越中市八尾町滅鬼:まいどはやー!
「まいどはやー! わ、真っ暗じゃない」
仲良く連れ立って帰ってきた僕の家。高らかに宣言して、奈月ちゃんが玄関灯を点ける。ごめんくださいという方言だ。古い言葉だけど、冗談めかしてよく使われる。
「はいお帰り、奈月ちゃん」
「ん。ただいま!」
おざなりに言葉を返せば、幼なじみがふうっと相好を崩す。どこに帰属意識があるのか混乱する挨拶。でも間違ってない。夜まで一緒に過ごすように取り決めてある。
父の勤めるトンネル会社は青函トンネルも作った名門だが、プロサッカーにお金を注ぎ込みすぎて一旦倒産している。プロサッカー黎明期に泥を塗ったことでサッカーファンには恨まれているけど、どちらかと言えばこっちが恨みたい。技術を惜しんだ政府から、創業の地富山に引っ込んで再建しろと言って与えられたのが北陸新幹線建設工事だ。僕たち一家は路頭に迷うところを北陸新幹線に生かしてもらったことになる。10年かけて富山県内分のトンネルを掘り抜いた時点でもう大型工事がなくなり、父はさっさと海外に地下鉄を掘りに行ってしまった。母も併せてあちらで仕事を見つけている。つまり、挙家離村する想定だった。でも現地の日本人学校は編入試験の偏差値が68相当で帰国後の進学先はだいたい早慶、旧帝大は年に1人か2人だ。同程度の偏差値で旧帝50人の中部地方高校の方がパフォーマンス高いよね……。そこで僕と妹の希羽の子供2人で日本に残っている。
一方、奈月ちゃんのパパは線路が出来上がってきてからが本番の電車構造技師。北陸新幹線の製造は獲り損ねたようで「SAWASAKIか……」と嘆いていたけど、関連特需や炎上案件の応援だとかでとにかくお忙しい。奈月ちゃんのママも、仕事で家に帰れるように実験田を提供したというのが冗談に聞こえないほどご多忙そうである。
この状況だと奈月ちゃんのご両親のどちらかが帰宅するまで一緒にいるのがお互い安心で無駄もない。共働き社会の富山ではままあることだ。大人不在の我が家に費用を片寄せた方が割り出しやすいから、主に奈月ちゃんがこちらで過ごすことになっている。
富山県は都道府県別幸福度ランキングで例年トップ争いを繰り広げ、日本のブータンと呼ばれる。ブータンがインドからのIT下請けで稼いでいるのと同じく、富山も東京から請けるIT産業が盛んだ。女性就業率は全国1位、世帯収入は2位、貧困率も全国でただ2つ10%を切る。県民は日本一暮らしやすい県と信じて疑わない……雪かきにうんざりした時以外は。ただ、地方の女性就業率というのは農家分が大きくて、そんなにキラキラしていない。働きに出るにしても安月給を共働きで補う面がある。同じ北陸の石川や福井より世帯収入が高くて裕福だけど、同年代の男性同士の収入にすると富山が低いんだよね。とにかく働いて稼ぐのが幸せと定義する都道府県別幸福度ではトップクラス、余暇や文化を重視する世界幸福度基準に直すと全国18位になる。真ん中よりは上。富山で口に出すわけにはいかないけども、そんなところだと思う。
「んー、こんなものかしらね?」
コロコロローラーと荷電粒子砲付きハンディクリーナーを諸手に備え、僕の髪から服からぺたぺたしていた奈月ちゃん。ちょっと首を傾げ、今度は自分の服の上を転がし始める。僕は裏返しに置いてある空気清浄機を強にする。花粉はPM30ぐらいだから、吸わせてやればPM2.5対応HEPAフィルターにあっさり捕集される。
リビングのソファーでは妹の希羽がすっかり沈没していた。県内ではそうそう売ってなさそうなヒラヒラしたワンピースにレースのカーディガンを引っ掛けている。パジャマ代わりにはまったく向かない。昼寝する気じゃなく、着替えて降りてきて力尽きたんだろう。まあしょうがない。アレルギー体質の妹は毎年この時期、花粉症の薬に意識75%カットの状態異常を受ける。スギより遅いこの時期の花粉症はカバ科やバラ科植物が原因と言われている。幸い、チューリップ栽培を支える富山の気候は花粉症患者にも味方する。日本海から対馬海流の水蒸気が上がってきて、雪も降らせれば花粉も湿らせて落とすのですね。まあ全部は落とせない。落とせたら植物が自生しない不毛の地になってしまう。
