第140話:見えない不安
少しの光も与えられない、真の闇。
前も後ろも、右も左も何も見えない、
その中では空間認知能力を完全に奪われることになる。
今、自分はどこにいるのだろうとか、
東西南北、どちらの方向へと進んでいるのだろうとか、
そういった類の感覚が、完全に麻痺してしまう。
そして、それと同時に失うのが、
時間という概念だ。
光がもたらされないのであれば当然、
時計を確認することもできない。
それどころか視覚による、
時間を読み取る能力をも完全に失することとなる。
この黒の空間へと飛び込んだ、
最初の方こそ、ものの数分しか歩いてないだの、
10分くらい歩いただの、
まだ明るい場所にいた頃の名残で、
時間を計算することが可能だろう。
だが、30分以上も同じ光景、
いや無の光景を目にし続けたならば。
(どのくらい歩いたんだよ……全然分かんねぇ)
滅入りそうな気を、
何とか持ち堪えさせて歩くプログ。
これが常人の、ごく普通の反応である。
いや、常人ならばもしかしたら、
あまりの空間の普遍さに、
気が狂いそうになっても、
おかしくはないかもしれない。
もう、どれほどの時間が経過しただろう。
40分か、50分か。
はたまた1時間近く歩いただろうか。
その答えを導き出すことを、プログはできない。
凄腕の元ハンターとはいえ、
彼の体内時計は、
もはや正確な時間を刻むことが、
できなくなっていた。
ピチャッ……ピチャッ……
まるで氷から水滴が垂れ落ちるかのように、
四方から時々耳に伝わる、
水分の粒が地に叩きつけられる音はするものの、
近辺の環境においてそれ以上、
プログに情報提供をしてくれる自然物は、
一切存在しない。
(クソ……明かりが一つもないとは、
思ってもみなかったぜ……)
プログにとって最大の想定外の出来事。
それは今、プログとスカルドが歩く、
ファースター駅へと向かうこの列車道に、
灯りどころか、松明一つすらないことだった。
途中から、薄々感じてはいた。
このトンネルへと突入した最初の頃こそ、
まあ最終列車が到着しているし、
別に灯りが付いている必要はないわなと
腹をくくっていたのだが。
(いくら必要がないとはいえ、
ここまで徹底するものかねぇ)
ここまで距離が長いトンネルとなれば、
緊急の点検用として、灯りの一つや二つくらい、
あっても決して無駄ではないんじゃ、とプログは思う。
クンクン、と。
不意にプログは、
まるで犬のように鼻を動かし始め、
周囲の匂いを探り始める。
辺りから臭ったのは、
古臭い錆びついた鉄鋼の匂いと、
湿気の高い場所独特の、
洗濯の生乾き状態のような、鼻を突く匂い。
主にその2つ残念臭が、
プログの鼻へと届けられる。
(燃える匂いやスス、
灰の匂いが全くしないってことは、
ふだんも火とかを使ってないってことだよな。
ってことは、ここはいつでも、
こんな真っ暗ってことか?
マジかよ……)
以上から得られた情報をもとに、
プログが出した結論は、それだった。
匂いというものは長い年月持続的に、
対象物へ干渉し続けると、
その対象物へその香りを付着させることができる。
タバコを吸い続けると、
部屋の壁や床に、その臭いがこびりつき、
削ぎ落とすのが至難の業となるのが、
その最たるものだろう。
ここで仮に、
今、プログ達が進んでいるこのトンネルが、
松明などによる火で常に、
明るく照らしているものと仮定する。
もしこの空間で長時間、
火を扱っているとしたら。
だとすれば、先ほどプログが鼻を利かせた際、
無臭ということは決してありえない。
答えは先ほどと同じ理論で導き出せる。
長時間火を灯し続ければ、
その時間に比例して、燃焼活動の代償である、
煙が必ず立ち込めるはずだ。
モノを燃やした時の煙の臭気は、
決して無臭と勘違いすることがない、
臭い逃すことのない、誰もが気づく異臭である。
それだけではない。
もし完全消火から、
相当な時間が経過していたとしても、
今、プログ達が右手で触れているトンネルの岩壁に、
今まで数年、いや数十年レベルで
こびり付き続けてきたであろう臭いの塊が、
ヒトの臭覚に何の異常を感知させないはずがない。
どちらにせよ、
もし常時火を取り扱っているならば、
何らかの火に関する“異臭”を、
それほど鋭くはないであろう人間の嗅覚でも、
間違いなく感じ取ることができるはず。
だが。
(やっぱり、何も臭わねえもんな)
