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王子を敵にまわした俺を、悪女と呼ばれる令嬢だけが笑った

作者: 秘色
掲載日:2026/05/18

 王城、白金の間。天井まで届くステンドグラスから差し込む陽光は、本来なら厳かな美しさを際立たせるはずだった。


 だが今、この広間を満たしているのは、一触即発の殺気と、甘ったるい香水の匂い、そして一人の男の身勝手な怒声だった。


「レイスフィールド! 貴様、まだ黙り込むつもりか! この往生際の悪さ、まさに腐り果てた魔術師の鑑だな!」


 一段高い玉座の横で、第一王子アルベスタが顔を真っ赤にして叫んだ。その指が指し示す先。大理石の床に片膝をついているのが俺、レイスフィールド・ヴァン・クロムウェルだ。


 俺は視線を上げず、冷徹なまでに落ち着いた声で返した。


「……殿下、何度申し上げても答えは同じです。私はその時刻、北域結界の緊急修復に当たっておりました。報告書も魔法師団の副官が受理しております」

「黙れ! 貴様の部下などいくらでも口封じができるだろうが!」


 アルベスタは吐き捨てるように言い、隣で震える小柄な娘の肩を抱き寄せた。

 フィオナ。平民出身でありながら、稀少な治癒魔法を使えることで()()と祭り上げられ、王子の寵愛を一身に受けている女だ。


「フィオナ、怖がることはない。さあ、皆の前で真実を話してくれ。この冷酷な魔法師が、君に何をしようとしたのかを」

「……はい、アルベスタ様。……あの日、私が温室で祈りを捧げていた時です。……レイスフィールド様が、背後から音もなく現れて……『お前のような小娘が聖女など、不愉快だ』と。そして、氷のナイフを私の首筋に突き立てたのです……」


 フィオナは大きな瞳に涙を溜め、か細い声で訴えた。

 広間を取り囲む貴族たちの間に、ざわめきが広がる。


「なんてことだ……あの、氷壁の魔師団長が……」

「平民上がりの聖女様を妬んでのことか。魔力が高いだけの平民風情が、増長しおって」

「やはり戦場育ちの男は血なまぐさい。王室の害毒だ」


 昨日まで俺に予算の増額を擦り寄り、祝いの酒を贈ってきた連中の言葉とは思えない。俺は静かにフィオナを見据えた。


「フィオナ様。一つ伺いたい。私の氷のナイフが首筋に触れたとおっしゃいましたが、それだけの至近距離で殺意を向けられながら、なぜ貴女の肌には凍傷一つ残っていないのですか?」

「それは……っ、私が必死に聖なる魔力で抵抗したからですわ! 貴方の凍てつくような冷気、今でも思い出して震えが止まりませんの!」


 フィオナはわざとらしく身を震わせ、王子の胸に顔を埋めた。その瞬間、俺は見た。彼女の口元が、わずかに吊り上がるのを。


 ──なるほど、そういうことか。


 魔力資源の配分において、聖女の茶番に予算を回すことを拒否し続けた俺は、彼女にとって排除すべき最大の障壁だったわけだ。


「聞いたか、レイスフィールド! 聖女の清廉な魔力が、貴様の邪悪な魔法を退けたのだ! これ以上の証拠が必要か!」

「……証拠。それはあまりに主観に満ちた言葉ですな、殿下」

「貴様ぁ! まだ貴族の端くれとしての矜持を持たぬか! 衛兵! この反逆者を捕らえよ! 魔力封じの枷をはめ、地下牢へ叩き込め!」


 アルベスタの怒声とともに、重装備の騎士たちが一斉に俺を取り囲む。

 鋼の擦れる音が静かな広間に不気味に響いた。


 俺は腰の魔杖に手をかけようとし──止めた。ここで抵抗すれば、それこそ反逆の意思ありと見なされる。だが、このまま連行されれば、待っているのは()()を装った処刑だろう。


(……詰みか)