奈月ちゃんが指を立てて謎のハンドサインを送ってくる。……ああ、はいはい。せっかくよく寝ている希羽を起こさないよう、そっと2階に上がった。
「ふぅーっ」
ぱしゃぱしゃと手を洗いながら奈月ちゃんが大きく息を吐く。振り返って緩く微苦笑。息を止めてまでスニーキングミッションしなくていいのに、というほんのりした呆れを2人で共有する。この融通の利かない真面目さも愛おしくて、失うのが怖い。
揃って僕の部屋に戻る。世界地図の間へようこそ。と気取ってみたけど、改めて見回すと意外に地図ないな……。地球儀と、富山ではどこのご家庭にもある環日本海逆さ地図、アルペンルートのポスターで終わりだ。ペナントからストラップまで全国共通の定番土産物が一通り滅んだ今の世では、一貫性のある地理的コレクションで部屋を彩るのも難しい。集めるつもりはなかったのに道の駅で買うと集まってしまう牛乳瓶が最大のコレクションになっている。
自慢できるのはジオラマだ。町コレの建物を縫うスノーダンサー、アクリルの神通川、芝マットの田圃に化学プラントセット。本来山の中に埋まっているスーパーカミオカンデの円筒も最奥に駐留している。地下1kmと言われる施設だが、標高1369mの山の土被り1000mだから実は標高300mぐらいある。富山平野より高いや。もちろんスーパーカミオカンデは奈月ちゃんが置きたがったものである。思えばこの部屋は随分彼女に染められている。スーツケースデザインの目覚まし時計は南半球プラネタリウム機能付きだし、窓際にはメアデ自動導入望遠鏡が据えてある。壁には彼女の着替えも掛かっている。今日みたいにそのまま上がったときの置き服だ。
「着替えよっと」
宣言した彼女は、そのまま壁際に歩み寄ってジャンパースカートを取り下ろした。くっと背を反らしてブレザーから袖を抜く。シャツの胸元がぴんと張る。ごっそり厚手のジャンパースカートを被り、腰周りを何やら調整すると制服のスカートが中からすとんと落ちてくる。
「私路? 着替えないの?」
ネックウォーマーからちょいちょいと引っ張り出したポニテを手早くまとめ直しながら言う。手櫛で前髪を整えつつ星のヘアピンを調整する。年々アカデミックになってきた彼女の嗜好からすれば、戯画化された☆形はもう子供っぽすぎるだろう。けれど、耐用年数も優に越えていそうなチープなプレゼントを愛用してくれている。
「着替えるけど」
「はい」
ベッドに置いてあった着替えを代わりに渡してくる。
「ごめん、取ってって言ったつもりじゃなかったんだ」
「知ってる。でも要るでしょ?」
幼なじみの気が回りすぎる。
窮屈でたまらない究極超人のコスプレからようやく解放される。スーツも同じようなものだと聞かされると人生に絶望したくなるよね。快適に勉強や仕事をしてはいけないんだろうか。上着を奈月ちゃんが受け取ってハンガーに……ちょっと待った。
「……いや、手伝ってくれなくていいから。恥ずかしいからあっち向いててもらっていいかな」
「いまさら気にしないわよ?」
「僕が気にするんだよ」
「あんたね。人の着替えは瞬きもせずに眺め回しといて……」
「見惚れてただけじゃん!? 人聞きの悪い言い方しないでくれる!?」
「物は言いようよね」
「ズボンはスカートと違って脱がなきゃ着替えられないんだよ」
「そうね。スカート貸したげよっか?」
「要らないよ……」
スカートとヘアピンで見た目女の子に仕上がってしまう僕としては、そういうのは遠慮しておきたい。
「ハイランダーキルトだったら?」
「どうしてそんなにスカート履かせたがるの……?」
高山地帯には男性用もスカート状の民族衣装があるのだ。飛騨じゃなく、スコットランドの高山ね。まったく誰だよ、そんなの教えたのは……僕だった。