プログは今一度、
鼻をヒクヒクさせてみる。
プログの、凡人並みの嗅覚は、
先ほどと同じ匂いしか、
感じ取ることができない。
やはりこの場においては、
火による灯りは使用していないようである。
もっとも。
(まあ、ファースターくらい都会になれば、
トンネル内とかでも電灯とか普通に使っていそうだけどな)
今まで自らが推理し、結論付けたものすべてを、
まるで覆水のごとくひっくり返すような皮肉を心で呟き、
プログは自嘲気味に笑う。
ワームピル大陸の王都ファースターは、
この世界グロース・ファイスの中で、
最も発展した都市と言っても過言ではない。
エリフ大陸の王都セカルタ、
ウォンズ大陸の王都サーチャード、
そしてディフィード大陸の王都、キルフォー。
この3都市はいずれもその大陸内では最大の都市を誇るが、
そのいずれも産業・技術分野においては、
ファースターの後塵を拝している。
ここ最近、セカルタの成長は目をみはるものがあるものの、
それでもファースターには及ばない。
その世界で、技術面で最も先を走っているであろう、
ファースターなら。
他の地域ではまだ普及率が低い電気によるトンネルの照明を、
この場に使っていても、何ら不思議な事ではない、
というよりも、そう考える方が自然な気もする。
だとすれば、である。
(ここら辺は、真夜中はいつもこんななのか?
それとも、今日だけこうなっていやがるのか?
前者なら特に気にする必要はねぇけど……)
もし後者なら、とプログは考えてみる。
夜中の2時近くの時間ともなれば、
確かに列車の行き来はない。
ましてや、人が行きかうことなど、
更に有り得ない。
事実、先ほど逃げるように姿を消した、
2人の駅員たちはこのトンネルを通ることはせず、
おそらく駅員専用の通用口であろう、
別の道から帰路についた。
夜勤当番を除き、
1日の業務のうち、
最後の人間の往来とも考えられる彼らが、
このトンネルを使用しなかった。
ということは、
今プログとスカルドが歩み続ける、
この黒く続く道は、
少なくともそれよりも前に、
人が歩くという経過を終了させていることとなる。
安全が確認され、
かつこれ以上の人間の行き来がないことが保証されたならば、
そこに安全性を高める灯りは不要――。
それは例えば、
お店を閉める際、
必要最低限の電気供給を除いて、
店舗内すべての電力を切ってから、
店を後にすることとほぼ同じ意味合いだ。
もしもその理由で、
この場が光という概念が、
まったく存在しない空間となっているのならば、
プログもそれほど心配はしない。
だが、可能性は、
決して1つでは終わらない。
それこそ、今日を除くいつもは、
必要最低限の範囲内に収まり多少の明かりを灯しているはずが、
たまたま(・・・・)今日は、光を宿していないという可能性。
それは、決して低い可能性ではない。
ファースター駅から車庫までは、
列車で走ればものの5~6分もあれば到着するが、
歩くとなれば、30分を軽く超える距離となる。
少し前にレナと、
シャックの一味だったコウザが対峙した、
あのルイン西部トンネルの長さに比べれば短いものの、
それでも徒歩30分以上ともなれば3km弱という、
そこそこボリュームのある長さである。
しかも、通常の走行ルートとは違い、
このトンネルは終着駅から整備場までを繋ぐ通り道。
つまり、客を乗せて運行しているルートよりも、
作業員や駅員など、人が往来する可能性が遥かに高い。
全長が長く、
かつ関係者という人々の往来があり得る。
それなのにこの時間、
いくら運行時間外だったとしても、
例外なくすべての光を遮断し、
宵闇の世界を作り出しているという、この現実。
(このトンネルにもし関係者が取り残されていたら
完全アウトじゃねえか)
プログはさらに思う。
ディフィード大陸を除く、
3大陸を結ぶ列車というシステムにおいて、
これほどずさんな危機管理をしている事など、
果たしてあり得るのだろうか。
しかも、世界の最先端を行くファースターにおいて。
至極まっとうに有り得る、
だからこの問題は気にしなくてOKと、
すべてを切り捨てるのは、
あまりにも楽観的で、暴力的すぎる。
と、なれば。
真っ先に考えられるのは――。
と、ここまで考えて。
(まあ、とはいえ、
今はもう、前に進むしかねえんだけどな)
プログは自ら提起した議案を、
己の手で放棄した。