 この国のために、十代から戦場を駆け巡り、幾多の返り血を浴びて守り抜いてきた結果がこれだ。

 虚脱感と、冷めた怒りが胸の奥で渦を巻く──その時だった。


「ふふ……あははははは! おかしくてお腹が痛いわ!」


 鋭く、そして鈴を転がすような、あまりに不敬で場違いな高笑いが広間に響き渡った。


 一瞬で静まり返る一同。全員の視線が、壁際に一人で立っていた女性に集まる。


 夜の闇を溶かしたような漆黒のドレス。燃えるような真紅の髪を、扇で隠すこともせず傲然と肩に流している。


 パルベルラ・ド・ラ・ヴァリエール公爵令嬢。

 王国の三大公爵家の一つ、ヴァリエール家の至宝でありながら、その苛烈な性格から『社交界の猛毒』『悪女』と恐れられる女。


「パルベルラ……。何の真似だ、これは厳粛な裁きの場だぞ」


 アルベスタが不快そうに顔を歪める。彼女はかつて王子の婚約者候補だったが、そのあまりに強すぎる魔力と傲慢な態度に王子が恐れをなし、白紙になった経緯がある。


「ええ、存じておりますわ。ですが殿下、喜劇を見せられて笑わないほど、私は不作法ではありませんの」


 パルベルラは優雅な所作で一歩前へ出た。彼女が歩くたび、周囲の貴族たちが波が引くように道を開ける。

 その瞳は、獲物を定める猛禽のような鋭さを持っていた。


「喜劇だと?」

「ええ。国一番の盾であり、稀代の魔導の天才を、そこの泥人形のような女の涙一つで葬ろうとする。これ以上の喜劇がこの世にありまして? 殿下、貴方の脳内はいつからお花畑に植え替えられたのかしら?」

「貴様……! 公爵令嬢といえど、今の発言は捨て置けんぞ!」

「あら、怖い。でも、真実を指摘されて怒るのは子供のすることですわよ」


 パルベルラは俺の目の前まで来ると、ふわりとドレスの裾を揺らして屈み込んだ。至近距離で、彼女の香りが鼻をくすぐる。

 それは血の匂いに似た、濃厚な薔薇の香りだった。


「レイスフィールド様。貴方、あんな大根役者の嘘に、律儀に正論で返して差し上げるなんて、案外お人好しなのね」

「……パルベルラ嬢。貴女には関係のないことだ」

「関係なくありませんわ。私はね、無能が有能をなぶり殺しにする光景が、虫唾が走るほど嫌いなのです」


 彼女は俺の頬に、白く細い指先を這わせた。その指は驚くほど熱く、かすかに紫色の火花が散っている。


 雷属性の極致──彼女の魔力が、俺の氷の魔力と触れ合い、パチリと音を立てた。


「レイスフィールド様。提案がありますの」


 彼女はアルベスタの方を一度も見向かず、俺の瞳だけをじっと見つめて囁いた。


「この退屈で、無能で、腐りかけた国を、二人でめちゃくちゃにしてしまわない? 貴方の氷で世界を凍てつかせ、私の雷で既存の秩序を焼き払うの。……どうかしら、私の騎士になってくださらない?」


 それは救済の手などではなかった。地獄の底から誘いかける、美しき悪魔の契約だった。


 俺は、初めて口角を上げた。十五年、王家に捧げてきた忠誠心が、音を立てて崩れ去る。


「……悪くない提案だ。パルベルラ嬢」


 俺は彼女の差し出した手を取り、その甲に恭しく唇を寄せた。


「貴女の望むままに。……俺の魔力は、たった今から貴女のものだ」



 ◇ ◇ ◇



「レイスフィールド様が、私のものに……。ふふ、ふふふ、あはははは!」


 パルベルラの高笑いが再び広間に響き渡った。今度は先ほどのような嘲笑ではない。望む玩具を手に入れた子供のような、純粋で残酷な歓喜の響きだ。


 俺の手が彼女の白手袋に触れた瞬間、パチパチと紫色の電火が俺の指先を焼いた。拒絶ではない。彼女の魔力が、俺という存在を()()しているのだ。


「な、何を……何を勝手なことを言っているのだパルベルラ! レイスフィールドは反逆者だぞ!」


 アルベスタ王子が、震える指で俺たちを指差した。その横でフィオナが「ひっ!」と短い悲鳴を上げて王子の袖に縋り付く。


「殿下、そんな……。パルベルラ様までレイスフィールド様と共謀なさるなんて。私、怖くて……」


 その言葉に、パルベルラがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの歓喜が嘘のような、底冷えする蔑みが宿っている。


