第101話:悪夢
「……」
洞窟を脱出した少年は、歩いていた。
「…………」
思考が空っぽのまま、少年は歩いていた。
「………………」
その顔に、生気はない。
まるでこの世のすべてが終わったかのように、
左右に蛇行を繰り返しながら、
少年は歩いていた。
いや、少年の中では、
この世のすべてが、
終わっていたのかもしれない。
なぜ?
どうして、
こんなことになってしまったのか?
大金に目が、くらんだから?
己の実力を、過信していたから?
共に護衛としてついてきた兵士たちを、
信頼してしまっていたから?
彼女、イリスが自ら生きることを、
放棄してしまったから?
あるいは、それ以外の何かが原因?
彼は徐々に鈍くなっていく思考の中で、
その要素を列挙する。
だが、いくら理由、
いや、言い訳を並べたところで、
事実が変わることはない。
少年は、護るべき人、
護衛の対象者である少女、
イリスは、目の前で死んだ。
ズザッ、ドスッ。
道中に転がっていた石につまずき、
少年は無抵抗に地面へと叩きつけられた。
転倒した勢いで、
彼の右ひざ、そして左頬が擦り剥け、
傷口から鮮血が滲み出る。
痛い。
常人の感覚ならば、
第一にその感覚が生まれるだろう。
「……………………」
だが、目に生気を宿していない少年には、
常人のような痛覚など、存在しない。
痛覚を超えた、
何物にも代えられない無の感情が、
彼の全身体を支配していた。
少年はまるで生きる屍、
ゾンビのようにだらしなく起き上がると、
再びノロノロと歩き始める。
右膝、そして左頬からツーッと、
鮮血が重力に従ってつたうが、
それすらも、彼は気づかない。
彼は、絶望していた。
『今日はよろしくお願いしますね、プログさん』
彼女は、笑顔だった。
『すごいですね! 本当に頼もしいです!』
ショートヘアの彼女は、
眩しいばかりの笑顔だった。
『あ、起きちゃいました?
せっかく驚かそうと思っていたのに!』
おしとやかな風貌に合う、
絹のような金髪を携えた彼女は、
いつでも笑っていた。
『大丈夫です、ここからは一人で行けます。
それでは、行ってきますね。
帰りの護衛もよろしくお願いします、プログさん』
本当は心細いはずなのに、
それでも彼女は、笑顔だった。
『あなたに生きてほしいと願う人がいることを、
決して忘れてないでくださいね』
彼女は、最後まで笑顔だった。
絶望しながらも、涙を流しながらも、
それでも彼女は、笑っていた。
でも。
そんな彼女は、もういない。
どれだけ嘆き、憤り、悔いても、
彼女が少年の前に姿を現すことは、
もう二度とない。
少女は、イリスは、
もうこの世にはいないのだから――。
「くッ…………イリスッ!!」
飛び上がるように、
プログは目覚めた。
「うわっ!!」
同時にすぐ横から、
女性の驚いた声がプログの耳に入る。
「な~んだ、起きちゃったのね」
が、その女性の声はすぐに、
何ともつまらなそうなものへと変わる。
悪夢から目覚めたプログの横には、
何かをしそびれた、
そんな表情が容易に見て取れる、
妙に悔しがるレナの姿があった。
「な、なんだレナか……」
「ちぇ、つまんないの」
舌打ちをするレナの姿を確認し、
汗だくのプログは、
それでも妙な安心感を、
覚えずにはいられなかった。
ここは夢じゃない。
夢から解放され、
現実へと戻ってくることができた。
現実で幾度となく言葉を交わした、
この言葉遣いの悪い少女を目視することで、
プログは今、自分が現実にいることを、
確認することができた。
夢は、いつか醒める。
それがどんなに素敵な物語であっても、
眠りが終わることにより、
その夢も必ず、終焉を迎える。
そして、それは悪夢も同じ。
どれほど惨い、
そして耐え難い夢であっても、
睡眠から覚醒さえしてしまえば、
その苦痛から、
本人の力とは無関係に解放される。
そう、夢でさえあれば。
「あーあ、惜しかったわね~」
レナの残念そうなこの声も、
今プログが現実にいるからだ。
「あともうちょいだったのに」
そう、俺は夢から醒め、
現実に戻ってこれた。
プログはそう感じずにはいられな
「起きちゃったのね、
せっかく驚かせてやろうと思ったのに」
「!!!!」
レナの言葉の瞬間、
プログの鼓動が一瞬、
間違いなく止まった。
まるで誰かからみぞおちに、
強烈なパンチを喰らったかのように、
呼吸もできないほどに、生体が乱れる。
あの悪夢からようやく覚醒したばかりだ、
当然、夢の内容はまだ、
記憶の手前側に位置している。
その悪夢の中で彼女が、
イリスが無邪気に言ったあの言葉を、
プログが忘れるハズはなかった。
『あ、起きちゃいました?
