第168話:何を思う
ディフィード大陸は1年すべてにおいて、
雪が大地を覆っている大陸である。
当然のことながら、
大地を踏みしめて歩を進めるより、
雪の上を歩行する方が速度は遅い。
加えて、速度が遅くなるという事は、
目的地へ到達する時刻が、
後ろへ後ろへと、ずれ込んでいくことを意味する。
さらに、このディフィード大陸において、
時刻がずれ込むことは致命傷となり得る。
そして、この大陸での致命傷とは、
それすなわち“死”という現実に直結する。
「ちょっと、冷え込んできたわねぇ……」
兵隊のように規則正しく1列に並んで歩く、
その真ん中を行くフェイティが、
手に白い息を吹きかけながら言う。
もう、どのくらい歩いただろうか。
だが、3人の先に見えるのは、育たぬ土壌により腐敗した、
いくつかの倒木と、
無造作に転がり目印としての意味を成さない岩石。
それ以外に広がるのは、
もはや見慣れすぎて何の感情も湧かなくなった、
白銀の世界のみ。
打倒政府を掲げる反政府組織、
暗黒物質の剣のリーダー、フロウの依頼によって、
目指している目的地、シックディスの村と思しき光景は、
まだ見えてこない。
ちなみに今の気温は、-13℃。
皮膚が外気に触れていれば、
寒いではなく、痛いという感覚が生まれる、
それほどの気温だ。
常人ならば、ただ立っているだけでも、
身体が熱を欲し、体力を消耗するレベルだ。
だが、ディフィードの夜という、
ある意味“魔物”と言ってもいい時間帯にとっては、
この-13℃という寒さは、
例えて言うなら赤子同然といってもいい。
ディフィード大陸に住む人達いわく、
ディフィード大陸の夜を外で過ごすことは、
数多ある自殺方法のなかで、
もっとも死ねる確率が高い方法の一つだと云う。
「まずいなぁ……」
アルトの表情から、
弱気の感情が隠れることなく漏れ始める。
この大陸にしては珍しく、
雪は今、止んでいる。
視界は、まずまず。
さすがにワームピル大陸や、
エリフ大陸とまではいかないものの、
50メートル先を明確に、
また200メートル程度をぼんやりと見渡すことができるのならば、
この大陸では天候が良い区分に入るらしい。
だが、視力が悪くなる覚悟の上で、
アルトが目を凝らして先を見ても、
先に見えるのは雪道、雪道、時々倒木や岩石、
そしてまた雪道。
村の姿など、ぼんやりとすら見えない。
気温はこれからいよいよ、
人を死へと追い詰める、
デッドゾーンへと向かっていく。
デッドラインを超える前に、
何としてもシックディスへと、
少年達は辿り着かなければならない。
だが、焦るアルト達をまるであざ笑うかのように、
視線の先に見えるのは、道、道、道――。
先が見えない、ゴールが見えないものほど、
人は恐怖心を植え付けられる。
例えば、上下左右すべての方角が白で埋め尽くされた、
すべてが真っ白の空間に突如放り込まれたとする。
右を見ても、左を見ても、
前を見ても、後ろを見ても、
上を見ても、下を見ても、
すべてが白で塗りつくされた世界。
しかも歩いても歩いても、その光景が変わらない。
どのくらい歩けば脱出できるかも、分からない。
時間感覚と空間把握、
そしてある意味では視覚も奪われた、
その世界の中で果たして、
正気を保ったままでいられるだろうか。
おそらく、大部分の人々にとっての答えはNOだろう。
人はそれほど強くは、この世に生を受けていない。
今のアルト達も、それと似たような感覚に陥っていた。
いつゴールを迎えるのか、
あとどれほど時が経てば終わりになるのか。
ただ漫然と続く道の姿だけで、
終わりの兆候、
つまり村の佇まいが姿を現さないのであれば、
アルト達の身体の片隅に、
わずかに生まれつつある恐怖心が、
その力を増幅させる結果となる。
そしてその恐怖心は一度植え付けられてしまえば、
そう易々と拭い去れるものではない。
頑張れだの、きっともうすぐ着くだの、
諦めるなだの、一昔前の頑固オヤジが言いそうな精神論など、
そこではまったく意味を為さない。
目的地へと確実に近づいているという実感。
目に見える成果がなければ、
その恐怖心は消えない。
「まずいわねぇ……。
全然、シックディスの村が見えてこないわねぇ……」
年長者であるフェイティの口からも、
多少ネガティブ色を含む言葉が出始めている。
「そう、だね……」
アルト自身も、それは十分に分かっている。
歩けども歩けども、見えない。
魔物と戦闘を余儀なくされている部分もある。