「黙りなさい、泥人形。貴女のその耳障りな声を聞くたびに、この広間の空気が汚染されていくのが分からなくて?」

「ど、泥人形……!? パルベルラ様、あまりに酷いですわ!」

「あら、事実でしょう? 聖女の力だなんて、そんな不安定で出力の低い治癒魔法、私なら庭師の怪我を治すのにも使いませんわ。そんなものに頼らねば威厳を保てぬ殿下も殿下なら、その程度の嘘に騙されたフリをする周囲の貴族も貴族……ああ、吐き気がする!」


 パルベルラは扇を広げ、優雅に、だが苛烈に言い放った。貴族たちが一斉に顔を赤くし、あるいは青くして沈黙する。


 彼女の実家であるヴァリエール公爵家は、王国の魔導回路の半分を支配している。彼女一人を敵に回すことは、国の魔導インフラを敵に回すのと同義だった。


「パルベルラ、貴様、ヴァリエール公爵家を潰す気か! 父上も黙ってはおられんぞ!」

「父? ああ、あの保身しか頭にない置物のことかしら。どうぞお好きなように。私はあんな家、今この瞬間をもって捨てますもの」


 彼女はさらりと言ってのけた。そして俺を見つめ、陶酔したような笑みを浮かべる。


「ねえ、レイス。貴方の氷壁、近くで見ると本当に美しいわ。この至近距離にいるだけで、私の雷が歓喜に震えている。ねえ、この男たち、全員凍らせてしまってもいいかしら?」

「……パルベルラ嬢。貴女の騎士になった以上、その望みは叶えたいところだが」


 俺は立ち上がり、彼女の隣に並んだ。騎士たちが一歩、後ずさる。俺一人の魔力でも手に負えないというのに、そこに()()()()()()と称されるパルベルラが加わったのだ。戦力差はもはや絶望的だった。


「今はまだ、こいつらの血でこの場を汚すのは惜しい。俺たちの門出にしては、少々見苦しい連中ばかりだ」

「あら、それもそうね。レイス、貴方って意外とロマンチストなのね?」

「実利を考えてのことだ。ここで全員殺せば、追っ手の処理に時間を取られ、美味しい夕食にありつけなくなる」

「ふふ、合格よ。その冷徹さ、大好きだわ」


 二人の会話を無視して、アルベスタが絶叫した。


「衛兵! 何をしている! 構わん、二人とも斬り捨てろ! 反逆だ、明白な反逆だ!」

「殿下、落ち着いてください! 相手は魔法師団長と、あのパルベルラ様です。迂闊に近づけば──」

「うるさい! 行け! 行かんか!」


 王子の乱心に近い命令に、数人の騎士が意を決して突き進んできた。俺は魔杖を抜くこともせず、ただ一歩、前に出た。


「下がっていろ、パルベルラ嬢。貴女の雷で焼けば、死体が残らない」

「あら、死体なんてゴミと同じだわ。でもいいわ、貴方の『氷』、見せてくださる?」


 俺は床に手を触れた。瞬間、大理石の表面に結晶が走り、一瞬で純白の世界が広間を覆い尽くす。


凍てつくゆりかご(リーズ・クレイドル)