せっかく驚かそうと思っていたのに!』
夢の中でイリスは、
無邪気にそう語りかけてきた。
『起きちゃったのね、
せっかく驚かせてやろうと思ったのに』
今目の前に立つレナは、
つまらなそうに言い放ってきた。
「くッ……!」
気が付けばプログは、
ベッドの上で頭を抱え込んでいた。
雰囲気や言葉じりは違えど、
レナの言葉は間違いなく、
イリスが語ったそれ(・・)だった。
「ん? どしたの?
頭痛? あんたねえ、
いくら眠いからって仮病を使うなんて、
子どもでも思いつきそうな手段よ?」
レナは冗談を飛ばしているが、
プログはその言葉に気づかない。
「くそッ……! また、またこれかッ……!」
プログは、明らかに気が動転していた。
思えばあの時、
ギルティートレインで乗り降りのいざこざがあった時、
レナはスカルドに対し、こう言っていた。
『あんたに生きてほしいって願う人もいるってこと、
忘れてないかしら?』
プログは当時、
その言葉を聞いて愕然とした。
その言葉は、
あまりにも似すぎていた。
『あなたに生きてほしいと願う人がいることを、
決して忘れてないでくださいね』
彼女の、夢で幾度となく姿を現しては、
プログに常に、
まるで呪いのように話しかけ続けてくる、
イリスの言葉に。
「くそッ……! 俺は……ッ!」
雑念を消し去りたい一心で、
プログは一心不乱に頭を掻きむしる。
つい数秒前までは、
レナの顔を見て、
現実に戻ってこれたと思っていた。
あの悪夢から、今日も解放されたと、
安堵していたはずだった。
だが、たった今、
レナが発した言葉によって、
悪夢が夢の範疇を超え、
現実のプログへと襲い掛かってきたのだ。
(俺は……!
俺はまだ許されないッ!
そうだ、俺は許されていいはずがねえんだ……ッ!!
イリス……イリスッ……!)
いくら振り払おうとしても、
もう止めてくれとどれだけ願っても、
あの悪夢は、そしてこの現実は、
青年を逃がしてはくれない。
否、逃がしてくれるはずは、なかった。
彼が犯した過ちからは。
奇跡などという、
一種の偶像崇拝にも似たものが起こったとしても、
決して取り返すことのできない、
まるで岩に貼りつく無数の苔のように、
彼の全身にこびりついた過ちから、
逃げることなどできなかった。
「ちょ、ちょっと、
どうしたの?」
最初はサボるための演技か、
くらいにしか思っていたなったレナだが、
あまりのプログの苦しみ様に、
徐々に表情が硬くなっていく。
目の前でもがき苦しむ、男の姿。
仮病にしては、
その姿はあまりにもリアルだった。
「プログ! ねえプログったら!!」
「!!
