転移
さあ、いざ冒険の世界へ……。
「疲れた……疲れた……もういやだ……なんだって言うんだ。俺が何をしたってんだ」
口の間から自然と流れ落ちる言葉の数々。
「クソ上司、クソ会社、クソ社会。ファッ◯ン世界」
心が悲鳴を上げている。
もはや口からこぼれ落ちる黒い何かを拾い上げるものもなし。
俺の名前は秋山ひろし。
現在29歳。そこそこの大学を出たものの、就職した先はブラック企業だった。人間関係も最悪で、上司も最悪。能力のない人間が上に立ち、無駄な作業を延々とやらせる会社。無駄な風習に、上司のご機嫌取り。
お前らの替わりならいくらでもいるんだぞと脅されること24時間。365日。
逃げようとしても一度ドロップアウトしたらそう簡単には復帰させてくれないこの国、日本。
「あのクソ上司1日かかってする作業を効率化して3時間で終わらしたら楽をするなといってきやがった」
ゴミだめのような自室で発泡酒を啜りながら文句を綴る。
会社に長くいることがまるでステータスかのような言動。そのくせ自分は部下に仕事を押し付け、帰る始末。
結局言われるままクソみたいな作業を長時間やらされ、有給もなく残業ばかりの生活。仕事を辞めても先は見えない。貯金もなければ次の仕事が見つかるまで生き延びることもできない。
そもそも転職しようにも転職先はなかなか見つからない……。
「このまま生きていても仕方がない。言われるがまま働かされ、クソのような上司にこき使われ続けるなんてくだらない人生だ。いっそ死んでしまおうか?」
空き缶とカビに囲まれた布団の上で、気づけばそんな言葉が零れ落ちていた。
会社の問題は生活にまで支障をきたし、全てがうまくいかなくなった。
何もかもに、絶望した。
上司に罵倒される度に酒を飲み、口を零しては部屋を汚している。片付ける人もとっくにいなくなった。
ある日、コンビニで買ったビールを啜りながら、自殺スポットとして名高い樹海に向かって歩いている自分がいることに気がついた。
自殺の方法をいろいろネットで調べた結果、せめて人に迷惑のかからない死に方を選ぼうと思い、一人で樹海へと向かったのは何日のことだったか。それさえも覚えていない。
親からこっぴどく、「人に迷惑をかけるな」と言われて育ったものだから、こんな時までそれを守っているのはおかしな話だと俺は自分をせせら嗤う。
東京にある自宅から電車を乗り継ぎ、有名な山の麓にある樹海に入った。
そこから俺はあてもなく歩いていく。生暖かい風と少し湿って柔らかい土を踏みしめる度に吐き気を催した。
俺は樹海の入り口に自殺を思い止まらせようとする看板があることに気がついた。
『君だけの命じゃない』
その文字が看板には書かれていた。
「君だけの命じゃない」か。
「はははははははははは」
自然と笑い声が止まらなかった。
俺は自分のためにすら死なせてもらえないのか。
「これじゃ思いとどまらせるどころか、絶望が深まるだけだろ」と笑いながら俺は先へと進んだ。
ふらふらと樹海を歩いているとすぐに歩いている方向が分からなくなった。
「ははは。これでもう帰ることもできない。最後の晩餐と洒落込もうか」
俺は独り言つと、死ぬからといって限度額いっぱいに借りたお金で買った高級な肉をバーナーで焼き、中古車ぐらいなら買える値段の酒とともに味わった。
「肉はうまいな。俺をこき使っていた連中はいつもこんなもん食ってたのか。こんなもん食えるならもっと生きられたかもな。でも、酒の味はもうわかんねえ。今はただ、コンビニで売っているビールの缶がただひたすらに恋しい」
少しの後悔が浮かんで口から漏れ出していく。しかし、ここはすでに樹海の中だ。出ることは叶わないし、借りたお金を返すあてもない。本当に死ぬのをやめるつもりもさらさらなかった。食べ終わるとそのままふらふらと樹海の中を再び歩き出した。
2時間ほど樹海を彷徨っていると、俺は不思議なものを見つけた。木の幹の裂け目がよくわからない色に変色している。これまで見たことのないものだった。
「なんだ、これ? 気持ち悪いな」
俺は呟きながら顔を近づけた。よく見てみると、表面は水のようになっていてゆらゆら揺れている。見たこともないような鮮やかな色が混ざり合っているような色で、一体それが何なのか、想像もつかなかった。
触るのも気持ち悪い。
これから死ぬって時に、わざわざ得体の知れないものを触る気力もなかった俺は、そこを立ち去ろうとした。
