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越中市八尾町妙川寺:やわやわ

「前オーライ。あと3メーター、前オーライ」

 じりじりと、『イエローカード▼』とフレームに書かれたコンテナが押し込まれてくる。会長は電車の横に立ち、高く挙げた右掌で招いている。左手にはスマートフォン。テロ対策でトランシーバーが規制されてからはこういう場面でもスマホが活躍している。電波の届かない地下や山奥ではメガホンの他に規制対象外のbluetoothが利用されている……ザル規制である。

「あと1メーター。やわやわ、やわやわー」

 唐突に富山弁が飛び出した。奈月ちゃんの生命線でもある、非常に重要な富山弁だ。

 富山県は血管イベントでの死亡率が本州でもっとも低い県である。この『イベント』の意味はゲーマーなら誤解なく通じますよね。血管絡みで何か発生することが少ない。決め手は『やわやわ起きていかんまいけ(ゆっくり起きようじゃないか)』というローカル標語だ。日本人が好むスパッとした起き方は血管イベントを招きやすく、富山だけが経験的に回避法を知っていた。特効薬があるのか調べに来た鹿児島県が『やわやわ』の概念を持ち帰って広めるまでは、本州一どころか日本一脳卒中の少ない特異点だった。他県民の皆さんも死亡エンドのCG埋めたい時以外はやわやわ起きるがいいよ。

「止まれっ止まれー。はいおっけー」

 掌で押し留めるジェスチャーからぐっと握る会長。指揮に従い、コンテナと電車が軽くぶつかる。

「ブレーキを繋いだら発車するから……、乗っておいてもらえるかな」

 彼女はホームに手を突くと、残響を置いてひょいっと飛び降りる。驚異のサスペンション性能。路面電車じゃないんだから、ホームは高さ1m程あるはずだ。手伝いましょうかと申し出てこれを降りるように言われたら、僕には無理である。


挿絵(By みてみん)

 黒ずんだ木目調の、どうも本当に木製っぽい内装は良く言えばレトロ。天井に不思議な天窓付きドームがあって光を落としている。天体観測用だろうか……。フォトジェニックではある。

 希羽は画家のコスプレと自嘲するベレー帽を被って、スケッチブックに鉛筆を走らせている。こんな姿を見るのは久しぶりな気がする。最近は写真を撮ってパソコン上でなぞるテクニカルなお絵描きに切り替えているようだったから。対面に奈月ちゃんがちんまり座っておとなしく描かれている。ちらりと視線を上げたマイ妹の口許がマスク越しに小さく動く。

「え、何て?」

「兄さん。ドア閉めて。光線状態が……」

「ごめん。……でも、そろそろ出発だって」

 伝えると無言で心持ち筆を早める。背後に回って邪魔にしないよう覗いてみる。寝かせ切った鉛筆でざっとなぞるたび、塗り残した光が浮き立っていく。これは確かに、射し入る光に文句を言うはずだ。帰って定着剤ヘキサチーフを吹くまでに真っ黒にならなければいいんだけど。面白くなさそうな、面白くなくもなさそうなニュートラルな顔つきで座っている奈月ちゃんは、絵の中ではほんのり微笑を湛えている。

 バシュ、と景気良く鳴り響くエア音。外を見れば、ホーム上に復帰した剱会長が腕をくるくると打ち振っている。

「現生2延べ5換算7.5、はい。はいー」

 暗号で通話しながら乗ってきて、ドアを手動でごろごろ閉める。

「皆乗っているね? 出していいかな」

 希羽は一瞬天井を仰ぐ。素人目にはスケッチが出来上がっているように見えるけど、少し時間が足りなかったみたいだ。会長にぺこりと頭を下げる。

「車内の写真、撮らせていただけませんかっ」

「ん? 構わないよ」

「助かります!」

「ベガプルートは撮影NGだが、それまではご自由にどうぞ」

 希羽はささっとコンデジを引っ張り出す。近年とみに写真嫌いになった奈月ちゃんがさり気なく立ち上がって避難してきている。

「兄さん。奈月姉さんの代わりに座って」

「はいはい」

 抗弁してもいいけど、背丈が近くて代用になるなんて屈辱的な言葉を添えられる前に座ってしまおう。

「その絵、描き上がって取り込んだら送ってもらえない?」

 奈月ちゃんが撮らせてくれないから秘蔵のアルバムが止まってしまっているんだよね。

「……兄さん絵に興味ない……よね?」

「なくはないよ」

「そう……?」

 希羽は何か言いたげなところを飲み込んでシャッターを押す。そうだね、第一義的に用があるのはモデルの方だ。でも、可愛い妹が描いた絵に対してモデルにしか興味がないと言い放つ気もないよ。