あ、ああ、わりい、
少し取り乱しちまったわ……」
声のボリュームをあげたレナの問いかけが、
ようやくプログのもとへ通じたようで、
青年は暴れるのを止めると、力なく呟いた。
「大丈夫? どっか具合でも悪いの?」
「んや、何でもねえ。
ちょっとばっかし、うなされちまってよ」
プログは無理やり、
笑顔を作ってみせた。
鼓動の暴走はいまだに止まらないし、
額からは大量の汗が、
雨雫のように伝っている。
それでも見苦しい姿を、
年下の少女に見られてしまった照れ隠しのように、
口角の引きつる笑顔を、レナへと向けた。
「ホントに?
さっきの感じだと、
あんまり大丈夫に思えないんだけど」
「何でもねえって。
見張りの交代だろ?
今までご苦労さんっと」
これ以上、何かを詮索されたくない。
プログはレナの心配を振り払い、
ベッドから起き上がった。
「あ、ちょっと」
手で適当に髪の毛を整え、
寝床のすぐ近くに置いた2本の短剣を手に持つと、
レナの呼びかけにも応じず、
また部屋からすぐ出るようにとの伝言も告げず、
プログは無言で自分の部屋から、
逃げるように飛び出した。
ディフィード大陸からは、
もうかなりの距離を進んできたが、
それでも薄黄色に輝く、
満月が空に浮かぶ今宵の夜は、
少し冷えていた。
大量の汗を拭くこともせず、
そのまま甲板へと逃げてきたプログ。
夜風を汗が相まって、
気温以上に寒さを、彼は感じていた。
「ふう……」
甲板に出るなり、
プログは手すりに両肘をつき、
うなだれるようにしてうつむいてしまう。
今晩は冷える。
汗が引いていなかった影響もあるが、
それ以上にプログは、
プログの心は疲れ、冷え切っていた。
見回りの相棒であるアルトは、
反対方向の見張りを行っている。
周りには、誰もいない。
「イリス……」
ポツリと、
プログは彼女の名前を口にした。
決して忘れることはできない、
決して忘れてはいけない、
決して忘れることを許してくれない、
その彼女の名前を、
プログは頭で反芻するかのように呟いた。
「くそッ……よりにもよって、
なんで似たような顔をしてやがんだよ……ッ!」
苛立つ、というよりは、
嫌気がさすような物言いで、
彼は言う。
似たような顔というのは他でもない、
つい先ほどまで目の前に見える少女、
レナのことだった。
思えば最初に出会った、
あのファースター地下水道から、
薄々感じていたことだった。
ワームピル大陸の王都、
ファースターの牢屋に、
閉じ込められていたプログは、
たまたま隣の牢屋へと放り込まれた、
レナとアルトへ、
牢から脱出することを提案した。
顔も確認できない状況ではあったが、
それでもプログはまったく、
意に介することはしなかった。
このいつまで続くかもわからない、
無限の牢獄から抜け出すには、
協力者が誰であろうと、
別に構わなかった。
あまりに使えない、
役立たずだったならば、
使えるだけ使って、
窮地に陥った時に捨て駒にすればいい、
そんなことを考えていた。
そしてまんまと牢屋から抜け出し、
ファースターの地下に張り巡らされている地下水道で、
プログはレナと、初めて顔を合わせることとなる。
別に脱出するだけのための相手だ、
どんな奴だろうと知ったこっちゃない、
青年はそれくらいの考えしか、
持っていなかった。
だが、レナの顔を初めて見た瞬間、
まるで全身に冷水を浴びせられたかのように、
体が震えた。
顔を合わせた少女は、
短髪、長髪は違えど、
イリスと同じく、
眩いばかりの金髪だったのだ。
そればかりではない。
顔のつくりが、
数年前に失ったイリスと、
どことなく似ていた。
まさか。
当時のプログは一瞬、
イリスがこの世に戻ってきたのかと、
錯覚を覚えるほど、
イリスとレナがダブって見えていた。
だが。
『そうね、砂一粒くらいはね……って何?