結局、プログが導き出した最後の結論が、
すべてだった。
敵地のど真ん中で移動を続ける彼らにとって、
今できることは、とにかく前へ進むことだけ。
100%ではない可能性をあれこれ考えたところで、
すべてが仮定の域を脱しない。
ならば今、出来得る範囲の行動を、
ただひたすらに進むだけ。
野生の動物が、
後先考えることなく、
餌に向かって一直線に猪突猛進するように。
それがプログ、
そして少し前を歩いているであろう、
スカルドがとれる、最大にして唯一の行動。
それを知っているからこそ、
プログもすぐさま、
頭を切り替えることができた。
今、あれこれ考えて行動や判断が鈍くなり、
それが引き金となり不利益を被るようなことが起きてしまっては、
それこそ目も当てられないし、
目の前の天才少年に、
何を言われるか分かったものではない。
いや、何かでもモノを言われればまだいい方だ。
己の目的を絶対優先第一位に据える、
この少年なら、何も語ることなく、
自分を捨ててスタスタと、
先へ進んで行くかもしれない。
完全敵地のこの中で、
孤独という存在に捨てられることは、
全方位的に囲まれる中、
どうぞ好きに殺してくださいと、
両手を挙げるようなものだ。
さすがにそのような状況に身を投じるほどのM気質は、
プログにはない。
ゆえに、彼のとる行動は決まっていた。
とにかく、足を前に出すこと。
(今は、とにかく前に進むしかねえ。
何か起きたら、その時はその時だッ)
なかばヤケクソ気味になりながらも、
ある種開き直りともとれる、
どうにでもなれ的な精神を胸に秘め、
ただ、それによって心の表面にこびりつく、
未だ続く果て無い暗闇への恐怖を、
大きな布で隠すように覆いながら、
プログはすべての集中を両足に注力し、
ゆっくりながらも、着実に前へと、
足を進めていく。
だが、上辺だけの精神論など、
そう長く続くはずもない。
開き直りの前進から、
5分もたたないうちに。
(くそっ……マジでいつまで続くんだよ)
すでにプログの思考は、
この言葉にすべてが集約されていた。
進んでも進んでも、見えぬ光明。
まるでこの世とは違う、
現世で罪を犯した者達が苦しみの輪廻としてもがき続ける、
一言でかたすなら地獄にでもいるかのように、
プログの前には真闇の空間が延々と続く。
時間という概念など、とうの昔に忘れ去った。
一体今が、何時何分を指し示しているのか、
皆目見当がつかない。
いつ終焉を迎えるかも分からぬ、
終わりなき行路。
(さすがにスカルドかどうか、
一回確認しておくか……?)
その中でプログの思考の片隅から、
徐々に新たな提案が顔をのぞかせていた。
このトンネルに潜入してから今に至るまで、
絶え間なくプログの耳へ届けられている、
自身以外の足音。
それは、プログがここまで、
精神的な拠り所としていたもの。
たが、視覚を奪われ、
会話断絶を余儀なくされているが故に、
どうしても可能性の一つとして、
完全排除できないもの。
“果たして足音の正体は本当に、スカルドなのだろうか”
ほぼ間違いなく、スカルドだと思う。
それが、プログの出せる答えの限界。
どれほど根拠や推理を積み重ねても、
最終的な結論は、曖昧なものにしかできない。
例えば、途中でスカルドが違う道へと行き、
別人とすり替わっている。
例えば、スカルドがプログを裏切り、
来た道を戻っていて、
前方にいるのは途中から居合わせた別人だった。
起こり得る確率としては、
いずれもおそらく、
鼻で笑い飛ばせるような低いものだろう。
だが、それでもこの場においては、
決して軽くあしらってはいけないもの。
壁に触れる右手には無意識に力が入り、
歩行しているだけには不自然に、
心拍数が上がっていく。
本当に大丈夫なのだろうか?
青年は、前らしき方向を向いてみる。
そこには相変わらず、黒で塗りつぶされたように、
何も対象物を確認することができない。
光も見えない。
いつまでこの風景が続くのかも、分からない。
このまま、目の前にいる人間に、
ついていっていいのだろうか?
部屋の隅にあるホコリ程度だった思いは、
いつのまにか彼の思考の大部分を占め、
それ以外のことを考える余地を、
埋め尽くしていた。
そんな中。
プログは、迷っていた。
それは、足音の主を確かめるべく、
スカルドに禁じられている、
少年に言葉を投げかけるかどうかを。
次回投稿予定→4/1 15:00頃