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悲しみからの逃避

作者: 寒がり


 最後に怒ったのは、いつだったろう?

 怒りという感情を抱く機会が減った。苛立つ事が絶無とは言わないけれど、感情の洪水は怒りというより悲しみの方へと流れてゆく。水路の形状は変更されて、感情の傾向性が攻撃から内省へと切り替わったのだと思う。


 あの、全身に虫唾が走るような、目の前が真っ白になるような、目に付くものを全て叩き壊したい程に激発する衝動を、久しく感じていない。


 年齢か。社会に適合したのか。それとも、世にいう「自己肯定感」なるものが低下したのか。それらの影響は無視できまいが、結局、期待しなくなったのだと思う。


 天気予報が晴れなので傘を持たずに出たある日、大雨が降った。

 豪雨では無意味な折り畳みを使う気にはならなかった。かといって走るでもなく、濡れて歩きながら、ふと、悲しいと思った。雨に濡れた事が悲しいのではない。晴れ予報に信義して長傘を持たなかった自分が惨めに思われたのだ。


 都会では、ある時期の夕方、スコールが降ることになっているようだ。突発的な現象なのだから天気予報が外れても無理からん。天気予報に責めはない。だから、天気予報を信じた自分が悪い。勝手に信じて、勝手に裏切られたと思って、勝手に悲しむ自分が悪い。何より惨めだ。


 それまで、田舎者の私にとって、天気予報が当たるということは、「どうでもよいこと」ではなかった。言い換えれば、天気予報が当たることは、前提を成していた。それはある種の信念であった。


 実に些細だが、どんな小さな信念でも、それが覆ると負のエネルギーが生ずるのだと思う。妥当しなかった信念、思考上の暫定真実は破棄され、あるいは修正されなくてはならない。その原動力として、不快感が供給される。それは、生き物が生きるために必要なことだ。


 だから、天気予報が酷く外れたとき、ささやかな負の感情が生じたのだろう。かくて生じた負のエネルギーは、怒りという形で排泄される代わりに悲しみとして、耐え難くはないが不快な反響を胸の中で繰り返した。


 爾来、私は、どんな抜けるような蒼穹だろうが日本晴れだろうが、無条件に長傘を持つようになった。悲しいのは嫌なので、天気予報を「どうでもいいこと」に追いやってしまった。

 極端だが、考える事が一つ減る、変数が一つ排除され人生が単純化されるということにはある種の快適ささえ備わっている。


 天気なんて大したことはないけれど、今日までに、天気と同様に多くの物事を「どうでもいいこと」に放り込んでしまった。それが害されると憤慨するに値するほど何かを期待する、こだわる、大切に思うという事をやめてしまった。


 期待の侵害を怒りで押し返す事を止め、けれども悲しいのは嫌なのでそもそも期待する事を止めた。

 大切な人が去ったときでさえ、私は、実のところあの人の快復を期待していなかったのかもしれない。物事の成り行きの理不尽さに対する激しい負の感情は、やはり怒りというより悲しみへと流出して終ったが、寛解への望みが裏切られた悲しみが上乗せされる事はなかったかもしれないと思う。


 一体、何かを憎悪しない人間が、何かを大切にできるだろうか。

 数年来、事あるごとに頭をよぎるこの問いはだんだんと詰問調に、今では殆ど糾弾となって、いつかの雨みたいに降りかかってくる。


 それでいいのか。

 それで、人を名乗れるのか。

 そう問い詰められている。


 逃げ回り続ける事は可能かもしれず、全てがどうでもよいと心から思ったならばその仕事は完遂されるのだろう。それはある種の悟りの境地であり、一つの理想には違いない。けれども、徹底してあらゆる期待を棄却する修行僧の如き覚悟がある訳でもない。


 あるいは、むしろ、怒りが湧き上がらない事に後ろめたさだけでなく、寂しさを感じているのかもしれない。ここに寂しさというのは、孤独という意味ではなく、本来人間が有するはずの熱量、外界からの干渉に抗するホメオスタシスが徐々に失われてゆくことへの本能的な恐怖に近い。


 怒りの放棄は緩やかな生命活動の放棄なのかもしれない。

 少なくとも人間性、生きる意味の放棄、あるいは生の無意味性の承認には違いない。

 期待しない、信じないということは価値の放棄なのだから。


 苦から逃げ回る者は価値を掴み得ず、反対に、価値を掴む者は苦痛に耐えながら怒り続けなくてはならないのだろう。

 どちらかだ。どちらかでしかない。


 今はまだ、二、三の確固たる価値を握りしめている。それが害されれば、私は、怒れるはずだ。全身全霊を賭けて烈火の如く怒れる筈だ。数年前は自明であったその自信は、薄れつつも幸いなことに現存してはいる。


 人である以上、憎悪しなくてはならない。憎悪したいと思う。

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