だから、私は今回も役目を果たすよ」
ミサは右手に包丁を握っていた。俺は目を見開く。そうか、ここからが本当の試練というやつなのか。
「なにをするつもりだ」
「なにって、自殺のお手伝いだよ。嫌なら、私を殺せばいいんじゃないかな? 自然界はいつだって食うか食われるかなんだよ」
いつのまにか、ミサの声は邪悪な響きに代わっている。柔らかく優しい声色は消え去り、低くどすの利いた声へと。
「お前は本当のミサじゃない。そんなことすぐにだってわかる。」
「でも、今のアキヤマくんになにができるの? 契約したドラゴンも一緒に来てくれてないし、魔導書だって持っていないんだよ?」
ミサにいわれて初めて気づいた。髑髏の眼窩に入るときに持っていたはずのリブロがない。この場合、どうやってミサを倒せばいいんだ?
「これで私も恨みを晴らせる。両親に紹介までしたのに、急に逃げられて恥をかかされた私の気持ちがわかる?」
ミサは突撃してきた。駆けて、包丁を突き出す。俺は左側にこけるようにして避けた。ミサの殺意は本物だった。ポニーテールが動きに応じてダイナミックに跳ねた。
「まあ、待て。ゆっくりしようぜ。その茶菓子でも食いながらさ」
「幻影だのなんだのいいだしたのはアキヤマくんでしょ?」
ミサは顔を引きつらせる。小さな眼は吊り上がり、憎悪を込めた瞳で俺を睨む。二撃目。包丁をひと突き。俺の頬をかすめる。頬から血が流れ出た。
「お前を倒せばこの幻影は解けるのか?」
俺は訊いた。
ばか正直に答えてくれるとも期待していなかったが、訊くだけ訊いてみるかという気持ちだった。
「私を殺せば、私の幻影は消える。でも、そんなことアキヤマくんにできる? 物理的にも、心理的にも」
俺はちらりとキッチンに目をやる。もしかしたらミサと同じ武器があそこに転がっているかも……
「キッチンには包丁は一本しかないよ」
先んじてミサが釘を刺す。
「忘れたの? アキヤマくん料理なんてしなかったでしょ。包丁も念のためにって一本置いてただけで、新品同然だったじゃない」
よく喋る。昔の恋人の姿で現れる敵というのはお約束というものだが、やはり戦うのはつらい。おそらくは彼女が持っている包丁を奪い、逆に刺し殺すのがこの場合の勝利条件なのだろうが、俺にトドメを刺す勇気があるかどうかはわからない。
「そう……だったな。すっかり前のことだから忘れてたよ」
「あれからどれくらい経ったと思う?」
ミサは責めるようにいった。
「はは、忘れたっつったろ」
これはミサじゃない。
もう一度自分にいい聞かせ、目の前に包丁を持って立つ女と対峙する。
俺は今からこの幻影を殺す。
頬にできた傷は少し痛む。それでも威勢を張って俺は右手で頬を拭う。
「俺はお前を倒して先に進む。恨まないでくれよ。ミサの形をしたなにかさん」