どうせ死ぬ俺には関係のないことだからと。そう思い、一歩を踏み出した。
その時。
俺は地に伸びていた木の根に盛大に足を引っ掛けた。
「うおっ!!!」
バランスを崩し、ちょうど木の幹の裂け目の方にこけそうになった。まさか日頃の運動不足がこんなところで不利に働くとは。
今から死ぬのにこけることを機にするって言うのも変な話だけど。
そんなことを考えると笑いがこみ上げてくる。
「はは……我ながらどんくさ……」
なんとか木の凹凸に手をかけることでギリギリバランスを取り戻し、俺はなんとか踏みとどまった。
しかし。
ぬかるんでいた地面で足が滑った。先ほどの努力は叶わず、裂け目に思いっきりぶつかった……と思った。
が、衝撃は思っていたほどなく、水に入るような感覚だけがある。
ぽちゃん。
そんな音がしたような気がした。でも水なんて近くにはなかったはずだ。近くにあったのは木の裂け目ぐらいだった。
「あれ? 水? でも息は出来る?」
俺は必死に手足をもがいて見せた。が、抵抗はまるでない。
それは不思議な感覚だった。
目の前は真っ白で何も見えない。
何も聞こえない。
何も感じない。
俺は死んだのではないか、そう思ったりもした。しかし、そんな状態がしばらく続くと、突然目の前が開けた。
そして。
俺は気づけば顔面から地面にぶつかっていた。
「いててて!! 顔面から行くとは……」
俺はそう一人で痛がってみたものの、今の現象の理由がわからず周りを見渡した。
あたり一面に広がっていたのは、見知らぬ土地。
さっきまでいたはずの樹海はどこへやら。
「は……?」
思わずそんな声が出た。
周りをよく観察してみると、ヨーロッパのような街並みである。赤いレンガ作りの建物が目に入ってきた。
「おいおい、どこだよここ。財布の中からっぽだし携帯とポータブル充電器と水しか持ってないぞ……」
俺はそんな文句を言った。
もとより死ぬ気だったのだ、持ち物はほとんどなかった。自分の家にあったものはほとんど処分してきたし、死ぬときに不必要なものを持っていっても仕方ないだろうと思っていたから。
しかし、立ち尽くしていてもラチがあかない。
俺は街の中を探索してみることにした。
街は見たことのあるような、ないような感じがしたが、歩く人は皆動物の耳が付いていたり、尻尾が生えていたり、普通の人間の姿をした者もいた。
「は? ここはコスプレ会場か何かですか……?」
思わずそんな言葉が出た。
まるで年に二回東京で行われているオタクの祭典にいるような感覚。いったい何が起こっているのか、理解しようがない。街の人に話しかけても、言葉が通じない。
英語なら多少はできるのだが、聞いたこともない言葉のようで、何を言っているのかわからない。とりあえず状況を整理しようと、静かな街の外に向かうことにする。
外に出る途中、街を囲う壁の門番が話しかけてきたが、言葉は通じないのでジェスチャーで大丈夫と伝え、強引に出てきた。(伝わったのかはわからないが)
そして街の外に出て、あたりを見渡すと、山、草原、森と自然に囲まれていた。
「本当どこだ? ここ……」
俺は呟きながらあたりを見渡した。
街は外壁で覆われていて、今街から出てきた大きな扉が近場で街を出る唯一の方法だったようだ。しかし外壁で覆われた街……なんだかゲームみたいだ。周りの様子を見ながら歩いていると、いつの間にか森についていた。木は普通の西洋に生えているような針葉樹で何もわからない。
動物を見れば何かわかるかもしれないと当てもなく歩くが、人の気配に察してか動物は見かけられない。
しばらく歩いていると何やら藪の中からガサガサと音がする場所があった。ドタバタと相当何かが暴れている様子で、しばらく見守っていると、何かがそこから飛び出してきた。
「これは……!?」
目を凝らして見ると、スライムのような丸っこい物体が目の前にあった。ポヨポヨと跳ね回っている。
「何だお前!?」
俺は警戒してそう声を出したが、よく見るとその物体は何やら傷だらけのようだった。
「お前……怪我してるじゃないか……」
俺が声をかけると、その物体はこちらに気づいたのかプープーと鳴いた。
「威嚇している……のか?」
時を同じくして、藪の中から犬のような生き物が出てきた。犬のよう、というのはその通りで、犬にしてはみたことのない犬種だった。ちょっと犬とは違う……?