何かあたしの顔についてる?』
次にレナが発した言葉を耳にした瞬間、
プログの脳内から、
重なっていたイリスの幻影がすぐに消えた。
イリスは、このような乱暴な言葉遣いを、
決してしない。
『そうですね。
……どうしましたか?
何か私の顔についていますか?』
イリスならきっと、
このくらいの言葉を使うだろう。
その時から、プログは一切、
その姿を重ねるようなことはしなくなった。
性格も言葉遣いも正反対の2人のことを、
同じ心持で捉えることはなかった。
それは、つい先日のギルティートレインで、
レナが過去のイリスと似たような発言をしても、だった。
愕然、多少心のグラつきはあったが、
それでもまあ、そんなことくらい一度はあるだろうと、
気に留めることをしないでいた。
ところが、だ。
(一度ならず、二度までも似たようなセリフを……)
プログは、暗く揺れる夜の内海を眺めながら再び、
頭を抱えてしまう。
ギルティートレインの時だけならば、
プログもこれほど、
思い悩むこともなかっただろう。
しかし、先ほどプログの部屋にて、
レナは再び、両者を交錯させるような言葉を、
何の思慮もなく言い放った。
誰かから聞かされた言葉を、
別のものから再び聞かされるようなことは、
往々にしてあり得ることだ。
だが、それが2度、
しかも同一人物から聞くことになれば、
単なる偶然で片づけることは、
あまりに乱暴だろう。
ギルティートレイン内の出来事と、
つい先ほどの出来事。
そして加えて、
レナは記憶喪失で、
幼いころの記憶がない、と語っていた。
これは本当に偶然なのだろうか?
もしや。
プログの中で、ある一つの可能性、
仮定が生まれようとし
(いや、そんなことは絶対にない。
それだけはあるハズがないんだ……)
自らを戒めるかのように、
プログは手すりに額を押し付けながら、
その可能性を、すぐに打ち消した。
それは可能性ではなく、
単なる願いだった。
イリスが実は無事で、
記憶喪失のレナとして、
今まで過ごしていた。
それはプログが、
自分の都合がいいように、
自らが起こした過ちを、
勝手にハッピーエンドにしようとする、
自分勝手な暴挙でしかなかった。
現実から逃げている上に、
個人のイメージを、
赤の他人に押し付けるという、
最も愚かな行為。
それがわかっているからこそ、
プログはすぐに、その仮定を、
思考から追い出した。
それに。
「あいつが生きているはずがねえ。
生きている……ハズが、ねえんだよ……ッ!」
目から溢れそうなものを、
懸命にこらえながら、
言葉を絞り出した。
そう、そもそも、
この思い上がった仮定など、
成立するはずがなかった。
プログは、
自らの目で間違いなく、確認していたのだ。
殺人の罪で牢屋に入れられた数日後、
イリスの遺体が見つかったという情報が、
牢獄内のプログの耳にも届けられた。
見たくなかった。
自分のせいで死んだ少女の姿など、
見たいはずがなかった。
だが、当時の騎士総長が、
それを許してくれなかった。
強制的に謁見室へと連れられ、
嫌がるプログ自身の目で、
少女を、イリスの遺体を確認した。
周りを溢れんばかりの純白の菊花で囲まれた少女は、
まるで綺麗な人形のようだった。
幼いながらも整った顔立ちに、
煌びやかな葬儀用の服装を着させられ、
棺の中で、静かに目を閉じていた。
声をかければ、今すぐにでも起きてきそうな、
安らかな表情だった。
認めたくなかった。
当時14歳の少年だったプログは、
彼女の死を、決して認めたくはなかった。
だが、認めざるを得なかった。
目の前に存在する綺麗な、
魂のないイリスの変わり果てた姿を見て、
現実を、そして自らが犯した重い、
とても重い罪、十字架を、
認めるしかなかった。
そう、レナとイリスが同一人物の可能性など、
あり得るわけがなかった。
あの日。
ファースター王女、イリス・ファースターは、
プログの護衛の失敗によって、
間違いなく死んだのだから。
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