こたつで絶望的な量の課題を崩し始める。もちろんエアコンだって稼働している。富山の花冷えは苛烈で、気温10度以下まで平気で下がる。
「私路、そろそろごはんの用意しよっか」
「え?」
時計を見れば、時間が飛んでいる。せっかくだから訊いたり訊かれたりしたいのに脇目も振らずに勉強してしまった……。この集中力が時折恨めしくなる。学習の肝は分かっている人に大掴みで勘所を習うこと、言語化して整理することで、だから分からないところを教え合うと結構パーティバフが乗る。先達はあらまほしきものなり。身につけて反復練習のターンになるまでは、単に作業のようにこなしてしまうと経験値効率が悪い。これは反省点だな。
階下に降りれば、妹がごそごそと起き上がってきた。
「……兄さん、奈月姉さん。お帰りなさい……」
ふうらふうらと頭を揺らすにつれ、左右に結った長い髪が揺れる。奈月ちゃんに憧れて姉妹のように真似ていた時期もあったけど、いつしか分化した。
「起こしちゃった? ごめんね。何かごはんの準備してある?」
「う、うぅん……支度するね……?」
「ん、了解了解。いいわよ、無理しなくて。あんた完全に鈍脳決まってるじゃない。顔洗ってらっしゃい」
「はぁい……」
痒みと脳の覚醒はどちらもヒスタミンという化学伝達物質が司っている。名前通りヒスを司る物質で、花粉症は体がヒステリーを起こしているのです。これを薬で抑えると痒みと一緒に脳のパフォーマンスも落ちてしまう。眠くなる他に、自覚症状なく思考力や注意力が落ちるパターンもあって、こっちは非常にやばい。
対策としては、薬の有効成分に適当な高分子ジャンク基をくっつける手法が編み出されている。脳は大きな分子をブロックするので、高分子にすれば全身で効いて脳にだけ通らないのだ。これが眠くならない薬の原理だ。でも同じ効果を得るための用量は当然膨れ上がってしまい、目薬や点鼻薬では注す量に物理的限界が出てくる。結局、目鼻に来た症状ではおとなしくダウナー化して沈んでおくしかないのだった。
「奈月ちゃん、僕が作ろうか? ご飯」
エプロンを巻く幼なじみに一応申し出てみる。
「え、今? あんたまたネットで見て外国料理作る気でしょ、時間ある時にして」
「ですよねー」
「んーと、冷凍ご飯ないのね。お米2合洗ってくれる?」
「了解了解」
最近、米は研ぐものとネット言語学者がうるさいけども、まず洗うものだ。水を入れて、軽く洗って流す繰り返し。そうしないと糠臭い水を吸って不味くなる。研ぐのはそれからだ。研ぎながら黒いものが見えたらつまんで捨てていく。1粒1粒選るのを美食漫画で知った都会の人はネタだと思っているんだけど、別にそうではない。虫に吸われて欠ける米粒が出るのは避けられない。市販のお米が綺麗なのは色センサーで弾いて、弾いた分は飼料に回すからだ。自家消費用は諸事情でそこまでは徹底しない。魯山人の時代のように目視で取り除くしかない。
希羽が戻ってきて、お箸やカトラリーを持っていく。意識75%オフでもできるお仕事だ。
「洗えたよ。すぐ炊いていい?」
「ザルに上げといてー。パエリア……じゃなくて、リゾットみたいなの作ってあげる」
お弁当に使い回すのを考えなくていい金曜だからか、変わったものにしてくれるようだ。
「次お手伝いすることあるかな」
「んー、そうねぇ……」
思案声。と、彼女はトレイを手渡してくる。次いで、切り開いた牛乳パックとトゲ抜きも。
「これ。目々取りお願い。ちぎれたのは分けといて」
「はいよ」
4月の富山の食卓はホタルイカの色に染まる。金沢以遠まで持っていけば珍味扱いだけど、県内だと100g100円前後で積んであるし、何なら海沿いの岸壁で掬うこともできる。ホタルイカの身投げ――砂浜に押し寄せて打ち上げられてしまう――が春の風物詩になるほど勝手に寄って来るのだ。
