罪ちゃんと罰くん
放課後の廊下は消毒液の匂いがした。インフルエンザが流行っているせいで、教室の窓は半分だけ開いている。冷たい空気が掲示物の端をめくりながら、教室の扉へ向かって一直線に駆け抜けていく。その風景は、パソコン室にも通ずる公式のようだった。
罪ちゃん──「夏未」から付けられた難儀なあだ名──と呼ばれている女子は、パソコン室の最奥に座っていた。
画面には匿名のメールフォームが映るが、件名欄は空白だった。宛名は、彼女の在籍している高校の教務課。キーボード上の指は凍りついたように止まっていた。
「続けねえの?」
背後から声がした。振り向くと、罰くん──罰ゲームの告白相手にされがちなことから付いた最悪のあだ名──がいた。同じクラスの異なるグループに属する、いわば「挨拶程度の隣人」だ。彼は,、ガムを噛み締めたまま壁にもたれていた。ほのかにミントの香りがして、罪ちゃんはむっと表情を引き締める。彼はポケットに手を突っ込んだままだった。
「……なんでいるの」
「掃除当番。受験のあれこれで先生に呼ばれてたから、普段より遅れてんだ。それで、こっちも質問していいか?」
「ダメ。私情ってやつだよ」
「文面はそうじゃなさそうだ」
罪ちゃんは画面を閉じようとして、閉じなかった。罰くんは近づいてこない。ただ、少し黙ってから首を傾ける。
「その内容だと……告げ口?」
「違う」
「じゃあ何」
沈黙。なんとか彼女は言葉を絞る。
「嘘ついてる人がいるだけ」
「へえ」
それ以上、罰くんは聞かない。パソコンのカーソルが点滅する中、罪ちゃんは小さく息を吸って、再び文章を打ち込んでいく。彼がいようといまいと、やるべきことは変わらなかった。
日付と内容。証拠になる写真の添付。淡々と、事実だけを連ねていく。もちろん、ここで言う事実とは客観的真実性を持つもので、罪ちゃんの主観が言い聞かせている代物ではない。
しかし、全ての文・画像・様式を整えた、その直後。
彼女の指は送信ボタンの上で止まった。
「……やめとけば?」
唐突に、罰くんが言った。
彼女は振り向く。
「なんで?」
「別に。面倒くさそう」
「面倒って?」
「バレたら面倒だし、バレなくても面倒」
罪ちゃんはふっと笑って顔を背ける。
自分でもその笑みの意味は分からなかった。
「バレないよ」
「そういう問題じゃないって」
その言い方が、少しだけ優しかった。
彼女は視線を罰くんに戻す。
「……推薦だよ?」
「うん」
「あの子さ……ボランティアの経歴とか水増ししてるの。他の子のも持ち出したり……知ってた?」
「まあ、風の噂で。俺らの中では行き過ぎた陰口くらいに思われてる。でも、偉いヤツの娘にあれこれ追求しようなんて思えないね」
罰くんはカタコトで「娘」と言った。特段あげつらうつもりはなかったが、自分たちの年代では馴染みのない言葉だった。
「……知ってて黙ってたの?」
「うん」
彼女は唇を噛む。
「ずるいじゃん」
罰くんは肩をすくめる。
「世の中そんなもんだろ」
「だからって」
カーソルはまだ、何かを急かすように点滅している。……実のところ、彼女は誰かに言ってほしかったのだ。やめろ。放っとけ。お前がやることじゃない、と。
罰くんは言わない。代わりに、ゆっくりと目を逸らしていた。その横顔を見て、罪ちゃんの中で何かが立ち上がりかけたが、すぐに自分の本音も同じだと気づき、何も言えなかった。
次の瞬間、彼女は無意識的に送信を押した。
送信完了の表示が出る。何も音は鳴らずに、ただ、それだけだった。
罰くんは小さく息を吐いた。
「正義感つよっ」
「違う」
「何が」
「……違う」
彼女はもう画面を閉じていた。それから電源を乱暴に切ると、風に押されるようにしてパソコン室から飛び出した。罰くんは揺れる前髪の隙間から、ただ消えた後ろ髪の残像を追っていた。
三日後、その女子は職員室に呼ばれたらしい。
昼休み、ざわつく教室での噂で聞いたのだった。
「推薦取り消しだって」
「マジ?」
「内部告発らしいよ」
「えー、こわ。まさかアンタ?」
「バカ言わないでよ」
罪ちゃんは窓際の席で現代文の教科書を開いていた。ページは一向に進んでいない。罰くんは後ろの扉に近い席で、スマホをいじっているふりをしていた。興味のないニュースサイトを行ったり来たりだった。
放課後、またもやパソコン室にて。窓は閉まっていたが、暖房が壊れているせいで肌寒さは健在だった。彼らは約束も無しに、自然とその場に集っていた。何となく、最奥のパソコン前に横並びで座ってみる。冷たげな白色LEDが二人を照らす。偶然の再会を驚く間もなく、罪ちゃんは呟いた。
「来なくなったね」
「ああ」
「今日も休みだって」
「ああ」
彼女は机に肘をついて俯いたまま、動かない。
「やりすぎだったかな」
独り言のようなトーンだった。罰くんはしばらく考えたように息を吐いた。本当に考えたのかどうかは、本人も知り得なかったが、本能的に間隙を欲していた。
「間違ってはないだろ」
「……だよね」
「ルール違反だし。俺も推薦だったらキレるな」
「うん」
……沈黙。