 殺傷力はない。だが、一度触れれば筋肉の動きを停止させ、感覚を奪う拘束魔法。突き出された剣が空中で止まり、騎士たちが彫像のように固まった。


「な……っ、魔法の発動に詠唱も陣もなしか!?」

「……殿下、貴方は忘れているようだ。俺がなぜ二十代で師団長に就いたのか。そして、なぜ貴方の父である国王陛下が、俺にこの地位を与えたのかを」


 俺は凍りついた騎士たちの間を縫って、王子の座る段上へと歩を進めた。

 アルベスタは腰が抜けたように玉座に倒れ込み、フィオナは真っ青な顔で震えている。


「俺がいたから、この国の国境は一度も破られなかった。俺がいたから、貴方は一度も戦場へ行かずに済んだ。……その重みを、今から思い知ることになる」


 俺は王子の鼻先で指を鳴らした。パキリ、と小さな氷の粒が弾ける。


「レイス、そろそろ行きましょう? 掃除の時間は終わりよ」


 パルベルラが退屈そうに俺を呼ぶ。彼女の指先からは、今にも暴発しそうなほど高密度の紫雷が漏れ出していた。


「……ああ。行こう、パルベルラ嬢」

「ええ。私たちの物語は、この汚らわしい城の外から始まるの。……さあ、道を開けてくださる? 邪魔をするなら、今度は消し炭にするわよ?」


 彼女が優雅に歩き出すと、氷に縛られていない者たちも、そのあまりのプレッシャーに耐えきれず、蜘蛛の子を散らすように壁際へ避けた。


 断罪されるはずだった俺と、嘲笑われるはずだった悪女──。


 俺たちは誰一人として振り返ることなく、王城の正面大扉へと向かった。背後から聞こえるアルベスタの無様な叫び声は、もう、心地よい風の音にしか聞こえなかった。



 ◇ ◇ ◇



 氷に閉ざされた謁見の間。静寂を破ったのは、パルベルラの乾いた靴音だった。


「さて、レイス。このまま正面からお(いとま)してもよろしいのかしら? それとも、裏口からコソコソと逃げるのがお好み?」


 彼女はまるで夜会の帰り道を相談するように、軽やかに問いかけた。背後では、足元を凍らされた騎士たちが「っ、足の感覚が……!」「魔力が吸い取られる!」と悲鳴を上げている。


「パルベルラ嬢。俺が裏口を選ぶような性格なら、そもそもあんな王子に正論を吐きはしない」

「ふふ、合格。やっぱり貴方はそうでなくては」


 パルベルラは満足げに目を細めると、正面の重厚なオーク材の扉を見据えた。そこには、騒ぎを聞きつけた後続の近衛兵たちが、盾を並べて防衛線を築いているはずだ。


「おい、レイスフィールド! 待て、行かせるか! 貴様ら、国家反逆罪だぞ! 追討令を出してやる、地の果てまで追い詰めて処刑してくれるわ!」


 玉座の前で、アルベスタが震える声で叫び続けている。俺は足を止め、肩越しに冷ややかな視線を投げた。


「追討令、結構だ。だが殿下、一つ忠告をしておく。俺という氷壁を失ったこの国に、北の魔獣の群れを止める(すべ)があると思っているのか? 聖女様の祈りとやらで、魔獣が大人しくなるといいな」

