富山市杉谷:じゃあ、ふぁぼる?
明けて土曜日、高速道のインターに隣接する高次医療施設。奈月ちゃんのママに出勤がてら送ってもらった我々テストプレイヤー班はそこで事前のリアルクエストへと挑んでいた。つまり、郊外の大学病院で診断書を書いてもらっている。馴染みの場所だから負担感はないのだけど、ゲームのためと考えると大がかりだ。奈月ちゃんはステータスチェックで引っかかったようで、少し長引いている。
古神通川が押し付けられていた丘の麓に大学病院はある……と説明して分かるのは説明がなくても知っている人だけだろう。富山平野は標高3000mから水深1000mまで直滑降する滑り台の途中に引っかかった扇状地なのだけど、現在の神通川流域にこの土砂をせっせと供給したのは神通川ではない。立山連峰から流れる常願寺川水系だ。昔の神通川は今よりずっとしょぼく、常願寺川水系の怒涛に負け、平野西端の呉羽丘陵に押し付けられるように肩身狭く流れる川でしかなかった。それが河川争奪で常願寺川水系熊野川の川床を乗っ取り、今の富山市中心部を掌握するに至った。ちょうど戦国期で、流路変遷が軍記物にばっちり記録されている。得意の水攻めを仕掛けようとした豊臣軍が逆に増水に飲まれて倶利伽羅峠まで逃げ帰ったりもした。
病院のすぐそばには古神通川の痕跡を示す地形も残っている。友坂の不整合。海底火山由来の凝灰岩が陸地になり古神通川に削られた地形で、神通川をこよなく愛する富山県の手で天然記念物に指定されている。不整合とは断層のことではなく、上下で地層の積もり方が食い違うものを指す。角度とか。上下の層ができた時期に時間的な隔たりがあって途中で隆起や侵食を受けた痕跡だ。地層の前後関係はセンター地学で頻出なので、あの博打科目に挑むチャレンジャーは押さえておくといいと思う。荒れがちな点数がちょっと堅くなるはずだ。
やがて、待ち人はカーディガンの袖を抜いて羽織り、腕まくりした肘の内側を押さえて会計待合に出てきた。こちらを認めるとルーズリーフを軽く上げて小さく振ってみせる。そのまま富山科学のCMになりそうだ。ルーズリーフごとステータスカードを窓口に提出して、気持ち足早に寄ってくる。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「今来たとこ」
「何それ。言ってみたかったの? ふふっ」
僕の隣に腰掛ける。能登半島で言えば穴水あたりにガーゼを押し当てた、生っ白い内腕が妙に艶めかしい。ふにふにしたくなる。胸元にはくすんだ緑ガラスのペンダント。隕石の直撃による灼熱で気化した砂が成層圏まで舞い上がって冷やされ、ガラスの雨となって降り注いだモル鉱石だ。
「私路? どうかした?」
「え、別に。何でもないけど」
「ふぅん?」
少しの間、僕は幼なじみに見蕩れていたらしい。白いブラウスの肩から吊り、胸下で切り返した、ぞろんと長い厚手のスカート。腰を絞った服で強調した胸元にペンダントで視線を誘われたそのまま釘付けになってしまう。本当に好きな子をそんな目で見るなんて許されることじゃないのに、どうしても目が行ってしまう。こんな思いをするなら女の子に生まれたかった……! あ、今からなりたいわけではありませんよ。奈月ちゃんと結婚できないじゃん?
「……病院込みのお出かけでペンダント付けてるの珍しいよね」
「とっても大切な人にもらったものだから、見せびらかしたくて」
「えっと、記憶が正しければ僕だと思うんだけど」
総曲輪フェリアの本屋さんで見つけたときには、これは宇宙好きの奈月ちゃんにあげるしかないと思ったものだ。宇宙空間まで往って還ってきた貴重な鉱石だけども、そうは言ってもガラスなので小学生にも買えた。
「そうよ? ご幼少のみぎりのすっごくかわいかった私路がプレゼントしてくれたの」
「そんな頼朝公のされこうべみたいな大切にされ方は嫌なんだけど……?」
診察の邪魔になりかねない病院に付けてきて誰に自慢したいんだか。幼なじみで何でも通じ合えると思っていたけど、最近彼女の思考が時々分からなくなる。
「それで、検査結果はどうだった、奈月ちゃん」
「ん、ビジネスクラス以上限定だって」
「ビジネスクラス?」
「ほら……SRってプレイ中は体動かせないのよね?」
分かり切ったことを確認しつつ、奈月ちゃんはトントントンとリズミカルに幸せ揺すりをする。
「わたし血管細いじゃない? 座りっぱなしだと詰まっちゃうかもしれないのよ」
「あー……」
「上位機種限定でOKもらえたわ。フラットベッドで血栓防止装置とモニタリング付きのがあるんだって」
これは診断書が要るはずだ。ゲーム機と簡単に考えすぎていた。
実は、人間の心臓には手足に血を廻らせるだけのポンプ能力が備わっていない。手足を動かすときの遠心力を援用している。だから座りっぱなしだと脚に血が溜まって濃くなり、立ち上がったときに流れ出て全身のどこかの細い血管を詰まらせてしまう。これが血栓症。悪名高いエコノミークラス症候群や脳梗塞だ。そうなる前に脚の血行を改善する防衛機制が幸せ揺すりである。古来貧乏揺すりと呼ばれてきたのはこの癖を持つ当主が突然死して傾く家が目立ったからだけど、それは因果の取り違えで、むしろ我慢するから倒れる。