「監視の仕事があって到着までお相手できないのだが……」

「ええ、お構いなく」

 イエローカード受けた薬品を転がして行くにはこう、なんか役割があるんだろう。取扱主任的な。

 電車は軽く揺れて動き始めた。引っ張られるだけでモーターの音がしないから、その道の技師である奈月ちゃんのパパに言わせれば電車じゃなくて汽車かもしれない。マニアはこういうとこうるさいんだよな。

 さて立地からすると、工場や会長宅も比高10m程はある崖の上に位置している。ゲームならマップの位置ズレを利用して垂直ワープできる条件が揃っているけど、現実は非情である。道路でさえ直登できない高度差を線路は登れないからおとなしく段丘崖と並走するしかない。しばらく飛越線の脇を北上し、突然ぷいと急カーブで別れて用水路に沿う。ちょうど崖が掘割のように削り込まれている地点だ。

「ははー、そう来ましたか」

「……」

 独り言に反応して奈月ちゃんがじっとり視線を送ってくる。口を開きかけて、そのままつぐんだ。どうしてそこで諦めるんだよ。訊いてよ。語らせて!

「……ひとりで納得してないでちゃんと説明しなさいよ」

 しばし見つめ合うと、根負けしたように彼女は促してくれる。

「語っていい? ルート取りが必然で上手いなーって話なんだけど」

「ふぅん。川の跡を遡っていくのね?」

「うわ、先に言われちゃった」

 ちらりと車窓を一瞥しただけで、僕が順を追って出した結論をあっさり弾き出す。彼女はお星さま志望で地上の瑣事に関心が薄いけど、惑星地球科学の範疇に入る自然地形はさくっと読み解いてきた。語り合えて楽しいと同時にちょっと悔しさも感じていた。

 今から通っていく掘割状の凹地は多分、上位面に降った雨を集めて流れ落ちてくる小川だったところだ。卓状の高地が途切れる部分はだいたいそういう成り立ちである。長い時間をかけて水が掘り下げた緩やかなスロープに、小川の名残の用水路、それから道路と線路を並べて、段丘上へのアプローチとしているわけだ。

「昔の人は必ず水辺を選んで住んだはずだから、川沿いに線路を敷けばちょうどお宅に着くと思うんだよね。上手くできてる」

「はー……。よくそこまで考えつくわね」

 ふるふる首を振って、奈月ちゃんは呆れ半分感心半分の感想を投げてよこした。よし勝った。


 県道との交差で一旦止まり、剱会長が降りて行ってチェーンをじゃらじゃら上げた。プリミティブにも程がある。

「日本にまだこんなところがあったのか……」

 思わず口に出てしまった言葉を同行した妹に失礼だと咎められた。北陸新幹線だのベガプルートだので浮かれていた我々は改めて富山の奥深さを噛み締めていた。まあ富山は鐘も竿もない危険な踏切が埼玉(秩父)の次に多いとかで問題になっているから、列車の方を止めて人力で交通整理するのはひとつの解なのかもしれない。汽笛一声、電子ホーンじゃない本物の空気笛が窓を震わせる。通過後はそのまま止まらずに走り、置き去りの会長はというと、チェーンをぱっと落として封鎖を解除したら追いすがってひょいと乗り込んでくる。機動性の高い人だ。

 『線路内を耕作しないで下さい』と立札が車窓を流れていく。富山県民は線路を耕した歴史があるからね、仕方ないね。上市線路耕作事件。庄川流木争議や滑川電球返還運動と並んで県内では有名なデモクラシー運動のひとつだ。富山の社会科副読本には、線路を剥がして植え付けられた苗の写真が『農民が鉄道を破壊し田植えを行った現場』なんてじわじわくるキャプションとともに載っている。加賀と天領飛騨を相手に正攻法で訴えても無視されることもあり、昔の越中国民・富山県民はよく強硬手段に出た。今はそうでもない。そういう抗争に負けすぎたせいだろうか。