県外の人は酢味噌で臭みを消さないと食べられないものだと思っているらしい。やれやれ、本場のホタルイカを食べたことがないんだな。皆さんがホタルイカだと思っているのは1日置いて臭くなったホタルイカのゾンビですよ。古くなければむしろ淡い味のイカで、子供舌の僕でも内臓ごと食べられる。タウリン500mgパワーがアレルギーやコレステロールによく効きます。
ひたすらホタルイカの目とクチバシをぷちぷち取り、胴体の下端裏筋から甲も引きずり出す。クチバシは突起部をちぎり取るんじゃなく、胴に埋まった歯のある塊ごと引っこ抜くのがポイントだ。処理しなくても食べられるけどもしゃもしゃする。料理は愛情って言葉はレシピを見ない言い訳じゃなくて、こういう美味しくする手間を惜しまないことだと思うんだよね。ひたすら作業して、だんだん自分が何をしているのかゲシュタルト崩壊してくるといつの間にか終わっている。
くるくる立ち働く幼なじみの髪が跳ねて、スローテンポなアポロ11号の歌のハミングが聞こえてくる。これが幸せの形じゃないだろうか。下拵えしながらそんなことを言うと左右両方から批判されそうで、窮屈な時代だ。
「私路、できたー?」
「できてる」
「持ってきてー」
包丁を使えない奈月ちゃんは、ちぎれた方から半分をプロセッサーで粗く刻んでしまう。きれいな方も刻んだ方も魚の切り身と一緒にトマト&ライスの海に放り込み、目の付け所が鋭いウォーターオーブンレンジにセットして出来上がり。じゃないな、出来上がりを待つばかりになる。
「他にしてもらうことは……うん、ないわね。手洗っちゃって」
「うん」
『完全に新婚さんムードでしゅねー……』
ふてぶてしくソファーに寝そべったダラックマぬいぐるみが聞こえよがしにぼそっと言う。アテレコしている希羽がくいくいと手を挙げさせる。奈月ちゃんと見合わせた僕の顔は赤くなっているに違いない。でも、彼女は軽く肩をすくめて済ませてしまう。
苛立ちのままにダラックマの傍に寄って鼻をぐいぐい押してやる。くったりして耳の取れかけたダラックマぬいぐるみ。奈月ちゃんのだけど、幼稚園の頃からよく預かっていて今ではうちに居着いている。初期仏教界の陀羅仏と鳩摩羅什の故事を引いたキャラクターである。……いや、ダラダラしたクマなんだけどね。ダラダラの語源は、鳩摩羅什に都を追われたのに捲土重来を目指さず安閑と地方で余生を送った陀羅仏のようという意味。北陸ではダラだけでバーカって感じの意味にもなる。
「はい兄さん、手乗り。『えさくれー』」
ダラックマのお供のカラーひよこ(イエロー)がぽんと僕の掌に載せられた。僕が希羽にもらった手乗りサイズである。これ以上大きくならないよと言われて屋台で売られていた……という設定のキャラクターだ。大きくなってしまったらダラックマに食われると思いこんでいる。低身長のちんちくりんとしては、同病相哀れむというか、どうしても感情移入してしまう。
「今日のごはんは抜きです」
『何で。何でー』
「おソースが飛んで汚れるからね」
『しょんなんひどいわー』
希羽は声を当てつつ、くちばしを押し上げて器用に怒り顔を作ってみせる。僕も憎らしい顔になったひよこをついつい突付いて構ってしまう。ふたりでひよこを構うものだから、ダラックマが拗ねたように見上げている。
こんなことをしているのは外では内緒だ。男のくせにと言われるのはまだ分かるとして、ああ性同一性障害ねといわれなき共感に晒されたりする。いや、男がかわいいもの好きでもいいじゃんよ……。異常だから障害ですね受け入れますよって言うのは全然理解じゃないです。一応男の範疇に含める軟弱者呼ばわりよりよっぽどひどいわ。ガチガチの性規範からはみ出したら障害扱いされるなんて、本当に面倒な世の中になってきている。
奈月ちゃんが根菜サラダを和え終わると新タマネギのスープがちょうど仕上がる。よそったスープを受け取って配膳しているとタイマーが鳴り、レンジに放置したトマトライスの蒸らし上がりを告げる。僕や希羽には真似できないことで、思考回路の次元が多いんじゃないかと思う。時間軸が入ってる。
「はいっ、ホタルイカとメバルのリゾットペスカトーレ……?」