だが、同時にアルト達がキルフォーから今に至るまで、
常に頭にこびりつくように離れなかった懸念。
「やっぱりフロウが言う半日って、
僕たちの歩くスピードじゃ、なかったよね……」
それは、旅立つ前から、気にかけてはいた事だった。
『あの距離だと……歩いて半日程度でつくかな』
王都であるキルフォーを旅立つ前に、
フロウはアルト達にそう告げていた。
おそらくその情報は、間違ってはいない。
“フロウの感覚論”という、
抽象的かつ曖昧な要素の中、では。
半日程度という設定は、
あくまでもフロウの主観が入っているものである。
つまり、この地で生まれ、育った、
この地の性質を、
隅から隅まで知り尽くしている者が移動して、
要する時間が“半日程度”なのである。
そこに、“雪道ほぼ初心者”と言う要素は、
たぶん、存在していなかったに違いない。
アルトも、そのあたりは十分に予測していた。
僕たちにとっては決して、半日程度の距離ではない。
分かっていた。
分かってはいた。
きっと、半日では、
シックディスには着かない、と。
雪道ほぼ初心者である3人であるうえ、
フェイティと蒼音は女性だ。
それほど体力に自信があるわけではないアルトだが、
きっと2人はそれよりも、
厳しい道になるはず。
当たり前のことではあるが、
2人を置いて1人ですすむことはできない。
もっとも遅い者に、
速いものは合わせるのは鉄則だ。
ともなれば、アルトが想像している、
さらにそれ以上に、シックディスへ行くには、
時間を要することになる
そんなことは、分かっていた。
だが、実際覚悟を持って旅路に挑んだが、
はるかな時が経ち、
いまだ村の姿を視界に捉えられない、
無慈悲な現実を眼前につきつけられると。
(きつい……)
予め予測していたことではあったものの、
まるで胃の中のモノが逆流してくるかのように。
精神的に、こみあげてくるものがある。
それでも、
行っても、行っても続くのは、
無機質な白銀の光景。
無論、誰がいるわけでもない。
ここにいるのは、アルト、フェイティ、蒼音の3人だけだ。
アルト達の体力は、無尽蔵ではない。
肉体的に負担のかかる歩行が続けば、
徐々に乳酸が溜まり、
疲労が少年達に容赦なく襲い掛かる。
事実、アルトも現在、
まるで靴底に鉄板がつけられているかのように、
前へと踏み出す足が重く感じ始めている。
一年を通して雪が降ることがほば皆無な、
故郷であるワームピル大陸でこの光景を見たならば、
きっと幻想的とか、美しいとか、
賛美の類な言葉が、あふれ出てきただろう。
だが、今は美しいどころか、
自分をじわじわと苦しめる、
さながら白い悪魔のように見えてくる。
隣の街に赴くだけでも、
まさに、命がけ。
同じく隣同士の街でも、
たったの列車一本で、
炭鉱の街ルインと王都ファースターを往来できる、
ワームピル大陸では、絶対に考えられないだろう。
ディフィード大陸の当たり前と、
ワームピル大陸の当たり前。
そこには同じ“当たり前”という言葉でも、
雲泥にして、
今は決して埋めることのできない差が存在する。
「はぁ……はぁ……」
肉体が酸素を欲し、
呼吸の回数が明らかに増えている。
だが、足は絶対に止めない。
今止めれば、
休息という“禁断の味”を知る肉体が、
アルトの前に進みたいという脳に反発し、
身体がいう事を、
聞かなくなってしまいそうだから。
アルトはチラリと、
後ろを振り返る。
少年のすぐ後ろには、
同じく不規則に白い息を吐きながらも、
まだ若干の余裕を残していそうな表情にも見えるフェイティ。
そしてさらにその後ろにはやや苦悶の表情を浮かべ、
必死に前の2人を追う、
トレードマークである赤髪のポニーテールを、
左右に揺らしながら歩く蒼音の姿。
差異はあれど、
2人とも明らかに、疲れている。
本来ならば少しでもいいから、
休息を取るべきなのだろう。
だがアルトは、その決断を下せない。
(雪が降ってないからまだいいけど、
もし降りはじめちゃったら……。
迂闊に休憩できないし……)
その理由は、
初めての地へと赴く際特有の、
先が分からない故のもの。
仮にここから目的地までの所要時間が分かっていれば、
到着時間を逆算すればいいだけで、
容易に休憩を取ることができるだろう。
例えばここからあと1時間で着くから15分は休憩できるとか、
2時間はかかるから休憩はわずかしか取れないとか、
猶予の長短はあれ、
それでも休憩時間を設定する、
尺度の目安となり得る。