「な……っ!」


 アルベスタの顔が、今度は恐怖で土気色に変わった。彼は今ようやく、俺を排除したことの()()()()()()に気づいたのだ。


「レイス、あんな男にかまっている時間は無駄よ。さあ、道を。私の雷が、少しばかり暴れたがっているわ」


 パルベルラが俺の横に並ぶ。彼女の周囲の空気が、高密度の電気を帯びてパチパチと弾けた。


「了解した。……露払いは俺がする」


 俺は魔杖を突き出し、廊下へ続く扉に向けて魔力を解放した。


氷の奔流(アイシクル・トレント)!』


 爆音と共に、扉を突き破って巨大な氷の塊が廊下へ溢れ出す。盾を構えていた近衛兵たちは、その物理的な質量と極寒の波動に押し流され、一瞬で通路の両脇へと排除された。


「素晴らしいわ、レイス! まるで冬そのものが進軍しているみたい!」

「お褒めに預かり光栄です。次は貴女の番だ、パルベルラ様。城門の結界が起動しています」


 正面玄関の先、城壁に設置された対魔術結界が黄金色の輝きを放ち、俺たちの退路を断とうとしていた。それは王国が誇る最強の守護術式だ。


「あら、そんな古臭い術式。……私の前で、そんな色を晒すなんて生意気ね」


 パルベルラが右手を天に掲げた。彼女の指先から、紫黒色の雷光が螺旋を描いて立ち上る。広間中のシャンデリアが共鳴して震え、パリンと音を立てて砕け散った。


「焼き尽くせ、『神鳴の断罪ジャッジメント・ボルト!』


 落雷──。


 城内であるはずなのに、激しい閃光が網膜を焼いた。黄金色の結界は、彼女の雷に触れた瞬間、ガラス細工のように粉々に粉砕された。


 それどころか、厚さ一メートルはある城門そのものが、跡形もなく消滅していた。


「……やりすぎではないか? 門の修理代も馬鹿にならんぞ」

「いいじゃない、退職金代わりに置いていってあげるわ。派手な方が門出に相応しいでしょう?」


 煙が立ち込める中、俺たちは悠然と城の外へと踏み出した。城門の前には、一台の漆黒の馬車が待機していた。御者台に座る男は、ヴァリエール家の紋章が入った制服を着ているが、その眼光は明らかに堅気ではない。


「お嬢様。……と、これは。まさか本当に魔法師団長を引き抜いてこられるとは」

「私の目に狂いはないと言ったでしょう、セバス。さあ、出しなさい。行き先は決まっているわね?」

「はっ。嘆きの廃嶺、最果ての魔城へ」


 俺はパルベルラに手を貸し、馬車の中へとエスコートした。馬車が走り出す直前、俺は一度だけ、遠ざかる王城を見上げた。


「……未練かしら?」


 ふかふかの座席に座ったパルベルラが、扇の影から覗く瞳で俺を試すように聞いた。


「いいや。ただ、あの城にいた頃よりも、今の方がずっと空気が美味いと感じている自分に驚いているだけだ」

「ふふ、いい答えだわ。これからは、もっと美味しい空気を吸わせてあげる。……地獄の底まで、私の隣についてもらうわよ、レイスフィールド?」

「……ああ、分かった。パルベルラ嬢」


 馬車は夕闇の中、王都の喧騒を置き去りにして加速した。背後では、混乱に陥った王城から、鳴り止まない警鐘の音が響き続けていた。



 ◇ ◇ ◇



 王都を離れて十日。馬車が辿り着いたのは、地図上では黒く塗り潰された()()()()()の頂だった。


 そこには、かつて『狂王』と呼ばれた魔導士が築き、今は魔物の巣窟と化した古城が、骸骨のように聳え立っていた。


「……ここか。なるほど、悪女の隠れ家には相応しい場所だ」


 馬車を降りた俺は、冷たい北風に吹かれながら城を見上げた。空は年中灰色の雲に覆われ、麓からは魔物の咆哮が風に乗って聞こえてくる。パルベルラは、泥濘んだ地面を気にする様子もなく、楽しげに笑った。


「あら、意外と素敵な物件でしょう? 少なくとも、あのカビ臭い王城よりは個性的だわ」

「個性的すぎて、玄関に住み着いているガーゴイルがこちらを狙っているがね」


 俺が杖を軽く振ると、城門の上で不気味に動いた石像が、一瞬で氷像へと変わった。パルベルラはそれを見て、満足げに頷く。


「さっそく仕事をしてくれるのね。いいわ、中に入りましょう。セバス、荷物を運びなさい」


 城の内部は、予想通り荒れ果てていた。埃まみれの絨毯、壊れたシャンデリア。だが、建物の骨組みそのものには、強力な魔導回路が埋め込まれているのが見て取れた。


「レイス、貴方にこの城の()()を任せたいの」


 パルベルラは、城の中央にある広大なホールに立つと、床の埃を扇で払った。そこには巨大な魔法陣が刻まれていた。


「ここに貴方の氷の魔力を流し込んで。この山一帯の気温を制御し、侵入者を拒む永久的な結界を張るのよ。……できるかしら?」

「誰に言っている。俺は師団長時代、国境三千キロの結界を一人で維持していた男だ」

「頼もしいわね。じゃあ、私はその結界に『雷の神経』を通すわ。触れるだけで感電死する、素敵な防衛網を作り上げましょう」


 それからの数日間、俺たちは寝食を忘れて作業に没頭した。俺が氷の術式で城全体の強度を高め、パルベルラが雷の術式で迎撃システムを組み込んでいく。


「レイス! ここの並列回路、少し干渉しているわ。貴方の氷が冷たすぎて、私の雷が伝導しすぎているのよ」

「それは貴女の出力調整が雑だからだ、パルベルラ嬢。もっと繊細に、絹糸を紡ぐように魔力を編め」

「……なんですって? 私に魔力操作の説教をする気? 面白いわ、試しに貴方がやってご覧なさいな!」


 パルベルラは憤慨してみせるが、その瞳は挑戦的な喜びに輝いていた。彼女は確かに『悪女』と呼ばれ、傲慢に見える。だが、その根底にあるのは魔法への純粋なまでの探求心だ。