謎の無国籍料理をことんと置いて幼なじみは小首を傾げる。北陸ではめぼしい高級魚を除いた魚はだいたいハチメ(メバル)だと思われている。富山湾の環境上、目の張る半深海魚が多いのである。
「疑問形なの?」
「だって炒めなくても定義に合ってるのか分かんないもの」
「名前にこだわってる」
「あんたがいっつも細かいこと言いたがるんでしょうが……!」
そうですね。喜ばせようと思って国際風料理にしてくれたのに絡んじゃいけないな。
ペスカトーレと言うと一般的にはスパゲティだけど、富山ではパスタ類はあまり消費されない。砺波工場で作って売り捌く移出商品である。関東で横浜を中心にパスタ、関西で神戸・京都を中心にパンの消費量が多く、地方では米食が盛んだ。富山の農家の96%が3食全て米食だという調査もある。うちは農家ではないけど、お隣さんが兼業農家だからやっぱりご飯全振りに近い。
「ん、ペスカトーレ風。いただこっか」
奈月ちゃんの音頭取りで軽く手を合わせる。いただきます。
いただきますは元来、戦国期に加賀を支配した一向宗特有の祈りで、御仏のお恵みとして感謝を捧げる意味合い。左右の掌を合わせる合掌ポーズは仏との一体化を表していた。それが戦後、給食にまぎれて全国に広められたと言われている。当然、ソ連に取られて別の国だった札沼留釧ライン以北の旧北方領土では広まらなかった。札幌スナイパー大通の壁が崩れた直後に北札幌住民との祝賀会でいただきますをしたら、南は恵みに感謝できるほど余裕のある生活を送っていたのかと驚かれた逸話がある。今はそんな文化断絶も薄れてきたけど、北北海道でいただきますが通用したら北陸出身者のコルホーズだという見分け方があったそうである。
「……あ、皮」
奈月ちゃんがトマトの皮を掬い上げてぺいっと希羽のお皿に移す。いじめじゃないよ。トマトの皮、中でもホールトマト缶にされる細長い品種の皮は花粉症に特殊効果がある。ケチャップを作る時に取り除いた皮が花粉症対策サプリとして売られているほどだ。香辛料も同じく花粉症特効のオレガノがこの時期は主力入りして、ミートソースっぽい草いきれを振りまいている。
刻み昆布を入れてあるのは富山らしい工夫といえる。富山は世帯あたりの昆布消費量が不動の全国1位。明治期に北海道に殖民した人口比率がもっとも高い県でもある。加賀藩や大石川県の植民地状態に耐えかねた人々が蝦夷地に移住し、昆布を採っては北前船で故郷に送ってきた結果が大昆布文化だ。冷戦期でさえ羅臼昆布は脈々と取引されていた。なお消費量2位の沖縄も富山の影響で、鎖国状態だった薩摩に薬売りが踏み入る時、手土産で昆布を付け届けたのがきっかけになった。これはヨード欠乏症に効く漢方薬として清に密輸されて薩摩藩の資金源になったのだけど、中継地の琉球王国は分け前を豚肉と一緒に美味しく食べていた。
「ちょっと味薄かったかしら。氷酢酸しぶきする?」
「しようか」
奈月ちゃんが中座して、酢酸を持ってくる。減塩料理の寝ぼけた味が酸味でビシッと立った。北陸では食用醸造酢より数倍濃い合成酢酸が当たり前のように出回っている。氷酢酸じゃないけどね。これまた北陸と沖縄に独特の食文化だそうで、多分、脂っこい魚を好む関係だと思う。
レモンを使わないのは北陸の風習ではなく家庭の事情である。レモンを勝手にかけたら奈月ちゃんはスクリュードライバー効果で倒れる。例外数種を除いて、柑橘類の香気成分は肝臓に数日間デバフを掛けるのだ。薬は体内を巡るうちに分解されて目減りする前提で用量が定められているから、分解されないと過剰摂取と同じことになる。医薬品副作用事故の実に3割がこの柑橘系デバフによるものだ。お酒や風邪薬も同様だから、健康な自分には無関係だと思わずに覚えておいてほしい。からあげにレモンかけたら戦争というのはジョークではなく、アルコールが分解されなくなってよく回るのですよ……。レモン果皮6gに含まれる分の香油で肝臓分解能力が半減する。スクリュードライバー効果、高校生のうちに知っておきたい。大学新歓コンパで倒れてからでは遅い。グレープフルーツや日向夏などに至ってはレモンの比じゃない危険性がある。無害な柑橘類は1億分の1オーダーでしかこの成分を含まないユズ・スダチや温州ミカンぐらいのものだ。