 やがて防風林の並ぶ脇を通り過ぎ、タンクがぞろぞろと連なった工場前に滑り込んだ。濃硝酸専用、濃硫酸専用、カセイソーダ液専用、プロピレングリコール専用……。タンクごとやりとりしているようで、描いてある会社のマークはさまざま。地元越中市でおなじみ剱薬化の剱岳や月産化学の速星マークだけじゃなく、HEXマスに雪うさぎさんが入った月曹高岡のファンシーなのも見て取れる。

 ちなみに、月を冠する社名が多いのは二次大戦……じゃなかった、大東亜解放戦争になったんだっけ、戦後のある時期の風潮だ。財閥解体の際、『帝国』『大日本』『日本』への風当たりをやり過ごすために改名が流行したもの。日の栄光を受けて輝く意味を潜ませたと言われている。案外、終戦直後は日本の名をかなぐり捨てたい気分だったんじゃないかとも思うけど、それは今のご時世では禁句だ。


「なんだか見覚えが……」

 倉庫のおまけのようなホームに降り立ってタンク群や建屋を見やり、希羽が目をしばたく。社会見学で来たからじゃないかな。

「ドラマか特撮で見たんじゃないかい。昭和35年蒲田操車場になったりしているよ」

「あっ、きっとそう、です……」

 ロケを受け入れてましたか。化学工場なんて富山まで来なくても川崎や鹿島や市原・千葉で撮れそうなものだけど、時局柄、京浜工業地帯や京葉工業地域では撮影許可が降りないんだろう。工場萌えの夜景鑑賞ツアーも、いい見学ポイントを紹介するものから視点を制約する役割に変わっている。

「あんまりロケ地アピールしてないんですね?」

「フィルムコミッションの実績には載っていると思うが、巡礼に来てもらってもお接待する人手がないよ」

「お遍路さんじゃないんですから」

「歓迎するにも警戒するにも手はかかるさ」

 会長はいかにも越中市民らしく観光需要をばっさりと捨ててみせる。まあ、こうして劇薬のタンクがごろごろしている現役の工場だからね……。硝酸ニトロのまち越中市らしく硝酸薬ニトロだってラインナップに入っているのだ。上市の花の家みたいに人手がなくても見学自由という公開方法を採れないのは仕方ないところだ。

「どうする? 先にベガプルートをひと目見ておくかい」

「見たいですけど、見たら絶対ひと目じゃ離れられないと思うんですよ。お預けでご飯にしませんか」

「了解。まずは腹拵えにしようか」

 戦でも始めそうな表現で頷くと僕たちを防風林の方へと促す。屋敷林というやつで、有名な出雲の築地松と同じく、家を局地風から守るために付属しているものだ。戦時にだいぶ供出されて減ったそうだけど、それでもよく残っている。足元を埋める植え込みには薄桃色の花が集まってこぼれるように咲いている。仄かに清冽な香りを漂わせる、小ぶりのアジサイ。合間からスミレっぽい花も顔を出している。

「ふわぁ、素敵な沈丁花……!」

「香ると春を感じるよね」

「香ってるんですね」

「……なんかごめん」

 希羽と会長が女子力の高そうなトークを繰り広げている。実のところ、必要に迫られた知識でもある。希羽はスギではなくカバノキ科・バラ科花粉症という少し珍しい花粉症だ。虫媒花で花粉の飛ばないバラ科植物は近寄らなければ無害な分、見分けて避けるスキルが重要になってくる。自衛のために草花に詳しくなってしまうのだ。


 裏木戸をくぐって垣根の内に抜けた。木々が影を落として薄暗く、きれいに整えられた外側に比べて少々雑然とした印象を受ける。垣根の際にはヨモギっぽいものが生えてちょっとした草むらだ。八重葎茂れる蓬の宿、という言葉が脳裏をよぎった。それは荒れ家を意味する言葉で、立派な日本家屋には当てはまらないのだけども。花の香を打ち消すように、シソか何かの強烈な芳香が漂ってくる。それで理解できた。

垣饒かいにょの原形を残してるんだ……。薬草が植わってる」

「お。そこに食い付いてくれるとポイント高いね」

 かつては、屋敷林に薬草も交えるのが富山クオリティだった。だったというのは、今時は使わない薬草なんか引っこ抜いて見栄えのいい花に差し替わっているのが普通だから。この庭は昔の姿を温存しているんだろう。旧市街から離れた山裾という立地は、剱薬化が薬草を仕入れて町中で販売する薬種商ではなく、摘んで売る生産者から興ったことを意味している。富山テクノポリス計画で工業団地に化けた裏山にかけての一帯が草刈場だったはずだ。