 王都の令嬢たちが宝石やドレスの話題に花を咲かせている間、彼女はたった一人で、孤独に高みを目指していたのだろう。


「ふう……。どうだ、これで文句はあるまい」


 作業開始から三日目の夜。俺が完成させた冷却核に、パルベルラの雷撃が完璧に同調した。


 瞬間、城全体の壁に青白い光が走り、脈打つような鼓動が始まった。廃城が、俺たちの魔力によって()()を吹き込まれたのだ。


「……完璧だわ。美しいわね、レイス」


 パルベルラは暖炉の前に座り、俺が魔法で作り出した氷のグラスに、持参した極上のワインを注いだ。


「貴方の氷と、私の雷。これほど相性がいいなんて、計算以上だわ。ねえ、あの王子にこれを少しでも見せてやりたいと思わない?」

「いいや。あんな男にこの美しさは理解できない。……豚に真珠、アルベスタに魔導、だ」

「あはは! 貴方、本当は口が悪いのね」


 パルベルラは愉快そうに笑い、俺にグラスを差し出した。火に照らされた彼女の横顔は、戦場で見慣れたどんな宝石よりも眩しかった。


「レイス。貴方はこれから、何がしたい? 王国への復讐? それとも、世界征服かしら?」

「……静かに研究がしたい。それだけだ。だが、貴女がそれを望まないことも理解している」

「ええ。私は退屈が大嫌いなの。この『嘆きの廃嶺』を、世界で一番豊かで、一番危険な場所に変えてやりたいのよ。……付き合ってくれるわね?」

「断る理由がない。俺の居場所は、もうここにしかないのだからな」


 俺たちはグラスを鳴らした。外では猛吹雪が吹き荒れ、魔物たちが城の威容に恐れをなして逃げ去っていく。


 世間から『悪女』と『反逆者』と蔑まれた二人の、狂った、しかし最高に充実した共同生活が、本格的に幕を開けた。



 ◇ ◇ ◇



 平穏は、唐突に地響きとなって破られた。城の監視結界が、山麓を埋め尽くす軍勢の反応を捉える。


 その数、およそ五千。王国の正規軍に加え、教会の聖騎士団までが動員されていた。


「レイス、お客様よ。随分と賑やかなお出迎えだこと」


 テラスで優雅に紅茶を啜っていたパルベルラが、空になったカップを置いて立ち上がった。その瞳には、隠しきれない歓喜の光が宿っている。


「……五千か。俺一人を消すには過剰だが、貴女という『悪女』を捕らえるには心許ない数字だな」


 俺は杖を手に、彼女の隣に並んだ。崖の下では、白馬に跨ったアルベスタ王子が、拡声の魔法を使って声を張り上げていた。


「レイスフィールド! パルベルラ! 罪を認め、速やかに降伏せよ! さもなくば、この『嘆きの廃嶺』ごと、聖なる光で焼き払ってくれる!」


 王子の隣には、祈るように手を組んだフィオナの姿もあった。彼女が杖を掲げると、軍勢を包むように淡い黄金色の結界が広がる。


「見て、レイス。あの女、まだあんな効率の悪い結界を張っているわ。魔力の無駄遣いだって、誰も教えてあげなかったのかしら?」

「教えたさ。だが、彼女は『愛の力があれば術式など関係ありません』と泣いて誤魔化したがな」

「ふふ、傑作ね。ねえ、少し遊んであげましょう? 絶望という名前の教育を」


 パルベルラが指をパチンと鳴らした。それが開戦の合図だった。崖下のアルベスタが剣を振り下ろす。


「全軍、突撃! 聖女の加護がある我らに、反逆者の魔術など恐るるに足りん!」