それはまさに、目盛がついている物差しとなる。
だが、アルトは今、
あと何分、何時間でシックディスにつくかが分からない。
故に、休憩時間をとっていいのかどうかも、
分からない。
それは目盛りのついていない、ただの棒でしかない。
目安を把握できない、到達点。
これほど恐ろしく、
それでいて不安に感じることはない。
もし迂闊に休憩を取り、
人々が外で活動できる限界時間、
デッドラインを超えてしまったら。
事実、現在ですらすでに気温は、
降下の一途を辿っている真っ最中だ。
これからの気温降下がどのような軌道を描くか、
少年は想像がつかない。
距離の恐怖と、天候の不安。
休憩の必要性を感じる懸念と、
急ぐ必要性を感じる焦燥。
(だ、大丈夫なの……かな……)
「うーん、大丈夫かしらねぇ……」
アルトがそう考え、
またフェイティがポツリと呟く、
その言葉が重なり合ったのは、
きっと必然の事だった。
「そろそろ、見えてこないとまずいわねぇ。
BBA、さすがに少し疲れたかも……」
「そうですね……。
まだまだ先には、村も見えませんし……」
フェイティに続き、
最後方を歩く蒼音からも、
足を前に動かす推進力には程遠い、
弱気の顔が見え隠れし始めている。
いよいよ困ったのはアルトだ。
(どうしよう……休憩するべきなのかな……)
言葉を発することができる以上、
おそらくまだ体力には残っているだろうが、
それでも女性陣の2人は、かなり消耗しているに違いない。
ここでアルトが休憩しようと提案すれば、
きっとフェイティも蒼音も二つ返事で了承してくれるだろう。
だが、いまだ先が見えない現状と照合してみると、
ここで休みを取ることが、ベストの選択とも思えない。
進むべきか、休むべきか。
(どうしたら……いいんだ……)
アルトに、その決断力はない。
どちらの選択を取った場合も、
その先に待ち構える未来図を、
明確に描くことができない。
(こんな時、レナだったらどうするだろう……)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
明朗にして快活、
常に強気の姿勢を貫き、
周りの者すべてを明るく照らす、
太陽のような彼女。
それこそアルトが羨ましがるほどの、
決断力と行動力を持つ、レナなら。
果たしてこの状況を見て、
どのような判断を下すのだろうか。
疲労している仲間を気にかけ、
すぐにでも休憩を促すだろうか。
あるいは夜を危惧し、多少無理してでも、
村にたどり着くことを優先するだろうか。
(…………)
まるで水面に黒の絵の具を垂らしたかのように、
瞬く間にその考えは、
アルトの思考内に広がっていく。
レナだったら、どう考えただろう?
フロウの半日という言葉を信用せず、
充分に準備をしてから出発しただろうか?
いや、そもそも、
デイフィード大陸での移動のリスクを考え、
このような依頼を受けなかっただろうか?
さらに降下していく外気の温度とは正反対に、
アルトの脳内加速は、上昇の一途を辿る。
移動のことだけではない。
ローザを暗黒物質の剣に預けたが、
その行動も、レナだったら果たしてとっていただろうか?
もしかしたら、別の良案を導き出していただろうか?
(――――ッ)
挙げれば何もかも、キリがない。
考えうることなんて、いくらでもあった。
そして少年が行き着いた、最終的な問答。
もしこの場に彼女がいたら、
今のアルトの行動を、どう考えているだろうか?
果たして正解と思うのか、
それとも――。
(分からないよ……そんなの……)
当然、答えなど出るはずもない。
この場にいない、知るはずのない人の思考など、
読み取れるはずがない。
それは至極当然の理。
だが、それ以上にアルトは、
それを否定したかった。
なぜなら――。
(――いや、とにかく今は進もう。
それしかないんだから……)
アルトは、それ以上の思考を止めた。
その必要性を、今は感じなかったから。
この場に、この大陸にいない者の事について考えを割く、
その行為が、今の状況を打開するきっかけに、
果たしてなるのか。
答えは否、だった。
「今は、とにかく進もう」
他の2人に告げるというよりも、
自分に言い聞かせるように、
自らの気持ちを再び奮い立たせ、
前に進む推進力を得るために。
徐々に視界の明度が下がりつつある、
デッドライン、その時が確実に近づきつつある、
デイフィード大陸の中でアルトは前を向いた。
次回投稿予定→12/9 15:00頃