「私路、手が止まってるわよ……。お酢掛けすぎたの?」
「あ、いや、ちょっと考えごとしてた。うん、炒めてなくてもいい味出てるよ、奈月ちゃん」
「さすがダイエットの番人ヘルファットよね」
「ううん、さすがは奈月姉さん。美味しい……」
「ふふーん。ありがと」
僕も目の付け所が鋭い減脂レンジじゃなくて奈月ちゃんを褒めたつもりなんだけど、希羽に持って行かれてしまった。解析に気を取られていると素直な褒め言葉が出ないんだよね……。
会話が途切れた機会にテレビを点けて視聴時間を稼いでおく。近頃の青少年はスマホばっかり見ていてけしからんということで、家族団欒の中心であるテレビの視聴が義務付けられている。『団らんの時間』は最初に未成年のネットゲーム接続禁止が設定された時間帯でもあった。
今日もまた消えた北海道開発予算問題がトップニュースのようだ。北海道開発予算が全額北海道開発に使われていた問題だ。そのどこが問題か一瞬分からないけど、国民の血税を使う以上全国で分け合うのが不文律らしい。震災復興予算は全都道府県の災害対策や産業振興に使われた。大企業は震災をきっかけに海外脱出しない約束をすれば復興予算から報奨金がもらえたし、自衛軍も武器弾薬まで復興予算から買ってもらっている。復興を後回しにしてでも予算を全国に分け与えた大震災被災地に比べて北海道は、というわけだ。
とにかく最近のニュースは北海道の赤字に当たりがきつい。10年分の北海道開発予算でスーパー堤防872kmが全区間建設できていたとフリップが出て、解説委員が吠える。「納税者は北海道特権を許さないであります」。分裂時代を経験した大人は北北海道をソ連崩壊時に押し付けられた外地と認識している節がある。下手したら南北海道も含めてそう思っている。なので採算性を気にする。そこで政府が打ち出したのが、領有したまま運営権を売りに出す北海道上下分離民営化政策。ロシアの石油会社に運営権を売って、日本は領有と経済協力だけ行う方式だ。「赤字を垂れ流すのは父祖の地を守り抜いた英霊に申し訳ないであります」と北海道売却の必要性が散々説かれている。売り飛ばす方が申し訳ないと思うんだけど、どこの局も政府見解に沿った内容しか流さない。独自取材の主観報道が問題になって解体された旭日の轍は踏みたくないんだろう。自由の翼の倫理審査が入るようになってから、この時間帯のテレビは本当につまらなくなった。愛国ニュースに愛国バラエティ、世界遺産番組でもサクラダファミリアをカイゼンして完成に追い込んだ日本人すごいであります調の切り口しかない。そういえば、でありますでありますと長州弁芸人ばかりになってきたのも最近の変化だ。以前はもっと関西弁がのさばっていた。
「そうそう、希羽。明日の午後空いてる? 狩りの予定とか入ってる?」
「ううん……そういうのは特に」
妹が応じる。
「それじゃあさ。高校の先輩がベガプルート持ってるらしいから、試遊させてもらいに行こ……」
「本当に!?」
はっと顔を上げる。春眠暁シーズンにはなかなか見られないぱっちり目だ。
「私路が無理言って参加させてもらってくれたのよ。お礼言っときなさいよ?」
「兄さん。ありがとう」
奈月ちゃん、そんなことまでいちいち伝えなくていいのに。
「いや、会長から訊いてくれただけだし。置いて行って拗ねられても面倒だし」
「私路またあんた……そんな照れ隠ししなくてもいいじゃない、お・に・い・ちゃん」
「うるさいよ」
この歳で妹のためにお願いしたなんて気恥ずかしいのだ。僕の心の平穏のためだったことにしておいてほしい。希羽も微笑ましいものを見る目になっているし……。うちの女性陣にはかなわないな。ちょっとぐらい気取らせてくれたっていいじゃないか。