 兵士たちが喚声を上げて斜面を駆け上がる。俺は一歩前に出ると、静かに杖を地面に突いた。


「……無知とは罪だな。パルベルラ嬢、俺が土台を作る。仕上げは任せるぞ」

「ええ、最高の雷を落としてあげるわ」


 俺は魔力を一気に解放した。


氷河の咆哮グ(レイシア・バベル)!』


 山全体が震動し、兵士たちの足元から巨大な氷の壁が、槍のように次々と突き出した。


 殺すためではない。突撃の勢いを完全に殺し、彼らを特定の場所に()()()ための誘導だ。


「な、なんだこの壁は!? 聖女! フィオナは何をしている!」

「アルベスタ様、そんなっ、私の結界が……凍りついて、砕けて……!」


 フィオナの悲鳴が響く。彼女が必死に維持していた()()()()()は、俺の絶対零度の魔力に触れた瞬間、ただの冷たい霧へと霧散した。


「さあ、レイス。舞台は整ったわね」


 パルベルラが天を仰いだ。彼女の赤い髪が逆立ち、周囲の空気が強烈なオゾン臭を放ち始める。


「見てなさい。これが、貴方たちが『悪女』と蔑んだ女の、本当の輝きよ!」


 彼女が両手を広げた瞬間、空を覆っていた灰色の雲が渦を巻き、真っ黒に変色した。


『神鳴れ、八重の紫電ヴァイオレット・ノヴァ!』


 直撃──。


 轟音とともに、紫色の巨大な雷柱が八本、正確に軍勢の中央へと降り注いだ。大地は爆ぜ、衝撃波だけで五千の兵の半数が転倒し、持っていた武器が帯電して弾け飛ぶ。


「ひ、ひいぃぃぃっ! 化け物だ! あんなの魔法じゃない!」

「助けてくれ! 腕が、腕が痺れて動かない!」


 先ほどまでの士気はどこへやら、軍勢は一瞬でパニックに陥った。俺は空中に氷の足場を形成し、呆然と立ち尽くすアルベスタの目の前へと降り立った。


「な……レイスフィールド……貴様、まだそんな力が……」

「殿下。貴方はフィオナの甘い言葉に酔い、本質を見失った。国を守る力とは、祈りや愛などという不確かなものではない」


 俺は杖の先をアルベスタの喉元に突きつけた。その先から伸びた薄氷が、王子の豪華な鎧をジリジリと凍らせていく。


「圧倒的な、研鑽の果てにある技術だ。……俺とパルベルラ嬢が、この半年でどれだけの術式を組み上げたと思っている?」

「あ、あう、あ……」

「レイス、殺してはダメよ?」


 背後から、雷を纏ったパルベルラがゆっくりと浮遊して降りてきた。彼女はフィオナの元へ歩み寄ると、その顎を扇で強引に持ち上げた。


「……ねえ、泥人形さん。貴女の『愛』とやらで、この凍りついた兵士たちを救ってみなさいな。できなければ、貴女が一番嫌っている『無能』の烙印を、その額に焼き付けてあげるわ」

「う……うああああああん! 助けて、アルベスタ様ぁ!」


 フィオナはついに聖女の仮面を脱ぎ捨て、子供のように泣きじゃくりながら地面に伏した。その無様な姿に、兵士たちの視線が冷たく突き刺さる。


「……見苦しいな。殿下、兵を引くがいい」


 俺は杖を引き、凍りついた地面を融解させた。


「次にこの山を汚せば、その時は王都まで凍らせに行く。……パルベルラ嬢、戻ろう。お茶が冷めてしまう」

「ええ、そうね。こんな退屈な相手、もう飽きてしまったわ」


 俺たちは絶望に打ちひしがれる王子と軍勢を捨て置き、再び城へと背を向けた。背後から聞こえるのは、敗北の叫びではなく、もはや俺たちの世界には必要のない、遠い過去の残響に過ぎなかった。



