【短編小説】喫茶 温森
新幹線を降りて背筋を伸ばす。
だが降りた東京駅のあまりにも多い情報量を、おれの脳みそは処理しきれずにフリーズする寸前だった。
利用客の少なさから駅蕎麦屋さえ閉店してしまったような地元とは雲泥の差で、とにかく人が多いし広告や看板などの文字や色が暴風雨みたいに押し寄せてくる。
目眩だか酩酊だか、千鳥足でふらふらと在来線に乗って目頭を揉んだ。
新幹線を降りてここまでの五分で、地元で過ごした5日分くらいの情報量が脳みそを天真爛漫に走り回っている。
いまでも車内の会話が耳から無遠慮に入り込む。まるで実家の隣に住む爺さんだ。こちらのプライベートを尊重しないと言う意味では、東京も田舎も質こそ違えど同じだと思える。
どうにか自分が暮らす街に着いて電車を降りると、マンションの近くに知らない店が明かりをつけていた。
「何の店だ?」
近づいてみると、それは喫茶店のようだった。それもカフェと言うよりはレトロな純喫茶と言った感じで、興味を引かれたおれは木製のドアを押して入ってみる事にした。
ドアに付けられたベルが乾いた音をたてて、カウンターの中にいるマスターがこちらに目を向けた。
老紳士と言って差し支えのない容姿のマスターは、濁りのないバリトンボイスでゆっくり「いらっしゃいませ」と言った。
一枚板のカウンター席に着いて店内を見ると、随所にこだわりの見られる落ち着いた内装だった。
おそらく椅子も民藝品だし、ランプシェードも年代物に違いない。電球の光が少し強い気もするが、最近はLEDに慣れてしまったせいだろう。
温もりだと思えば、ちょうど良い明るさに思えてきた。
「素敵なお店ですね。近所に住んでますが、初めて気づきましたよ。いつからですか?」
「ありがとうございます。営業は前からしておりますよ。ご覧の通り地味な店ですので、なかなか気づかれる方は多くはありませんが」
マスターはおれが注文したネルドリップのコーヒーを準備しながら静かに微笑んだ。インスタントとはまるで違ったコーヒーの香りが広がる。
こんな喫茶店がある事にも気づかないほど忙しくしていたのだろうか。
視野狭窄も甚だしい。
おれは何となく恥ずかしい気持ちになり目を伏せた。
一枚板のテーブルに、新芽が出ている。
「マスター、テーブルに木の芽が」
「それもまた、温もりです」
マスターの柔らかな微笑みはおれを納得させた。そうだ、温もりなのだ。
よく見れば椅子にも木の芽は出ていたし、ランプを吊るす電線は蔦が絡まっていた。
そうか、これもまた温もりなのだ。
「お客さま、お手を拝借致します」
マスターの声に顔をあげると、マスターはネルドリップから落ちるコーヒーを両手で受け止めている。
そしてその両手をおれに向けていた。
「こうですか?」
おれもマスターと同じように両手で器の形を作ると、マスターの手サーバーからおれの手カップに温かいコーヒーが注がれた。
そうか、これもまた温もりなのだ。
おれは手を焼くような熱さのコーヒーを、ゆっくりと飲む。酸味と苦味が調和した芳醇な香りが喉を駆け下りていく。
まるで暖かい絹のような感触だ。
思わず見上げた天井のランプはやはり眩しく、なんなら100Wはあろうかと言う熱を放っていた。
「これもまた、温もりか……」
思わず呟くと、マスターは笑って
「それは単に換えが無かったんです」
と言った。
静かな空間には、大量の恥と憤懣が溢れて、おれはそっと手の中のコーヒーを飲み干した。
「温もり……」
臍で茶を沸かすマスターを撲殺したおれは、店に火を放ち暖を取った。
「これもまた温もり……」
そしてどこか知らない場所で、マスターみたいになって店を開こうと思った。
世界には本当の温もりが必要だから。