「犬……? じゃないなちょっと形が違う……狼……にしてはちっさいな」
その小さな獣は何やら丸っこい物体を狙っている様子だった。
「おい! 弱いものをいじめるのはやめたらどうだ?」
俺は丸っこい物体の前に立ち塞がり、犬みたいな生き物を追い払おうとした。
「ほら、しっしっ」
そう言いながら手であっちに行けと伝えた(つもりだった)。
しかし、そんな俺の勇姿も虚しく、その生き物は全くこちらのことは恐れていないようで、むしろガウうううと野太い鳴き声を出してきた。どうやら機嫌を損ねただけのようだった。
そいつは牙をむき出しにして襲いかかってきた。しかし、何せサイズが小さい。チワワを少し大きくしたぐらいの大きさだ。襲いかかってくるのを足で追い払おうとすると、クリーンヒットしてしまった。
ドガッという鈍い音が鳴った。思った以上の勢いで蹴りが入った形になり、犬のような生き物が吹っ飛ぶ。
「あ。悪い」
その生き物は俺に蹴られると、元気なく横たわりクゥーンと鳴き声をあげた。
「いや。こんなにするつもりはなかったんだ、すまんな」
言葉がわかるかわからないが、とりあえず謝っておき、すぐその場を立ち去ろうとした。
しかし。近づいてくるのは何かの足音だった。
「もしかして……ッ!?」
もしかしなくても、そいつと同じような生き物がわらわらと集まってきたようだった。しかもそいつらはさっきのとはサイズが全然違う。ゴールデンレトリバーぐらいある。
「これ見たらこっちが弱いものいじめしてるように見えますよね〜〜……?」
意味のない弁明をしながら襲いかかってくる前にと、さっと丸い物体を抱えて走りだす。
「やばいやばいやばい死ぬ死ぬ死ぬ!!!」
俺は叫びながら必死に走った。
さっきまで死のうと思っていたのに、いざ死にそうになると生きようとしてしまう。犬っぽい獣十匹ほどに追いかけられ、なんとかギリギリで逃げ続けていると、木の根に足を引っ掛けてコケてしまった。
「くそっ、絶体絶命かよ……!?」
こけた拍子に丸い物体はコロコロと転がっていってしまった。
万事休すかと思ったその時、さっき転がっていった丸い物体がこちらに帰ってきて、俺をかばうようにして獣たちの前に立ちふさがった。
しかし、さっきまで小さい獣にさえ勝てていなかったので、またすぐにやられてしまう。その丸い物体は大きい獣の爪でひと撫でされるだけで吹き飛んで俺の前に戻ってきた。
「お前……弱いのに俺を守って……くそ、お前だけは守って死んでヤラァ!!!」
やけくそだったが、そう言うと俺はその丸い物体を抱え込み、かばうようにして体を丸めた。
あとはどう攻撃されようと死ぬまでこの体勢でいようと。獣たちは遠慮せず、たちどころにあらゆる方向から攻撃してきて俺の体はすぐに傷だらけになった。
「うわああああくそぉ、いてぇッ!!」
思わず大きな声が出る。
俺の死ぬ気というものがどれほど覚悟のないものだったのか、こんなに早く実感することになるなんて。思いもしなかった。
しかしそんな俺の思いも構わず、獣たちは構わず攻撃してくる。傷は広がっていき、肉がえぐられていく。血がたくさん流れ、身体中があったかくなった。意識も遠のきそうになり、このまま死んでいくのかー、と心の中で思った。その時だった。
「…………!!!! ……!!」
バァン!!!!
大きな声とともに目の前に小さな爆発が巻き起こった。何を言っているのかは聞き取れなかった。獣たちはそれに驚いて何匹かは退散していったようだった。しかし、一番大きな、群れのボスと思われる個体は逃げなかった。
「……!! ……!!」
もう一度、今度は大きな獣に爆発が直撃する。さすがに痛手を負ったのか、残りの獣たちも退散していった。
見ればそこにいたのは、俺を助けてくれた人物というのは、薄茶色の汚れた服を着た猫耳の少女だった。その少女はこちらに何かを言ってきた。
「…………!!」
しかし何を言っているか全くわからない。
ぽかんとした顔をしていると、少女は言葉がわからないことを察したのか、ネックレスのような何かをつけると再び話しかけてきた。
「なにを大事に守ってたのか知らないけど、命より大切なものはないと思うのです」
少女がそう説教を始めそうな雰囲気を出したところで、安心して体の力が抜け、倒れると、俺が守っていた丸い物体が心配そうに寄り添ってきた。
どうやらその少女は俺が何か大事なものを取られないように守っていたように見えていたらしい。まぁ当たらずとも遠くはないが。
「プニリン!? 魔物が人に懐くなんて。というかこの人は一生懸命に魔物を守っていたのです……? この人は一体……」
少女がそう言った後、俺の意識は途切れた。
野獣との戦いで多くの血を流してしまい、体力は限界だったのだ。少女が颯爽と助けてくれなければ、今頃は死んでいたはずだったのだろう。
そう。
それが、恩人の猫耳少女との出会いだった。