 ◇ ◇ ◇



 喧騒は去った。麓から聞こえていた軍靴の音も、無様な王子の叫びも、今はもう遠い。


 後に残ったのは、俺とパルベルラの魔力が交差したことで生まれた、幻想的なまでに静謐な冬の風景だけだ。


 城のサロン。暖炉では魔導火が青白く燃え、室温を一定に保っている。

 パルベルラは、お気に入りの長椅子に身を投げ出し、長い脚を組んで扇を弄んでいた。


「ふふ……。ねえレイス、あの泥人形が泣き喚いた時の顔、見た? 私、あんなに愉快な光景、一生忘れないわ」

「ああ、見ていたよ。貴女があまりに楽しそうに追い詰めるものだから、少しばかり同情しそうになってしまった」

「あら、嘘を仰い。貴方だって、アルベスタ様の鎧を凍らせている時、口角が上がっていてよ?」


 彼女の指摘に、俺は苦笑しながら氷のデキャンタからワインを注いだ。


「否定はしない。……十五年、あの王家に捧げた時間が、いかに無駄だったかを再確認できた。それは確かに、清々しい気分だった」

「そうでしょう? 尽くすべき相手を間違えるのは、時間をドブに捨てるのと同じだわ。でも、これからは違う。貴方のその強大な魔力は、私が有効活用してあげる。感謝なさい」


 パルベルラは俺からグラスを受け取ると、指先で少しだけ紫の電火を走らせた。キンと音がして、ワインが理想的な温度まで引き締まる。


「……感謝、か。俺を断罪の場から連れ出したことについては、確かに感謝している。しかし、ここでの生活は師団長時代よりも忙しい気がするんだが?」

「当然よ。ここは『王国』なんですもの。貴方は私の騎士であり、宰相であり、そして──」


 彼女はそこで言葉を切り、グラス越しに俺を見つめた。火に照らされたその瞳は、昼間の戦闘時のような苛烈さは影を潜め、どこか熱を帯びているように見える。


「……そして、何だ?」

「ふふ、ご想像に任せるわ。それよりレイス、これからの話をしましょう。追い返した兵たちの何割かは、もう戻ってこないでしょうね。あの惨状を見れば、王都の無能さに嫌気がさす者もいるはずよ」

「ああ。既に数名、腕利きの魔導師がこちらに向かっているという報告が入っている。彼らは王子ではなく、俺の氷壁を信じていた連中だ」

「いいわね。悪女と反逆者の城が、いつの間にか国より豊かな聖域になる……。最高に皮肉が効いていて素敵だわ」


 パルベルラは立ち上がり、窓の外を見下ろした。そこには、俺たちの魔力が生み出したダイヤモンドダストが、星屑のようにキラキラと舞っている。


「レイス。貴方は後悔していない? 私の手を取ったことを。……本当なら、どこか遠くの国で静かに隠居することだってできたはずなのに」


 俺は彼女の隣に立ち、その視線の先にある凍てつく絶景を眺めた。


「後悔? まさか。……俺は、自分の魔力がこれほどまでに自由で、これほどまでに美しいものだと、あの日まで知らなかった。貴女に笑われるまでは」

「あら、私は貴方を笑ったんじゃないわ。貴方を縛り付けていた鎖があまりに安っぽくて、それが滑稽だっただけよ」


 パルベルラが、そっと俺の腕に手を添える。その手は、冷え切った俺の肌を溶かすほどに熱かった。


「……レイスフィールド・ヴァン・クロムウェル。貴方に命じるわ。これから先、世界が私たちを何と呼ぼうとも、貴方だけは私の隣で、私のために魔法を使いなさい」

「命令、謹んで受ける。……パルベルラ・ド・ラ・ヴァリエール。俺の魔力も、この命も、貴女がその不敵な笑みを絶やさないための供物として捧げよう」


 俺は彼女の腰を引き寄せ、二人の影がサロンの床に長く重なった。窓の外、凍てつく嶺の向こうでは、沈みゆく月が、新しい『冬の帝国』の始まりを静かに見守っていた。


「さあ、乾杯しましょう、レイス。世界で一番幸せな、悪女と反逆者のために」

「ああ。……最高の祝杯を、我が主よ」


 氷のグラスが触れ合い、清らかな音が静寂に溶けていった。



 おしまい

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