窓の外で「もういっちょ!」と叫ぶ声がする。最近話題のソフトボール部の後輩女子だろう。顔はモデルのように端麗なのに、体格は全盛期のアスリートみたいで、そのギャップがかえって人気を博しているらしい。もちろん、この二人には別世界の話だった。
罪ちゃんはぽつりと言った。
「私、正しかったよね?」
罰くんは苦々しく顔を上げる。
「それ、俺に聞く?」
「だって」
「自分で決めたんだろ」
「……そうだけど」
気づけば、彼は少し苛立った声を出していた。
「正しいって言えば楽になんの?」
罪ちゃんは黙る。彼女は初めて、自分の瞳が揺れていることに気づいた。気づいただけで、前からこうだったのかもしれないと思うと、なんだか胸がきゅっと締まるようだった。
「別に、あの子が嫌いだったわけじゃないし」
あの子が朝礼で笑っていた顔が、ふと浮かんだ。普段は恐い先生に褒められたとき、少し照れていた顔。罪ちゃんがデザインしたクラスTシャツを着て、文化祭のライブステージを見ていた背中。
特段親しいとは言えなかった。
でも、あれが全て嘘だったとは、どうしても思えなかった。
「じゃあ何」
「…………ずるいのが嫌いなんです」
「ほんとに?」
彼女は答えない。すると何かを決めたように、罰くんは立ち上がる。
「俺さ」
「……急に何?」
「止められたと思う」
「は?」
「送る前」
彼はあの日のように壁に寄りかかる。今日はミントの臭いはせず、クリーニング後の制服の匂いだけが漂っていた。罪ちゃんの弟のブレザーも、確かこんな雰囲気の香りだった。
「あのとき……本気で言えば、多分やめただろ」
罪ちゃんははっとして、即座に首を振る。
「やめないよ」
「嘘つけ」
「やめない」
「じゃあなんで、あんな顔してた?」
言葉が詰まった瞬間、彼女は思い出す。
送信ボタンの上で止まった指のことを。
「……知らない」
「止めてほしかったんだろ」
「違うっ」
声が少し大きくなる。
相対的にソフトボール部の声が遠くへ去っていく。
「違う!」
罰くんは乾いたように少し笑った。
「……じゃあ俺、なんなんだよ」
「え?」
「見てただけじゃん」
彼は天井を見る。
「何が『罰くん』だよ」
罪ちゃんは意味が分からない顔をする。
「……あだ名でしょ」
「お前が罪なら、俺は罰だろ」
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
彼はドアに向かって歩いて行く。部屋を去る前、彼はぽつりと呟いた。その表情は影に紛れていたが、ひどく平淡なトーンだった。
「俺、共犯だから」
「は?」
「止めなかったし。だから半分、俺のせいだ」
罪ちゃんは首を振る。
「違うよ」
「違わない」
「私が送ったんだよ」
「それだよ。俺は見てただけなんだ。悪いことしたわけじゃないけど……責任から逃げてたんだ」
それだけ言って、彼は出ていった。視聴覚室には冷たい空気だけが残る。罪ちゃんは自分が、無数の分子群の一つと化したように錯覚していた。このまま溶けて吹き去れば、どんなに楽だろうと思っていた。少しだけ目をつむった後、彼女も鞄を背負い、確かな足取りでパソコン室を去った。もちろん、電気を消すのは忘れずに。
一週間後、ホームルームで担任が短く告げた。
「……さんは家庭の都合で転校することとなりました」
あと数ヶ月で受験・卒業だという時期での転校。明らかに不自然なはずなのに、理由はそれだけで済まされた。もちろん、誰も深く追及しなかった。ただ、廊下の隅でヒソヒソと陰謀論をささやくのみだった。後は自分の勉強に戻る。彼らのスタンスは、某女子生徒が転校しようとしまいと、大して変わらなかったろう。罰くんの見立てではそうだった。
その後、卒業式は予定通りに訪れた。一台のヒーターの努力虚しく、体育館は残冬の底冷えに支配されていた。校長に名前を呼ばれ、立ち上がっていく生徒たちの中には、一つの欠落があった。だが、それは第三者が見れば、自然そのものと見紛うほどの、心の内の些細な穴であった。
式の後、昇降口で罪ちゃんは罰くんに話しかけた。二人は同じ大学へ行くことになっていたが、どうしても、話しかけなければ気が済まなかった。
「終わったね」
罰くんは靴紐を結びながら答える。
「……終わった?」
「いろいろだよ」
彼は気だるそうに立ち上がると、息をついて、罪ちゃんの胸元の花を見やった。赤や桃色、白の小さな造花が、一つの茎にまとまっている。地味な罪ちゃんの前に出て、自身が主役だと主張するようだった。
「……始まるだけだろ」
「何が」
「また、こういうつまんない日常が」
罪ちゃんはその意図が分からないまま、少しだけ笑って聞いた。
「私、またやるかな……『正しい』こと」
罰くんは少し考えてから言う。
「やるだろ」
「そっか」
「そのたびに、俺みたいなのが近くにいる」
「何それ」
「止められないやつがさ」
彼女は、少しだけ目を細める。
「じゃあ今度はちゃんと止めてよ。止められた後に、送るから」
罰くんは答えず、ふいと顔を背けた。
外はまだ寒波に覆われている。二人が並んで校門を出ると、冷たい風が一筋、頬を掠めて過ぎていった。
影だけが少し長い。どちらが罪で、どちらが罰かは、もう分からないままだった。