実際の体を動かさないVRでは血栓症の危険は高まることになる。考えてみれば当然だ。そんなことにも気付かずにリスク因子持ちの奈月ちゃんを引き込んだのは不注意にも程があった。
「……ごめん、奈月ちゃん。考えが足りなすぎた」
「償うてください!」
「う、うん……。僕にできることなら」
「そうねー、オンラインゲームに不慣れな初心者の面倒を見させられる刑でどう?」
奈月ちゃんは勝ち誇って言い放つ、ように振る舞ってみせる。僕にとっては何も損のない話だ。僕が望んだことでもあり、誘った以上当然の責任でもある。まるで交換条件のように持ち出してきて、気に病まなくていいと言ってくれているんだろう。……かなわないな。
「会長、その上位機種お持ちなのかな」
「うん。それはあるらしいわよ?」
「ああ、筐体の配置も把握されてるんだ」
テストプレイに行った先で使える機体がありませんじゃ、時間の無駄だよな。医療や福祉目的で期待されているゲーム機だけあって、病院との連携がちゃんと取られているみたいだ。
ややあって、奈月ちゃんの案内番号が呼ばれる。保険適用の自前の用事と非保険のVR向けに分けて支払いを済ませ、クエスト完了印を領収書にもらえば、病院ですることは終わりだ。
「お待たせ!」
彼女は今度はボケられない言い方をしながら戻ってくる。手には爆薬と殺鼠剤、拮抗剤。先発薬とジェネリックの微妙な差も命取りになるので院内処方されている。
そういうのを除くと薬は医薬分業制で、病院の窓口ではもらえない。薬で稼ぐ悪徳病院を許すなと煽って病院と薬局の一体経営を禁止したせいだ。特に大学病院だと大学の敷地に薬局を作れなくてもう大変。希羽の管理薬と点鼻薬は薬局でもらわないといけないのに、ロードサイドの薬局街道まで1km近くある。帰りはバスだから寄りようがない。いくらダラックマのお薬手帳をもらえても、憎しみで作った制度で不便にして管理料まで上乗せされるなんて理不尽すぎる……。
「おひるどうするの?」
「どうしようか……」
一旦家に戻っていると無駄が多いから、今日は外食した足で剱会長宅に向かう予定にしている。まず考えられる選択肢は、北海道から九州まで全国の病院だけに入っている、知られざる巨大チェーン食堂だ。
「日替わりランチは両方フライだったよ……」
待ち時間に覗きに行っていた希羽がベレー帽を頭に載せつつ、マスクの下から億劫そうに告げる。病院に入っているからといって来院者にまで病人食を出すわけではないんだよね。そういうのは院内売店の担当だ。そちらだと、アトピーから腎臓病まで全面対応した除去食がある。食パン1枚100円とかする。
「それはパスね。じゃあ、ふぁぼる?」
「ふぁぼる?」
もうひとつ院内にあるシアトル系カフェは若手のお医者さん用みたいなお値段できつい。頭越しに昼食の相談をした幼なじみと妹の2人は両脇から僕を窺う。
「いいんじゃない、ふぁぼれよで」
僕もショッピングモール行きを追認する。ふぁぼれよには薬局があるからちょうどいい。
病院を出る。携帯電話の電源を入れると早速会いたくて震える。
「何だろ。……会長からメールだ」
がんばれ剱常務、と昨日入力しておいた発信者名が輝いている。
「ひかりさん?」
「誰それ」
「……剱生徒会長でしょ?」
「そんなお名前だったんだ」
「あんたひょっとして……ああううん、選挙のときに見てるじゃない」
そういやそうだな。言われてみれば知っていたのかも。
「何だったの?」
「越中八尾駅まで貨物を受け取りに出るから、時間が合えばピックアップしてくれるって。お昼がまだなら軽食を用意しますってさ」
「ありがたいけどそれ、間に合うのかしら。メール今来たわけじゃないわよね?」
「だね。でもまだ1時間ちょっとあるよ」
ただ、バス停にバスはいない。1時間毎のバスが折り返し待ちしていないと相当待つし、飛越線との接続も特に考慮されてない。乗り換えて向かうとまず間に合わない。
富山は日本有数のクルマ社会だ。雪国の住人は自転車やバイクが使いにくい分よく歩くものだけど、お金持ちな富山県民はとにかく車に乗って、歩かない。岡山県民が自転車に乗る勢いで車に乗る。世帯ごとの自家用車保有台数で全国2位。通勤通学に使う交通機関の分担率も自家用車が全国2位、自転車とバイクがどちらも全国最下位、徒歩が下から3番目につけている。実にきっぱりしている。道路整備率(渋滞しない道路率)全国1位に上り詰めるまで道路を作ったから、最近は路面電車や新幹線をせっせと作っているんだけど、なんせ元が散居村だから電車バスに移行するにも限界がある。バス1本、列車1本で済む範囲は時刻に合わせて活動すれば済んでも、乗り換えが入るともう無理だ。やっぱり富山平野は車がないと暮らせないんだよなー。
こんなときの解決策は1つしかない。僕たちはその方法に従った。