 観光用に残された合掌造りや押し出しの効く三角断面の東発あずまだち様式が分布する県西部に比べると、県央の家の特色は薄い。会長のお宅もそう特徴のない、少し豪勢な日本家屋に見える。裏手なのにしっかりした玄関があるのが少し独特なところだろうか。これは名目としてはお寺さん用の入り口で、庭園散策用も兼ねて富山の旧家にはしばしば備わっている。裏の意味としては災害時の避難口だ。家が半壊しても無事な側から大事なものを取り出せる。富山の古民家を扱った本やサイトを探しても記述が見当たらないんだけど、そう聞いているし、実際、裏から位牌を抜き取れる仏壇なんてのも存在する。あとは、北陸の家に標準装備のサンルーム。冬の間は外に洗濯物を干せないので、日本家屋でもよく見るとガラスに頼った採光バリバリの一角がある。一般の家庭だとポリカ波板やカーポート屋根を使って無理やり設置していることも多く、よく観察しないと分からない状態に作り込んでいるのはお金持ちである。

 蔵は豪雪対策を日常の姿に取り込んだ特徴的な富山式土蔵だ。出入り口に付けた庇の下を囲って部屋にしてある。これは北陸、中でも富山に特徴的な作りだと聞いている。暖地では雨さえ遮れればいい。内陸の飛騨高山だと内廊下みたいなので繋いである。新潟ではかの有名な雁木で家と一体化し始め、さらに北上して庄内地方や秋田まで行けば母屋とひとつ屋根の下に蔵を取り込み始める。そんなわけで、北陸特有だ。しかしこの北陸型構造でもっとも有名なのは観光用に公開されている金沢城鶴丸倉庫で、富山の蔵ではない。チェッ……。まあ、僕もそこで知識を仕入れたんだけど。

 庭の一辺には明かり取りの嵌まった屋根が架かっている。薬草園かと思いきや、下には大昔に廃止になったブルートレイン〈つるぎ〉が鎮座している。電鉄富山駅といい、本当に温室に入れてある砺波チューリップ公園といい、富山県民はやたらと電車を採光屋根の下に入れたがる。これも雪国の特色だろうか。

「何だっけ。こんな風に温室っぽい三角屋根の下におぼろげなSLがいる、印象的に下手くそな感じの絵あったよね。ターナーの機関車だったかな」

 指しながら妹に振ってみる。

「兄さん、当てずっぽう過ぎ……。それはたぶん、サンラザール駅。モネの」

「へぇ? モネって睡蓮と牧草ロール以外も描いてたんだ」

「鉄とガラスと光は印象派の大事な題材だよ……?」

 希羽の言い方からすると常識に近いんだろうけど、関心領域と試験範囲を外れると何も知らないものだ。

「いやちょっと待って、そのりくつはおかしい。そういう時代だとカメラが出てきてるはずだし、あんなぼんやりした絵は売れないんじゃ?」

「ぎゃく。写真が生まれて写実画がいらなくなったから印象派の画風が評価されたの……」

「そ、そうだったんだ。何も知らないもんだな……」

 実は、ベガプルートではこういう文化資本が効いてくる。置いてあるシンプルな概念を個人の感覚質で膨らませるクオリアモデリングだから、イメージが豊饒であればあるほどリアリティが増すことになる。例えば同じ食品アイテムが置いてあっても味は個人個人の持つイメージ次第ってことだ。そのイメージを全体にフィードバックする集合知涵養クラウドカルティベーションシステムも走っているけど、転送量の制約でどうしても大雑把な反映になるそうだ。芸術家の感覚を伝える通信の容量が大きすぎて3秒に1フレームしか動けないとかでは困るわけである。結局、細かいディティールはプレイヤー個人の資質依存になる。希羽の見る世界はきっと僕のより色彩や植生が豊かだろう。

 見ているものがプレイヤーごとに違ってゲームが成り立つのかだが、それは問題ないらしい。ゲーム的には個人の世界観というMOD(モジュール)で表示が変わっているにすぎない。現実世界だって色即是空。見える世界は人それぞれ違っている。しかし路傍の石ころを認識していなくても躓けば転ぶし、赤色が全く違うように見えていてもお互いに赤と認識していれば会話は通じる、だそうで。……ちょっと不安になる話ですね。ゲーム雑誌の記事が哲学に陥っていた記憶がある。

※印象的に下手くそな絵 印象派の語源となった批評。

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